太陽電池と「低い国」と〜民間企業研究者の海外転職記【第31話】
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スケートに興じる筆者
自宅裏手の天然氷の上をスケートする筆者

12年ぶりの天然氷スケート【前編】


天気図
 2008年のクリスマスから年末にかけて、この季節には珍しく風も穏やかで、爽やかに晴れ上がる日が続いた。しかしここは北緯53度、冬至から10日程度では、日照時間も短く、太陽の角度も浅い。晴天による夜間の冷え込みは、日照による気温上昇を上回った。街なかの運河は少しずつ氷が張っていき、水鳥たちは徐々に少なくなる氷の裂け目に集まって、群れを成して寒さをしのいでいた。
 年が明けた最初の週末は、わずかに寒さが緩んだものの、週明けから再び晴天が続き、気温は少しずつ下がっていった。テレビのニュースは、ドイツ国境近くの内陸部では、最低気温が−15度に至ったと伝え、北海に近く比較的気温の高いアルクマールでも、運河の氷が少しずつ厚くなっていった。1997年以来、この地域では厚い氷が張らなかったが、12年ぶりの寒波が、思わぬボーナスをもたらしたようだった。

Avercamp「スケートをする人々のいる冬景色」
「スケートをする人々のいる冬景色」,Hendrik Avercamp(1585-1634)

(アムステルダム国立博物館蔵)


 オランダは、スケート発祥の地と言われる。早くから街なかに運河を張り巡らし、しかも冬は厳寒が訪れる。天然氷と都市生活が密接に結びついていた地域は、他にそれほど多くないだろう。歴史的にはより実用性の高いソリが先に登場したであろうが、実用性より娯楽性の高いスケートは、経済的に比較的恵まれていたからこそ生まれたのだろう。
 オランダの「黄金時代」と呼ばれる17世紀には、当時の風俗を伝える数々の絵画が残されている。中でも、冬の描写を好んだAvercampは、いくつもの作品で、氷の上で楽しそうにスケートで遊ぶ人々の姿を描いている。
 数々の地質調査などによって、17世紀の平均気温は、全地球的に今より何℃か低かったことが明らかになっているが、当時のオランダ人たちは、冬の間凍りついた運河の上で楽しく遊んでいたに違いない。

 今年の新年の休暇の明けた1月5日ごろだったろうか、王立スケート協会から、天然氷の上でのスケートツアーイベントが、全国20余りの会場で行われると発表された。そこらじゅう干拓地だらけのオランダでは、街中といわず郊外といわず、排水用の水路が縦横に巡っているが、そのような水路を巡る10〜200kmのツアーイベントが、1月10-11日の週末に、各地で開催されるというのである。
 また、8日の木曜日には、天然氷の上での100kmレース(1周4km×25週、女子は15周60km)が開催され、普段は人工氷の400mトラックで40〜50kmレースを戦っている強者たちを中心に、12年ぶりの栄冠をかけて争われた。

運河でスケートを楽しむ人々
 筆者の自宅裏の運河も、水曜日辺りから、近所のハイスクールの生徒たちが、昼休みや放課後に氷に乗って遊び始めた。木曜日・金曜日には、何人もの人がスケートで滑り始めた。これは筆者たち家族も滑らないわけにはいかない。
 土曜日午後、アムステルダムの日本語補習校から大急ぎで帰ってきた。日暮れまで1時間半ほどの薄暮の中、河岸の土手に腰掛けスケート靴に履き替えた。こわごわ歩き出してみれば、ふだん滑りなれている人工氷と、違うような同じような感触。でも、なんだかウキウキと楽しい。ふだんは立ち入ることのない運河の上から、周辺の景色を眺める不思議な感覚。スケートを滑らせながら、景色が後方へ流れていく不思議な感覚。寒さが厳しい中、日常の中での非日常を、このような形で味わえるとは思ってもみなかった。
氷の上のピクニック
 日曜日、近所の人たちの中には、昼前からテーブルを持ち出して、氷の上でピクニックをしている人たちがいる。スピーカーから大きな音で音楽を鳴らして、まるで即席のスケートリンクである。颯爽とスケートを楽しむ人が多い中、普通の靴で歩いている大人や走り回っている子供もおれば、スケートで削れた氷粒を集めて、雪玉を作っている子供もいる。小さな赤ちゃんをソリに乗せて引っ張っている人、ベビーカーをそのまま押している人、様々な人たちが、氷の上で遊ぶことを楽しんでいた。
 日曜の午後などは本当に天気もよく、外に出ていてもあまり寒さを感じなかった。気温もどうやら上がり気味だったようで、河岸近くでは、氷がジュクジュクと解けかかっていたところもあった。このまま氷が割れやしないかと、ちょっとしたスリルも味わった。

子どもをそりに乗せて
 月曜日以降は気温も上がり始め、雨も降り始めた。氷は少しずつ解けていき、天然氷が楽しめた、束の間の日々は終わったが、しばらくの間、同僚たちとの会話は、天然氷で楽しんだ話題で持ちきりだった。30kmツアーのイベントに参加した者、広大なアイセル湖の上を滑りまくった者もおれば、数年ぶりにスケート靴を履いたという者もいて様々だが、多くが12年ぶりの天然氷を楽しんでいた。自前のスケート靴を持っていない、非オランダ人同僚達は、話題の中に入れず残念そうだった。
 テレビや新聞のニュースも、天然氷に関する各地の様々なニュースを伝えた。この数週間でスケート靴が100万足以上売れたこと、その週に天然氷のスケートを楽しんだ人は、推計300〜500万人(オランダの人口は1600万人)だったこと、頭を強打したり手足を骨折したりして数千人が病院に運ばれたこと等々。30kmツアーに参加していたvan Middelkoop国防大臣も、転倒して手首骨折というご愛嬌(失礼!)である。
 昨年秋からの世界同時不況は、オランダ経済にも暗い影を落としているが、日本ほど悲壮感が漂わないように感じるのは、楽しむべきときには頭を切り替え、徹底的に楽しむことができる、オランダ人の強みによるのだろう。

 筆者も自分達が楽しむのに夢中で、自宅裏手の運河の様子以外、ほとんど見て回らなかったことに気がついた。こんなに沢山のイベントが各地で同時開催されるとは、実のところ想像に及んでおらず、後になってから詳細を知ったのが真相である。今思えば、せめてアルクマール市内だけでも、あちこちの様子を写真に収めておけばよかった。ふだん見慣れた運河が、即席スケート場に様変わりしていたことだろう。なお、王立スケート協会のサイトでは、当日の各地の写真が閲覧できる。


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Last Update: Mar.6,2009