披露宴会場は実家近くの村のレストランでした。当時の控えを取り出してみると、以下のメニューが書かれていました。 ハーブ入りコンソメスープ、アントレ : ねぎ入り生鮭のパイ、メインコース : 豚ヒレ肉のモリーユ(キノコの一種)ソース掛け、クロケット(和風に訳すとコロッケですが、じゃがいもをすり潰して小さく固めたものを衣をつけて揚げた 物)、季節の野菜。デザート : 自家製ヴァシュラン(メレンゲのアイスケーキ) このメニュー選択で小さな失敗がありました。生鮭のパイが思った以上に大きくて中身もぎっしり。お蔭で折角のメインコースのヒレ肉の時には満腹感と戦い ながら食するという羽目に。(お代わりが出来るのですが、ほとんどの人がしていなかった・・・)
▲スイス名物ラクレット・ロゼワインで乾杯 溶かしたチーズをゆでたじゃがいもに付けて食べる。我が家では干し肉とピクルス、小玉ねぎの酢漬けを添えて。 |
披露宴中、現在ではPOWER POINTというCD-ROMを駆使した映画上映が盛んですが、当時の私達は昔ながらの「スライド」。機械をレンタルし、二人の赤ん坊の頃からの写真を司 会者(夫の伯父)の解説付きで公開しました。(ネガが無ければスライドは作れないとスイスの店では言われ、わざわざ日本まで写真を送って作りました・・・ 裏話です)
スイスの結婚式でお決まりの催しとしてダンスは欠かせません。一人でキーボードを弾いて歌うボーカリスト、ドラムスやギターが入ったポップスバンド、昔な がらのアコーディオンなど、様々なタイプの出張ミュージシャンがいますが、好みに応じて選び、直接本人に連絡を取って条件を話し合います。これまで数々の イベントに参加して思ったのですが、どんなタイプのミュージシャンであっても幅広いレパートリーを持ち、必ず昔ながらの民謡を演奏し、歌い、あらゆる世代 を見事に楽しませてくれます。客の方も、ダンスを通じて一体となると言っても良いでしょう。
日本のホテルでは普通、数時間で披露宴は切り上げられ、次の新郎新婦が同じ会場を使用するという慌しさもありますが、スイスの披露宴は夜8時ぐらいから開 始し、料理が全部終わっても飲み続け、歌い、バンド演奏に合わせて踊ります。社交ダンスから始まり、盛り上がってくると、「ア・ラ・ク・ル・ル」(一列に なって)と歌いながら、肩に手を置いて参加者全員が繋がってレストランの内外を駆け回るという騒ぎが一晩中続きます。伯母は途中でダウンしてレストランの 階上にあるホテルの一室で仮眠を取らせてもらっていましたが、他の人達は全員元気で、老いも若きも踊り狂い、帰宅は明け方5時頃でした。 主に日本とスイスの違いをクローズアップしながら紹介いたしましたが、スイスの伝統的な結婚式が垣間見えたでしょうか?
▲新婚旅行・ベネチアにて 父母と伯母も一緒に楽しんでくれました |
▲ルツェルンの観光名所、カペル橋前にて 1333年に建築された木造の橋は1994年に大半が焼失。現在は修復済ですが、その火災前の貴重な写真となってしまいました。 左から父・伯母・母・私。 |
この夏の結婚式で嬉しかったことは、何と言っても、父母が揃ってスイスの地を踏み、楽しんでくれたこと、夫の家族と対面し、言葉が通じないながらも真摯に 交流してくれたこと、式後、スイス国内やイタリア(ベネチア)を一緒に旅したことでした。また、日本でも滅多に会えない伯母と寝食を共にしたこの三週間の 滞在をきっかけに、以前よりもずっと親しくお付き合いさせていただくことになりました。
結婚の行事はこれで終わったわけではなく、年明けの1994年1月2日、親しい身内と友人だけで、大阪市内のレストランで披露宴を行いました。この時も失 敗話があり、基本コースとして申し込んだ二時間の宴は余りにも短か過ぎ、バイキング形式の料理がまだ大量に残っているのにお開きにしなければならず、特に はるばる遠方から駆けつけてくれた方には本当に申し訳なかったです。「超過料金を払って三時間にすれば良かったね」と後で家族で反省会。それでも今となっ てはどの宴も美しい思い出です。
こうして、夢のような「結婚式の年」は無事、終了しました。