グレレスの館
フランス語で「ホテル」(l’hôtel)と言うと、観光客が泊まるホテルの他に、「公共の建物」という意味と、「(貴族などの)私邸、館」という意味 がある。
18世紀、「アジョワ暴動」(1730~40年)(第20、21話‐ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男をご参照に)後、Porrentruyを含 むアジョワ地方は、表面上は静けさを取り戻した。バーゼル大公司教支配下でPorrentruyの町が最後の輝きを見せる時代である。 町は建設ラッシュとなった。ブルジョワ階級は流行のバロック・レジェンス様式で邸宅の一部を改装したが、大公司教の財力は部分装飾だけではとどまらず、彼 らの邸宅の何軒分かに相当する「ホテル」建設を実行させた。 1750年頃、最初の「ホテル」が完成した。「グレレスの館」(Hôtel de Gléresse)と呼ばれる建物は、当時の大公司教、バルデンシュタイン出身のジョゼフ=ギョーム・リンクが、妹・ヴィクトワールと、その婿であるグレ レスのジャン・フレデリック・コンラッドに結婚祝いとして贈ったものである。(グレレスはドイツ語読みでは「Ligerz」。 写真でご覧の通り、威圧感のあるドイツバロック式の館は、建築家ヨハン・カスパー・バグナート設計によるものである。バグナートは1696年ライン地方 Landauに石工の息子として生まれた。建築家として多忙を極めたため病弱になったが、1757年に亡くなるまでバーゼル司教区のために貢献した。スイ スとドイツの国境、ボーデン湖に浮かぶマイナウ島の教会は彼が建造した。ジュラ州都・ドレモンの市庁舎の設計者でもある。 グレレス卿夫人ヴィクトワールの墓をPorrentruyで最古の教会、サンジェルマン教会で偶然見つけたので写真をご覧いただきたい。司教の庇護で恵 まれた結婚生活を送っていた彼女が、フランス革命軍による破壊活動や司教区の解体後、どのような運命をたどったのかは知られていない。せめて墓に刻まれた 言葉を読み、彼女の人柄や功績を想像してみよう。
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