ポラントリュイだより:駅物語《その2》

2010年2月28日

「ベル・エポック」と呼ばれる1900年代初頭、鉄道の発展と共に、ポラントリュイは最盛期を迎えた。
観光客、ビジネスマン、商人、外交官が数多くポラントリュイ駅を利用することになったため、駅前を中心として町そのものの開発も進んだ。
現存する駅前の数本の大通りは、この時期に建設されたものである。市の人口増加もめまぐるしく、1879年に4452人だった住民が1900年に は6959人に達した。 (ちなみに2003年末の統計では、6630人)産業が栄え、それに伴い定住労働者が増加したため、新興住宅地も次々と開発された。


▲現在のポラントリュイ駅
二年ほど前、外壁の修復が終わった。

パリ、ロンドンと南ヨーロッパを結ぶ中間地点に当たるポラントリュイは、旅人の休憩所としての役割も果たすようになった。
駅から旧市街にかけ、ホテル・レストランが発達した。その中でも旧市街の入り口に位置する「Grand Hotel International」(1907年開業)は 当時としては最先端の設備、すなわち電気、浴槽、セントラル・ヒーティングを完備した高級ホテルだった。 旅行客が退屈しないようにとおよそ800人収容の劇場が内部に設置された。天井は当時流行りの化粧漆喰で贅沢に装飾が施され、 一階席をぐるりと囲んで見下ろすバルコニー席も用意されていた。

このホテルは1912年には既に倒産し、カトリック団体に売却された。この団体は後に「L’Inter協会」と名称変更し、建物を管理している。 現在はアパート、そしてレストラン「L’Inter」が入り、劇場はコンサートや演劇などの催しに、頻繁に利用されている。
このホテルの倒産は、ポラントリュイ衰退の序曲と言えるかも知れない。
1914年、第一次世界大戦勃発。1918年、敗者ドイツよりアルザス・ロレーヌ地方がフランスに返還されると、 フランスはストラスブール(アルザス)―バーゼル間鉄道を好んで使用するようになった。ジュラ側の働きかけもむなしく、 1928年からフランス―ジュラ間路線は荒廃の一途を辿った。1938年にはフランス国有鉄道(SNCF)設立。翌年、再び世界大戦勃発。全ては遮断され た。


▲二十世紀初頭から賑わっていた「駅前ホテル」

▲かつてのホテル・インターナショナル
現在はレストラン・劇場となっている。
外壁は当時も黄色に塗られていたそうだ。

細々と乗客を運び続けていたフランス国境の駅デルとスイスを結ぶ路線は、1990年代に入って閉鎖された。

シナゴーグ物語にも登場していただいた、パリ出身のデニーズさんはこう嘆く。
「昔はパリとポラントリュイが繋がっていたから里帰りも楽だったし、異国で暮らす寂しさも減っていたわ。今では・・・何てこと。 直線距離ではあんなに近いパリに行くのに、わざわざドレモン、バーゼルまで迂回しなければならないなんて! もうパリに行くこともできなくなってしまっ た。 私は車の運転もできないし、この年で電車を乗り継いでの大旅行はもう無理なのよ」
彼女は確か82歳。帰国のために12時間も飛行機に乗る私にとっても身に染みる話である。

フランス東部鉄道会社は、重税をかけられるようになったアルザス地方を通る鉄道(ベルフォール―スイス・バーゼル間〉を利用しなくなり、 アルザスを通らずにスイス入国を可能とする鉄道網を急速に発達させる必要に迫られた。この会社の財政・技術援助により、 1872年にはフランス国境の町デル(Delle)(ベルフォール県)―ポラントリュイ間鉄道開通。同年、ポラントリュイ駅開業。そして、ジュラ地方の鉄 道網は次々と増えていった。 高架橋やトンネルも同じくフランス東武鉄道会社の援助で開通した。1877年にはかつてアルザス地方への路線を伸ばしていたベルフォールがデル駅と結ばれ た。

現在、ポラントリュイ駅は、ジュラ州各地を結ぶローカル駅として、一時間に一本の電車を走らせている。 2004年12月12日よりダイヤが大幅に変わり、一時間に二本(うち急行列車が一本)走り、それぞれバーゼル駅とビエンヌ駅(ベルン州)に直行となる。 電車を多く利用する私としては嬉しい限り。そして、かつての栄光を取り戻すまではいかずとも、 バーゼル・ベルン・ヌーシャテル地方の人々のポラントリュイ訪問が増えて欲しいと願ってやまない。

〈参考文献〉
スイス国・ジュラ州公式サイト資料より http://www.jura.ch/
ジュラ州ポラントリュイ市ガイド協会資料よりhttp://www.juratourisme.ch/

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Madame et Monsieur Denise et Jean Vallat