19世紀半ば、ポラントリュイ市在住ユダヤ人社会の間で、シナゴーグ、すなわちユダヤ教会建設の動きが高まった。それまでは、カトリック色強いこの地域でユダヤ教徒に祈りの場所を提供してくれる者も少なく、専任司祭もいなかった。
ユダヤ教徒達はフランスの出身町にまで赴き、祈りを捧げていたようである。
そんな厳しい状況の中、1869年、シナゴーグ建設に向けて管理委員会が発足し、建設資金調達計画に着手した。一度は州政府(当時はベルン州)の援助を確約したものの、 計画倒れになった。そのことについて彼らは多くを語りたがらない。結局、市のユダヤ社会全体が協力し合い、病院や銀行からの借金で何とか建設にこぎつけた。
建立当時、ユダヤ人共同体は秩序が保たれ、積極的に教会の維持に寄与していた。1949年には大規模な改修工事もしている。 しかし、実は1920年代よりポラントリュイ市におけるユダヤ人共同体は衰退の一途をたどっていた。 スイス人への同化が進み、親が子にユダヤ人としての教育を施さなくなってきたこと、若い夫婦が引越し町を出て行ってしまったことなどが原因として上げられるが、 ユダヤ人経営の会社を次々と閉鎖・売却に至らしめた経済危機・市の産業衰退も大いに関係していると言えよう。 ユダヤ教のミサを執り行うためには最低10人の成人男性が必要であるが、1926年以降、ポラントリュイ・ユダヤ教会は、慢性的な信者不足に悩まされるようになる。
「シナゴーグはどうなるのか? ここ数年来、シナゴーグは見捨てられている。
昔は小奇麗だった庭も草が伸び放題で荒れ果てている。建物の表面は剥げ落ち、窓は割れ、鉄格子は破損している。美しい庭木だけが過去の豊かさを物語っている・・・そう昔のことではないのに・・・」
隣人シャンタルは、二年に及ぶユダヤ系家族への聞き込み調査と資料研究の末、1998年、ポラントリュイ市ユダヤ移民に関する論文を書き上げた。彼女の研究結果は、2000年8月、同市博物館において開催されたジュラのユダヤ共同体展に貢献した。
屋根の上に掲げられていたモーゼ「十戒」の石碑は、現在、庭に建て直され、唯一、シナゴーグの名残を留めている。
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