Delmas将軍を再び得たナポレオンは、多国籍同盟軍を相手にリュッツェン、バウツェンの戦いに勝利した。この同盟軍の中にはBernadotte元帥、いや、王位継承者となったBernadotte王子率いるスウェーデン軍の姿があった。彼は「ナポレオン本隊との衝突を避ければ勝てる」という「Bernadotteプラン」を考案し、その後の同盟軍勝利に大きく貢献した。
ナポレオン軍は休戦後の「ドレスデンの戦い」で快勝したが、それが最後の栄光だった。 1813年10月16日から19日にかけた「ライプツィヒの戦い」は大激戦となった。ナポレオン軍15万8000のうち4万人以上、総司令官Bernadotte率いる同盟軍33万のうち6万人以上の死者を出した。この戦いで大敗し、ナポレオンのドイツ支配が終わったため、「諸国民解放戦争」とも呼ばれる。 戦い最後の日、前線で奮闘していたDelmas将軍を大砲の砲弾が襲った。下半身を砕かれた将軍は、二週間生存していたという。 ある日、死の床にあるDelmas将軍を、かつての戦友Bernadotteが見舞った。BernadotteはDelmasに、「体が治ったら私の軍に加わって下さい」と提案した。 「いいえ、決して!」 Delmas将軍は力強く答えた。 「もし私がナポレオンと問題があったとしても、フランスへの不満はありません。私の祖国であるフランスに、常にご奉仕するつもりです。皇帝を裏切る気持ちは少しもありません。祖国に銃を向けるのは私の軍ではありません」 Bernadotteへの痛烈な皮肉を残し、Delmas将軍は間もなく息絶えた。
ナポレオンによりヨーロッパ各国で王位・大公位に就けられていた者は、すべてその地位を失ってしまった。ただ一人、スウェーデンに現存する王朝の初代国王・Bernadotteを除いて…。 1818年にカール14世ヨハンとして正式に国王となったBernadotteは、以前のような国民の人気者ではなかった。彼はスウェーデン語を生涯解さず、反動的な政治を行った。また、祖国フランスの王位をも狙ったが、フランス国内での支持をほとんど集めることができず、実現しなかった。 絶対的権力を手に入れた男は、権力者を嫌って体に刻んだ「王侯に死を」という刺青をどうにかして消し得たのだろうか。 セントヘレナ島での囚人時代のナポレオン語録がある。 「Bernadotteか・・・恩知らずな奴だ。余が出世させてやったというのに。だが、裏切りとは言うまい。奴はスウェーデン人らしくなっただけだ……だから余は奴を恩知らずとして非難するが、裏切り者としてではない」 Bernadotteは1844年に他界した。その16年後に妻のデジレは83歳で亡くなったが、枕の下からかつてナポレオンに宛てて書いた恋文の下書きが何通も発見されたという。死ぬまで愛した男ナポレオンの栄枯盛衰を、運命に翻弄されながら見守り続けていたスウェーデン王妃の悲しい逸話である。
パリの観光名所の一つ、凱旋門。この門の東側、シャンゼリゼ通りに面した支柱16番にDelmas将軍の名前は刻み付けられている。戦死した他の将軍や連隊長と共に。 Delmas将軍研究家のVacher氏は語る。 「コレーズはDelmasを誇りに思うだろう。ヴェルサイユがHocheを、シャルトルがMarceauを、le Puy-de-D ômeがDesaixを誇りに思うように。Delmasは彼らと同じ類いの兵士だ。戦争と愛国への美徳を持ち、かつ無私無欲であるような」
Last Update: Jan.23,2006
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