Salut! ハイジの国から【第15話】 まえ 初めに戻る つぎ

ポラントリュイだより:駅物語《その1》

 ユダヤ教会(シナゴーグ)がかつて建っていた「シナゴーグ通り」と垂直に交わっているギュスターヴ・アムウェグ通り(Rue Gustave Amweg)。
 ギュスターヴ・アムウェグ(1874−1944)は歴史家・教師・執筆家であり、ジュラに貢献した土地の名士であったと言えるが、 古くからの住民はむしろ「駅通り」(Chemin de la Gare)という旧称・現通称をこよなく愛している。


▲1898年のポラントリュイ駅
電線が見えるが、今はもうない。
現在、ポラントリュイ市の電線は、地下に埋められている。
(当時のポストカードより)

 
 「駅通り」は文字通り訳すと「駅への道」。その名のとおり、駅前と町の中心街・旧市街の入り口を結んでいるが、むしろ裏道に当たる。 また、「ベル・エポック」と呼ばれるブルジョワ文化盛んな1900年前後に建設された屋敷が建ち並ぶ、閑静な住宅地でもある。ポラントリュイ駅の最盛期は、正に、その時代とぴったり一致し、 前述のシナゴーグ同様、歴史の波にもまれ栄枯盛衰をはっきりと刻んだ一つの記念碑的建築物と言えよう。


 19世紀半ば、鉄道建設ラッシュに華やぐスイスの中で、ジュラ地方は完全に取り残されていた。当時、ジュラはベルン州下にあり、 他の州との交通網建設を優先させているベルン政府に積極的に働きかけられるジュラ出身の政治家が不足していた。鉄道建設を阻む者はベルン州だけでなく、 ジュラ地方でも保守的な人々、取り分け路線バス・馬車業に関わる人々であった。事態を重く見たポラントリュイ生まれの政治家グザヴィエ・ストックマーは、鉄道建設の必要性を人々に呼びかけ、 州政府にも強硬な態度で働きかけた。
 ストックマー氏は1864年に他界したが、生前の並々ならぬ努力がついに実り、ジュラへの投資に消極的なベルン政府も、1867年の政令により、ジュラ鉄道建設と経済援助を是認した。 氏の名前は通りと中学校に記され、生家はビストロとして残っている。

 
▲現在のギュスターヴ・アムウェグ通り
「かつての駅通り」と添え書きしてある。
隣のお屋敷は1900年以前に建てられ、
現在は、ほぼ自立できる障害者が住むアパートである。

 スローペースの鉄道建設に一気に拍車をかけるきっかけとなった大事件、「普仏戦争」(1870−71)。 ヨーロッパでの主導権を握ろうとしていたフランスの独裁者・ナポレオン3世は、スペイン王位継承問題 (プロイセン国王の遠縁にスペイン王位を与えるという政治家ビスマルクの発議)を懸念し、プロイセンに宣戦布告した。
 プロイセンを主とするドイツ諸邦とフランス間の戦争は、より機動力があり軍備を整えていたドイツの大勝利に終わった。 敗者フランスは、統一を果たしたばかりのドイツ帝国にアルザス全てとロレーヌの一部を譲渡しなければならなかった。

 フランス東部鉄道会社は、重税をかけられるようになったアルザス地方を通る鉄道(ベルフォール―スイス・バーゼル間〉を利用しなくなり、 アルザスを通らずにスイス入国を可能とする鉄道網を急速に発達させる必要に迫られた。この会社の財政・技術援助により、 1872年にはフランス国境の町デル(Delle)(ベルフォール県)―ポラントリュイ間鉄道開通。同年、ポラントリュイ駅開業。そして、ジュラ地方の鉄道網は次々と増えていった。 高架橋やトンネルも同じくフランス東武鉄道会社の援助で開通した。1877年にはかつてアルザス地方への路線を伸ばしていたベルフォールがデル駅と結ばれた。
 これらの目覚しい鉄道網開発により、1913年にポラントリュイ駅を通過する貨物総トン数は、バーゼル、チューリッヒ、ジュネーヴ・コルナバン駅に次いでスイス第4位となった。

 
▲「駅通りにて」
この呼び名に固執している弁護士さん宅である。

家自体は1876年頃建築。屋根裏部屋にはかつて
時計工場のアトリエがあった。

 ポラントリュイの真の「ベル・エポック」は正にこの時代である。
 16 :30にロンドン・ヴィクトリア駅を出た汽車は「ボート・トレイン」に乗って80分でドーヴァー海峡を渡り、 20 :10にはフランス国内を走り始める。翌日の朝にフランス国境の町・デルに到着。 ここからスイスに入国したイギリス人は、昼過ぎには中央スイス観光やスキーを楽しむことができた。 片道約20時間の旅。更に、ベルンを経てシンプロン峠のトンネルを通過すれば、イタリア・ミラノへ。客はイタリア半島各地に散らばり、観光や海水浴を楽しんだことは言うまでも無い。

 〜次回に続く〜


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Last Update: Jan.23,2005