2006年4月8日から、旧バーゼル司教区内にある、バーゼル、ビエンヌ、ドレモン、そして我がポラントリュイの博物館で始まった一大イベントがある。
タイトルは「Pro Deo」。 旧バーゼル司教区古文書財団主催で、中世キリスト教世界における様々な文化や風習を見直し、現代生活へと繋がる鍵を見出そうという企画である。 ポラントリュイの博物館は、二回に渡ってお話しする「Hôtel-Dieu」−ポラントリュイ旧病院内にある。展示のテーマは「祝い、生活し、祈る」。正に中世の人々の生き様を集約した表現である。
「Hôtel-Dieu」は、直訳すれば「神の館」。そして、現在の言葉では病院である。古来よりキリスト教社会では病気は神様から送られた罰という観念が定着していた。そこで、816年のアーヘン公会議で、司教区は教会の傍に「Hôtel-Dieu」を建設し、病人の治癒回復に寄与しなければならないと決定した。
ポラントリュイ市議会と43名の有産階級者は、初の病院を1406年、サン・ジェルマン門の近くに建設した。有産階級者の多大なる寄付により経営は潤い、資本は膨れ上がり続けた。1598年、大公司教ブラレーによって条例が施行されると、病院は司教の管理下に入った。
ところで、サン・ジェルマン門は、別名「死者の門」と呼ばれていた。この気味の悪い名称は、町から追放されるハンセン氏病患者が黒い服と手袋を身に着け、近寄らないようにと自ら警告するよう持たされた鈴を持って通る場所だったことに由来する。 ハンセン氏病患者専門救済院は12世紀頃から存在していた。ハンセン氏病患者は社会より疎外されていた。伝染病であることはもちろんだが、旧約聖書の記述より受け継がれた「タブー」、神によって与えられる病と考えられていたからである。(注・現代の研究では伝染率は極めて低いと判明し、治療薬もあるが、当時は汚れた不治の病と恐れられていた) ポラントリュイ市内でハンセン氏病患者が発生すると、教会は速やかにブザンソン大司教に使者を送った。大司教の承認を得た上で患者を町から追放し、専門施設に入れた。すべての費用は司教区が受け持った。ポラントリュイでは城壁外に比較的快適な施設があったという資料があり、地名も「Maltière」(病人の住む家)として残っているが、建物があった正確な場所は不明である。
一方、市民病院は1618年‐1648年、三十年戦争によって廃墟となった。軍による占拠、ペストの流行、飢餓などの理由である。17世紀になってから善意ある寄付者のお蔭で再建された。しかし、18世紀半ばに大火災に遭い、「病人には非衛生的で一般市民には危険な場所」という理由で廃院となった。
いつの時代にも寛容な人間はいるものである。1758年9月16日、Jeanne Baptiste Chavé夫人が、すべての財産を病院建築のためにと、遺贈した。有産階級市議会は「ラ・コーティン」と呼ばれていた有産階級者所有の土地を購入し、そこに、ブザンソン生まれの建築家Pierre-François Parisが1761年から4年間かけて病院を建築した。
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