2005年8月16日で第二次世界大戦から60年が経った。戦後の日イ関係を象徴するできごとを振り返りながら、両国の戦後を概観した。
日本軍占領下のジャカルタでは45年8月15日の昼、オランダ植民地時代の平屋のホテルを利用した事務所で将来のインドネシア独立について語り合っていた青少年約30人のもとへ、外から戻った仲間が駆け込んできた。「日本が降伏したぞ!ラジオで聞いた」。入口付近の仲間に息せききって伝えると、聞いた仲間が「日本が負けた!日本が降伏した!」と叫び、部屋中に大歓声と拍手が起こった。後に国権の最高機関、国民協議会の議員になったシャムシル・ムハンマドさん(79)もその場にいた。シャムシルさんは「やったあ!」と叫び、こぶしを振った。 日本軍は、オランダ植民地「東インド」に42年2月に侵攻し、2週間で占領。同年7月に、戦前からの独立運動指導者でオランダによって投獄されていたスカルノをジャカルタに迎え、日本軍への協力と引き換えに活動の自由を与えた。スカルノらの指導で隣組や婦人会、青年会など各種団体が作られ、軍事訓練や労働奉仕に参加した。 スカルノは日本軍に協力する一方で、国民意識を育てる政治演説も行った。日本は戦局悪化に伴い小磯声明(45年3月)でインドネシア独立を約束するなど、懐柔に努めた。 シャムシルさんらの青年団体には独立を目指す若者が集まり、スカルノらを講師に迎えて政治の勉強をした。また、日本軍が禁じていたラジオを事務所外に隠し持ち、海外放送をチェックして日本軍の苦戦を把握していた。シャムシルさんによると、日本降伏の日、ジャカルタの日本軍は何も発表しなかったが、ラジオ放送を聞いた仲間がいち早く情報を知り、仲間に伝えたという。 降伏の報を聞くと、シャムシルさんの友人が1人で自転車に乗って町に飛び出した。「日本が降伏した!」と家々に叫んで回り、町の様子を観察して事務所に戻った。かつては住民が日本兵と出会った場合、おじぎをしなければ、「ばかやろう!」と怒鳴られ、ほおをたたかれることもあった。しかし、友人によると、この日は兵士らが住民をとがめずに歩いていた。 同日午後、シャムシルさんらの指導者は他の青年団体の指導者と一緒に夕方近くまで会議を開き、夜になってスカルノ邸に出向いた。指導者らはその道中で日本軍幹部に会ったので降伏についてたずねると、「町の治安に気を配り、われわれの指示に従ってほしい」と答えるのみだった。 青年指導者らはスカルノに対し武装蜂起による即時独立宣言を要求。スカルノが断ると、翌16日未明、スカルノを郊外に拉致(レンガスデンクロック事件)した。その際、青年らは日本軍に怪しまれるといけないので、義勇軍の制服を身につけていたという。スカルノは武装蜂起はしなかったが、日本軍の了解を得たうえで17日、ジャカルタでインドネシアの独立を宣言、18日には大統領に選ばれた。
■戦後賠償で始まった日イ関係
同国では日本の戦後賠償によって首都ジャカルタに62年、全国初のデパート「サリナ」(14階建て、売り場:1〜7階)が開店した。当時、検察庁職員だったレリー・ティボレンさん(74)は「開店直後、姉や友達5人と一緒に訪れ、ハンドバッグを買った。初めて入るときはうれしくて仕方なかった。当時は周囲に高い建物がなく、遠くからも見えた。とびきりモダンな場所で、いい服を着ていかないと、周囲から野暮ったいと思われそうだった」と懐かしむ。
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