北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさん一家がインドネシアで再会することが2004年7月1日、インドネシアの首都ジャカルタで行われた日朝外相会談で決まった。会談は、同月2日の東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)閣僚会議に出席のため当地に来ていた白南淳(ペク・ナム・スン)・北朝鮮外相と川口順子外相の間で行われ、この段階では再会の日程は固定せず、まずは場所だけを決めた。 場所がインドネシアになったことで、ジャカルタ駐在の邦人記者ら(朝日新聞、共同通信、時事通信、日経新聞、NHK、読売新聞、弊社=毎日新聞など)は困った。 '04年は4月に5年ぶりのインドネシア総選挙、6月末から7月上旬にASEAN外相会議とARF、7月上旬に大統領選挙――といずれも数年に一度の大行事が相次ぎ、とにかく忙しかった。私も3月からほとんど休みなく働いていた。大統領選は7月の第1回投票での当選条件である過半数を獲得する候補が出そうになく、9月に決選投票を行う見通しが濃厚だった。そこで、第1回投票を終えたらひと休みして決選投票やその前後の特集記事、連載記事の取材準備にかかる、という思惑が記者の間で一般的だった。記者らはARF後の「ひと休み」を非常に楽しみにしていた。
インドネシアでは取材の際の主な言語はインドネシア語だ。だから、各メディアとも現地の記者を助手として雇い、取材の通訳をしてもらうほか、助手が自分への情報提供者を政府や議員、捜査当局、国軍などに開拓して情報収集し、特派員に報告する。特派員が自分で取材するケースもあるが、勝負の分かれ目の多くは助手の情報収集力と特派員から助手への取材指示の的確性だ。 さて、曽我さん一家再会問題の場合、大統領官邸や外務省、治安当局などがインドネシア側の取材先だった。再会場所の提供者としてインドネシア外務省は日本、北朝鮮の各外務省と常に連絡を取り合ってきた。また、重要事項は官邸に報告される。警察などの治安当局は、例えば、曽我さんや夫のジェンキンスさんがジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に到着してからホテルまでの移送、ホテルでの滞在などに際し、警護を担当するため、やはり事前に情報を知りうる立場にある。
しかし、その2日後、夕食を共にした日本大使館周辺の人物から「場所はジャカルタでほぼ決まったらしいよ」と聞かされる。ホテルの選定も進んでいるとの話で、内容が具体的だし、情報の発信源が確かだった。この少し前、別の大使館周辺者からも「バリは遠い。(ジャカルタ近郊の)ボゴールでも、大使館が一家を保護するのに遠すぎて便利が悪い」とのコメントを得ていた。こうした情報を総合して間違いないと判断し、「場所はジャカルタ」「理由は、保護が容易だから」と東京本社に電話し、朝刊13版(最終14版の一つ前、関西では大雑把に言って大阪に配られるのが14版、京都・神戸に配られるのが13版)から掲載するように持ちかけた。 ところが、意外な抵抗があった。「場所はバリ」と報道してきた従来記事とそぐわないということで他の部(特派員は外信部所属。曽我さん問題はほかに政治部などが担当)が難色を示し、ベタ記事になってしまったのだ。 しかし、事態は翌朝、一変する。情報の不一致を解消すべく、政府筋、外務省筋に取材攻勢をかけた政治部が「場所はやはりジャカルタ。日程は8日に曽我さんが先に来イ、9日に家族が合流」との大情報をつかんできた。私と助手もジャカルタで裏取り取材をし、「8日、9日」の各日程を確認した。これは5日夕刊1面トップの特ダネとなった。 その後、日本から大挙して報道陣が押し寄せ、ジャカルタの情景が連日、日本のテレビに映し出されることになった。 ◆ ◆ ◆ その後、曽我ひとみさんは7月8日に、夫のジェンキンスさんら家族はその翌日に ジャカルタに着き、1年9カ月ぶりの再会を果たした。当初は数カ月から最長1年前 後のインドネシア滞在が予想されたが、ジェンキンスさんの病状が予想以上に悪く、 本人と家族が日本での早期治療を望んだことなどから、同月18日に日本に渡った。イ ンドネシアには家族で10日間滞在しただけで、外務省が想定していたバリなどの観光 地旅行・滞在はなかった。 |