私のラ・ヴィ・アン・ローズ

2010年2月28日

「セシル・エ・クロード」(セシルとクロード)という、これと言ってインパクトの無いタイトルの小説は、ある文学賞で選外になりました。 (まだ私は力不足だ)この結果は当然と思いながらも、一方で、(こんな良い小説をどうして外すのだ???)と根拠の無い自信はたっぷりありました。(笑) 家族、特にセシルの娘である義母は、会う度に聞いてきました。「あの小説はどうなったの? 本にならないの?」彼女自身は読書をする人ではありませんが、 自分の父母の生涯を描いた小説の行方が気になっていたのでしょう。自他共に募った思いが飽和状態に達した時、私は遂に決心しました。 「何としても、この作品を埋もれさせたくない!」


▲「夢を追い続ければ必ず叶う」

2002年、書き直した作品を、ネット上で知った出版社、新風舎に送ってみました。すると、「幸せとは何かという普遍的な問題を、時代を超え、 現代の我々にも強く訴えかけてくる完成度の高い作品です。是非出版してみませんか」とお返事がありました。いきなり「出版」とは!  出版方法の「共同出版」は初耳でした。著者が制作費用を負担し、出版社が宣伝広告・営業費用を担当するというもの。 自費出版との違いは、書店に流通するというところです。稼ぎの無い主婦の私にとって、決して安くは無い値段。しかし、夫に相談してみたところ、 「折角のチャンスだから頑張ってみなさい」という寛容な、暖かい言葉が返ってきました。こうして何度かの修正・校正を経て、 2003年2月、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」と新たに題された作品は出版され、梅田・紀伊国屋さんなど、夢にまで見た書店に並べていただけることになった のです。

「ラ・ヴィ・アン・ローズ」校正中、私は何度も不思議な体験をしました。またそれはどこかで書く機会があると思います。 そのせいか、ふと、「亡くなった人々への鎮魂歌を、この町を舞台にして創造したい」というインスピレーションが湧き、 二作目「レクイエム」の執筆に取り掛かりました。こちらも賞は逃したものの、2004年2月11日、夫と私の11回目の結婚記念日に出版されました。


▲「日本文学の夕べ」にて
50人の聴衆を前に日本語の作りを説明し
俳句や和歌(百人一首)を紹介。

一作目は三刷、二作目も二刷と、めでたく増刷になりました。スイスでも私独自の宣伝活動が功を奏し、数多くの日本人に愛読していただいています。 2003年の秋から、大阪市の通訳業務派遣会社、「国際通訳合資会社」のホームページ、そしてここ六稜同窓会WEB上に於いてもエッセイを連載させていた だいています。 スイスの新聞各社にも、「スイスを舞台にした小説を書く日本女性」として記事を掲載していただきました。また、2004年の5月には、 地方文学団体主催の「日本文学の夕べ」にてスピーチをするという、この上なく光栄な機会を賜りました。
最近、ポラントリュイ市ガイド協会に入会しました。単にガイド業務に興味があるだけでなく、日本の方はほとんど知られていないこの町を紹介したいからで す。 町の歴史を徹底的に勉強したいという願いは、小説の下調べをしていた時からありました。「ラ・ヴィ・アン・ローズ」では第二次世界大戦中のジュラ地方の歴 史、 「レクイエム」では三十年戦争時にポラントリュイの町を救った奇跡のマリア像や教会についての歴史を学びました。知識が増えるに連れ、ポラントリュイとい う町、 ジュラという州、そしてスイスという国をどんどん好きになっていく自分がいます。小説を通じて開けた私の「ラ・ヴィ・アン・ローズ」。 しかし、ここに至るまでは執筆とは直接関係の無い、様々な出来事があったゆえ。


▲シナゴーグ通り
気取ったところが微塵も無い、人情味ある土地柄M
著者の住むアパートは、
ユダヤ教会(シナゴーグ)跡地に建てられた。

とことんまで落ち込んだ時、ある結果に辿り着きました。「人生の全ての出来事は一つの線で結ばれているのだ」と。 英語好きが高じて英国留学したことも、スイス男性と恋愛結婚してスイスを終の住み処と決めたことも、家庭の内外で悩み苦しんだことも、 全ては現在の自分に繋がっていたのだと。そしてまだまだ前に道が伸び、次の瞬間、瞬間と結ばれているのだと。そう悟った時、何も恐いものはなくなりまし た。 もし、私の生命が明日ふいに絶たれたとしても、私はこう思いながら永遠の眠りにつくでしょう。 「この世に生を受けたことに感謝したい。私は幸せだった」  自分が自分らしくいられるよう、そして一人でも多くの人と分かち合えるよう、生涯を執筆活動に捧げます。

ここまで読んでいただいた皆様、どうもありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。