ペッテンとアルクマール《1》
さて、今回からようやくオランダの話を中心に書くことになる。
オランダといえばアムステルダムであるが、筆者はアムステルダムに住んでいないこともあって、さほど詳しくはない。将来機会があればこの連載で何かを紹介するかも知れないが、たぶん書かないだろう。というのは、アムステルダムには数千人の日本人が住んでいるし、その中にはオランダ語も堪能な上に日本語の文章も上手な方々が多数おられる。また、六稜の先輩にはアムステルダム在住の某大学教授もいらっしゃるので、筆者の出る幕ではない。
今回と次回とで紹介するペッテンは筆者の勤務先がある町、アルクマールは筆者が住んでいる町である。前者には日本人居住者はなく、勤務者もたぶん筆者一人だろう。後者はオランダの中では比較的大きな町だが、日本企業がほとんど進出していないことや大学がないこともあって、家族で住んでいる日本人は筆者の家族だけのようである。他にはオランダ人と結婚して住んでいる女性が数えるほどといったところか。オランダ語もろくにわからない筆者がこれらの町について紹介するのはある意味大それた話ではあるが、あまり日本語で紹介される機会もないので、筆者なりに集めた情報でもって容赦していただくことにしよう。
ペッテン(Petten)はアムステルダムの北北西約65キロに位置し、北海をのぞむ海岸沿いの町である。人口は千五百人ほどの小さな村で、主要な産業は輸出用の球根栽培と観光である。5月上旬には近辺の畑に織り成す絨毯のごとく花畑が広がる。7月8月を中心にした前後4ヶ月ほどは、街中は長期休暇を楽しむ観光客で賑わい、天気のいい日は海水浴場でも老若男女がゆっくりと時間を過ごす。
ペッテンの海岸で海水浴を楽しむ人々
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北海の水温は何度ぐらいであろうか、筆者は北野高校水泳部員として4月下旬から冷たいプールで泳いでいた身ではあるが、たとえ夏の最盛期でもこの冷たい水はとても楽しむためのものとは言えない。それでもこちらの人たちが海に入って楽しそうにしているのは驚きだ。人類の長い歴史の間、寒冷な西北ヨーロッパに適応してきたゲルマン民族と、高温多湿な日本に適応してきた日本民族では、快適に感じる温度が違うのか。それともただの個人差か。海辺に行くのは好きだが海に入るのは好きではない、というオランダ人同僚も、もちろんいる。
話が横道にそれた。
ペッテンにやってくる観光客は、圧倒的にドイツ人が多い。フランス人は海に行きたければ地中海へ行くし、イギリス人はどうせ海を渡るならばとスペインやトルコ、エジプトなどに行く。ドイツにはあまり海がない。デンマークの東側はバルト海、西側の海岸線も長くはない。地中海やアドリア海に自家用車で行くのは大変だ。国境から車を飛ばして2時間半、ペッテンはドイツ人から見て手軽な夏の観光地である。有名なスケフェニンヒェン海岸は人も多くて滞在費も高くつくが、知る人ぞ知る鄙びた田舎町、というのがいいのかも知れない。
では、オランダ人の観光客はどうか。見たところ、あまり多くないように見える。理由は二つ。オランダ人はどうせバカンスに旅行に行くのなら、学生時代に鍛えた(あるいは、鍛えさせられた)外国語能力を有効活用するために外国へ行く。オランダ人はほとんどの人が英語での会話能力に問題がないし、中等教育以上では英語に加えてドイツ語とフランス語も必修である。物を無駄にしないことを美徳とする彼らは、せっかく養った外国語能力を使わずにはおれないのだ。もう一つの理由は、オランダ人がバカンスの滞在地にペッテン選んだ場合、たいてい長期滞在である。かといって外食はほとんどせず、普通に住人に溶け込んで暮らしている。隣人が昼間に何をしてようがお構いなしのオランダでは、観光客なのか住人なのか区別がつかないのだ。さすがに、テント暮らしやバンガローハウス暮らしをしていれば、観光客だと見分けはつくけれども。
ペッテンの中心にある 「1945年広場」
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実は、ペッテンには歴史がある。アムステルダムやアルクマールなどと違って、干拓地の上にできた町ではない。オランダが国土と海との境界線として定めた、砂丘の上を基点として造られた町である。オランダが干拓に積極的になり始めたのは900年前とも1000年前ともいわれているが、ペッテン周辺にはそれ以前から小さな集落があって人が住み着いていたらしい。国土の干拓が進み、アムステルダムや東方貿易の中心地となるエンクハウゼンが栄えるようになっても、北海の荒波にさらされるペッテンは流通経路から取り残され、ついに大都市となることはなく、細々と農耕や牧畜を中心産業とする時代が続いた。
そのペッテンに激変が訪れる。1943年のことである。当時西ヨーロッパを支配下においていたナチスドイツは、イギリス本土からの連合国軍の攻勢に備えるため、「大西洋の壁」と呼ばれるフランスからノルウェーに至る長大な海岸防衛線の構築を企図した。「壁」の監視基地の一つとして白羽の矢が立てられたペッテンは、全住民が退去を余儀なくされ、家々は破却された。ペッテンの監視基地が連合国側の主たる攻撃目標とならなかったことが、あえて言うならば不幸中の幸いというべきか。
ペッテンの中心にある広場の名前は「1945年広場」という。ペッテンの住民にとって、ドイツからの解放の喜びはひとしおだったことだろう。ドイツ軍が去って帰ってきた住民たちを中心に、再びペッテンの街づくりが始まった。
1961年に完成し現在も稼動中の原子炉。 医療用放射性物質の製造も行っている。
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ECNの前身Reactor Centrum Nederland(オランダ反応器センター)が、ペッテンの町外れ、1945年広場から約3キロ北北東の砂丘の地に設立されたのは1955年のことである。オランダ初の原子炉を持った研究所の候補地は、干拓地のような地盤沈下の心配のある土地でなく、海沿いの砂丘地帯である必要があった。ペッテン北端が選ばれたのは、主にその理由によるところが大きいが、上のような理由から愛国心の強い住民が多く、国策に喜んで協力する雰囲気が強かったことが窺い知れる。
そんなペッテンの住民たちも、今では夏の観光シーズンになると、「ペッテンは今も昔もドイツ人に占領される運命にあるんだよ」と冗談めかして語ってくれる。
Last Update: Oct.23,2006
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