そ の2 ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男(1)
「アジョワ暴動」と呼ばれるこの事件を語る時、多くの人々は「独裁者バーゼル大公司教による圧政に耐えかねた勇気ある農民の反乱」と捉えがちだが、様々な 資料を見聞すると、ありきたりの「革命賛美」という単純な図式だけでは書き表せないような気がしてきた。
単なる歴史上の出来事として文章上だけでなぞるだけでは物足りず、できればこの暴動の首謀者である男の生涯を、いつかの日かもっと深く掘り下げ、追ってみ たいという思いに満たされながらこの原稿を書いている。
▲コージョネ村役場前に建つ ピエール・ぺキニャの胸像 「アジョワ受任者のリーダー、自由のために死す」と書かれている。 |
ピエール・ぺキニャは1669年4月、コージョネ村に生まれ、1700年頃にマリー・マグダレンと婚姻し、子をもうけた。静かに余生を送っても何ら不自 然ではない年齢に達していた彼は、その強靭な肉体と精神力ゆえ、反乱の指導者として祭り上げられることになった。10年に及ぶ抵抗の末、壮絶な死を遂げた 彼は、地方の英雄として今日に至るまで名を残すことになる。
アジョワ地方は「バーゼル司教公国」の一部で、10世紀末よりバーゼル大公司教が政治的・宗教的に直接支配下においていた。
17世紀、アジョワ地方は30年戦争における皇帝軍・スウェーデン軍・フランス軍に踏みにじられ、傭兵の暴虐や略奪、更にはペストなどの伝染病の流行 で、貧窮していた。1726年、ジャン・コンラッド・ド・ライナッハ大公は「秩序と公正を推進し、法・財政をより良く管理する」目的で条例を発布した。複 数の委員会があらゆる商業の場に立ち入り、村々の権限を制限し、水・森林・塩・穀物・主要道路も司教の管轄下におかれた。一見、理不尽なこの条例は、寡婦 や孤児を保護し、貧者に恵みを施す組織をも整えている。
以前より、様々な条例、及び大公・農民間の協定において森林伐採・狩猟・漁獲・鉄や塩の売買については統制されていたが、役人達は法を必ずしも正しく適 用していなかった。そして更なる締め付けとも言える1726年条例によっても不正徴収は続けられ、農民達の怒りは募る一方だった。
農民達の不満を知った大公は彼らの意向を知ろうと1730年1月11日に国民議会(聖職者・貴族・平民からなる)を召集し、自ら演説を行ったが、反乱の 火種を消すまでには至らなかった。
1730年8月1日、アル(Alle)村の役場で集会が開かれ、若い男がある書類の写しを持ち込んだ。それはポラントリュイが75年間だけフランスのモ ンベリヤー伯の領地だった時代(1386-1461)、伯夫人・アンリエットによって授けられ、平民(有産階級)の色々な特権(税徴収の限度も記されてい る)を認める文書だった。この書状が大公司教の住まいであるポラントリュイ城の古文書管理室に「故意に」隠されていたと信じこんだ農民は怒りを爆発させ た。
▲処刑された通りは「ピエール・ぺキニャ」通り と改められ、名誉回復した。 |
話はそれるが、このアンリエット夫人は慈悲深き賢貴婦人として庶民に慕われていた。伝説によると天は彼女の死を惜しみ、「Tante Arie(アリーおばさん)」として生まれ変わらせた。アリーおばさんはフランスのフランシュ・コンテ地方からスイスのアジョワ地方にかけて広く出没し、 様々な姿に変装して現れ、クリスマスに子供達におこずかいを配ったり、サンタクロースの如く煙突から登場したという伝承がある。
9月16日、8月の集会のメンバーのうち9つの共同体の代表が集まり、人民の権利を守るための12人の代議士を選出した。その中に、60歳を過ぎても尚 たくましいピエール・ぺキニャ、後にぺキニャと共に処刑されるChevenez(シュヴェネ)村のRiat(リア)、Coeuve(クーヴ)村の Lion(リオン)もいた。
アジョワの各村々は、反乱の旗の下に次第に一致団結し始めた。