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2010年のバックナンバー

ポラントリュイだより:シナゴーグ物語《その2》

19世紀半ば、ポラントリュイ市在住ユダヤ人社会の間で、シナゴーグ、すなわちユダヤ教会建設の動きが高まった。それまでは、カトリック色強いこの地域 でユダヤ教徒に祈りの場所を提供してくれる者も少なく、専任司祭もいなかった。 ユダヤ教徒達はフランスの出身町にまで赴き、祈りを捧げていたようである。
そんな厳しい状況の中、1869年、シナゴーグ建設に向けて管理委員会が発足し、建設資金調達計画に着手した。一度は州政府(当時はベルン州)の援助を 確約したものの、 計画倒れになった。そのことについて彼らは多くを語りたがらない。結局、市のユダヤ社会全体が協力し合い、病院や銀行からの借金で何とか建設にこぎつけ た。


▲当時のポストカードより
木々と鉄格子の一部は現存する。

1874年夏、シナゴーグは完成した。当時のユダヤ系週刊紙(ドイツ語)によると、「東洋的要素も混じったバロック建築のシナゴーグ、スイスで最も大き く最も個性的な造りの建物の一つである。 セミ・ゴシック式の二本の長尖塔の間には、十戒が書かれた碑が建っている。建物の全ての角は丸みを帯び、スイスでは大変珍しい」と描写されている。収容人 数は100名ほどだった。

建立当時、ユダヤ人共同体は秩序が保たれ、積極的に教会の維持に寄与していた。1949年には大規模な改修工事もしている。 しかし、実は1920年代よりポラントリュイ市におけるユダヤ人共同体は衰退の一途をたどっていた。 スイス人への同化が進み、親が子にユダヤ人としての教育を施さなくなってきたこと、若い夫婦が引越し町を出て行ってしまったことなどが原因として上げられ るが、 ユダヤ人経営の会社を次々と閉鎖・売却に至らしめた経済危機・市の産業衰退も大いに関係していると言えよう。
ユダヤ教のミサを執り行うためには最低10人の成人男性が必要であるが、1926年以降、ポラントリュイ・ユダヤ教会は、慢性的な信者不足に悩まされる ようになる。


▲「十戒」の石碑
元々は屋根の上に位置していた。
(撮影Jean Vallat氏)

「シナゴーグはどうなるのか? ここ数年来、シナゴーグは見捨てられている。 昔は小奇麗だった庭も草が伸び放題で荒れ果てている。建物の表面は剥げ落ち、窓は割れ、鉄格子は破損している。美しい庭木だけが過去の豊かさを物語ってい る・・・そう昔のことではないのに・・・」
1980年6月4日付け地元紙「Democrate」は、シナゴーグの惨めな状態を抒情的に書き綴っている。建物の荒廃には、心無い人々の仕業(破壊行 為・器物盗難など)も影響していたらしいと、当時を知る数人が証言している。  1982年、共同体メンバーは市内にたった2家族、市外に1家族となった。建物は文化遺産に登録されておらず、市は全く関心を示さなかった。他市のユダ ヤ共同体の援助もほとんど得られず、窮地に追い込まれた3家族は、相談の末、辛い決断を下した。
「シナゴーグ売却」
1983年4月28日、建物は解体され、速いペースで作業が進んだ後、現在のアパートが建てられた。当時の世間にとって、ユダヤ教会を壊すことは、その 辺の古ぼけた建物を壊すようなものだった・・・決して反ユダヤ主義者ではない人すらそう言いきっている。


▲現在の石碑
父、娘2人と一緒に。

隣人シャンタルは、二年に及ぶユダヤ系家族への聞き込み調査と資料研究の末、1998年、ポラントリュイ市ユダヤ移民に関する論文を書き上げた。彼女の 研究結果は、2000年8月、同市博物館において開催されたジュラのユダヤ共同体展に貢献した。

屋根の上に掲げられていたモーゼ「十戒」の石碑は、現在、庭に建て直され、唯一、シナゴーグの名残を留めている。
1999年夏、私は縁あって「シナゴーグ通り一番地」に引っ越してきた。かつてユダヤ移民の心の支えであったこの場所で史実を見据え、自分なりのやり方 で後世に伝えていきたい。

〈参考文献〉
「LA COMMUNAUTE JUIVE DANS LE JURA」編集・MUSEE DE L’HOTEL-DIEU PORRENTRUY

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Madame et Monsieur Denise et Jean Vallat、Madame Chantal Gerber(参考文献の著者の一人)

ポラントリュイだより:シナゴーグ物語《その1》

スイス国ジュラ州ポラントリュイ市。「シナゴーグ通り一番地」に私のアパートは位置する。 かつてこの場所にはシナゴーグ、つまりユダヤ教会が建っていた。現在、町にユダヤ系家庭はたった一家族。 更に、「ユダヤ人」という定義を、ユダヤ教義を重んじユダヤ教信仰厚い人間に限るとすれば、人口約7000人中ゼロに等しい。 そんな町になぜユダヤ教会が存在していたのか? ポラントリュイ市のユダヤ移民の歴史に焦点を当てると、民族の数奇な運命と共に、 ジュラの地方産業・経済の盛衰、そして・・・そう遠くない過去のあやまちが浮き彫りにされる。


▲在りし日のシナゴーグ、
ポラントリュイ名物の青空に映える。

(撮影Jean Vallat氏)

ポラントリュイ市に移民してきたユダヤ人の大多数はアルザス地方出身である。記録に残る最初のユダヤ人は、革命政府統治下のフランスから1794年に移 住してきた家族である。
19世紀半ばからフランス・アルザス地方で反ユダヤ運動が盛んになった。1870~1871年の普仏戦争後、アルザスがドイツの統治下に入ると、スイス に移住するユダヤ人が激増した。 ポラントリュイを含むジュラ地方全体で1850年に200名ほどだったユダヤ人が、1880年には500名にのぼる。その後、ジュラの政治・経済危機、産 業衰退と並行してユダヤ人口は減少し続け、1950年には100名ほどになってしまった。
ナチス支配下のフランスからは、多数のユダヤ人が命がけでスイスに入国しようと試みたが、越境を果たしたとしてもスイス国境警備隊によって追い返され た。ドイツをはばかるスイス連邦政府の命令であった。 一方で、密かに彼らの入国を助けていた修道会や民間の人々もいたようである。このテーマについてはまた別の機会にお話ししたい。

19世紀から20世紀初頭にかけ、ユダヤ人の伝統的な職業と言えば、商業、主に牛馬や土地の売買であった。1818年から1840年頃のポラントリュイ 市における彼らの職業は、 繊維・皮革製品製造業が大多数で、その他は牛馬の売買であった。1910年頃になると衣類を中心とした商店と牛馬の売買業者が7 :3の割合になる。
ユダヤ人定住者の子孫の中には、別分野に新天地を見出し、類い稀なる成功を収めた者も少なくない。スイスが世界に誇る時計会社やチョコレート製造業者の 一部がその例である。


▲現在建つアパート
建築家は「人目を引く奇抜な形の建物」
を追求したそうだ。

ここでは、ポラントリュイ市におけるユダヤ人の活動に焦点を絞ってお話しよう。 「S家」は、20世紀初頭から半ばにかけ、地域経済に貢献した実業家一族である。1898年、ポラントリュイに定住した創設者は、既製服の小売店を開い た。 彼には四人息子がいて、うち一人は1906年にストッキングと靴下製造の工場を開いた。1911年に彼は他の兄弟とも提携し、メリヤス製品会社を設立し た。 ところがこの後、兄弟間の意見・経営方針の不一致で会社は分裂し、別々の工場経営に入る。
S家が経営する工場の一つで隣人デニーズさんが働いていたそうなので、お話を聞いてみた。 「当時は120人ほど働いていたかしら。冬の朝は寒くてね。ありったけの服を身にまとって仕事をしたわ。 給料はそんなに良くなかったけど、新製品、特にビキニを試着させてもらえた時は嬉しかった。各製品の質は最高級。長持ちしたわよ。 二つの兄弟工場の間には確執が依然としてあって、工員同士までお互いをけなしていたわ。おかしな話よね」
経営者の一人のご子息にあたるアンリさんの自伝によると、その後、経営者の息子同士(つまり従兄弟)は仲直りしてめでたく大親友となったそうである。

~次回に続く~

私のラ・ヴィ・アン・ローズ

「セシル・エ・クロード」(セシルとクロード)という、これと言ってインパクトの無いタイトルの小説は、ある文学賞で選外になりました。 (まだ私は力不足だ)この結果は当然と思いながらも、一方で、(こんな良い小説をどうして外すのだ???)と根拠の無い自信はたっぷりありました。(笑) 家族、特にセシルの娘である義母は、会う度に聞いてきました。「あの小説はどうなったの? 本にならないの?」彼女自身は読書をする人ではありませんが、 自分の父母の生涯を描いた小説の行方が気になっていたのでしょう。自他共に募った思いが飽和状態に達した時、私は遂に決心しました。 「何としても、この作品を埋もれさせたくない!」


▲「夢を追い続ければ必ず叶う」

2002年、書き直した作品を、ネット上で知った出版社、新風舎に送ってみました。すると、「幸せとは何かという普遍的な問題を、時代を超え、 現代の我々にも強く訴えかけてくる完成度の高い作品です。是非出版してみませんか」とお返事がありました。いきなり「出版」とは!  出版方法の「共同出版」は初耳でした。著者が制作費用を負担し、出版社が宣伝広告・営業費用を担当するというもの。 自費出版との違いは、書店に流通するというところです。稼ぎの無い主婦の私にとって、決して安くは無い値段。しかし、夫に相談してみたところ、 「折角のチャンスだから頑張ってみなさい」という寛容な、暖かい言葉が返ってきました。こうして何度かの修正・校正を経て、 2003年2月、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」と新たに題された作品は出版され、梅田・紀伊国屋さんなど、夢にまで見た書店に並べていただけることになった のです。

「ラ・ヴィ・アン・ローズ」校正中、私は何度も不思議な体験をしました。またそれはどこかで書く機会があると思います。 そのせいか、ふと、「亡くなった人々への鎮魂歌を、この町を舞台にして創造したい」というインスピレーションが湧き、 二作目「レクイエム」の執筆に取り掛かりました。こちらも賞は逃したものの、2004年2月11日、夫と私の11回目の結婚記念日に出版されました。


▲「日本文学の夕べ」にて
50人の聴衆を前に日本語の作りを説明し
俳句や和歌(百人一首)を紹介。

一作目は三刷、二作目も二刷と、めでたく増刷になりました。スイスでも私独自の宣伝活動が功を奏し、数多くの日本人に愛読していただいています。 2003年の秋から、大阪市の通訳業務派遣会社、「国際通訳合資会社」のホームページ、そしてここ六稜同窓会WEB上に於いてもエッセイを連載させていた だいています。 スイスの新聞各社にも、「スイスを舞台にした小説を書く日本女性」として記事を掲載していただきました。また、2004年の5月には、 地方文学団体主催の「日本文学の夕べ」にてスピーチをするという、この上なく光栄な機会を賜りました。
最近、ポラントリュイ市ガイド協会に入会しました。単にガイド業務に興味があるだけでなく、日本の方はほとんど知られていないこの町を紹介したいからで す。 町の歴史を徹底的に勉強したいという願いは、小説の下調べをしていた時からありました。「ラ・ヴィ・アン・ローズ」では第二次世界大戦中のジュラ地方の歴 史、 「レクイエム」では三十年戦争時にポラントリュイの町を救った奇跡のマリア像や教会についての歴史を学びました。知識が増えるに連れ、ポラントリュイとい う町、 ジュラという州、そしてスイスという国をどんどん好きになっていく自分がいます。小説を通じて開けた私の「ラ・ヴィ・アン・ローズ」。 しかし、ここに至るまでは執筆とは直接関係の無い、様々な出来事があったゆえ。


▲シナゴーグ通り
気取ったところが微塵も無い、人情味ある土地柄M
著者の住むアパートは、
ユダヤ教会(シナゴーグ)跡地に建てられた。

とことんまで落ち込んだ時、ある結果に辿り着きました。「人生の全ての出来事は一つの線で結ばれているのだ」と。 英語好きが高じて英国留学したことも、スイス男性と恋愛結婚してスイスを終の住み処と決めたことも、家庭の内外で悩み苦しんだことも、 全ては現在の自分に繋がっていたのだと。そしてまだまだ前に道が伸び、次の瞬間、瞬間と結ばれているのだと。そう悟った時、何も恐いものはなくなりまし た。 もし、私の生命が明日ふいに絶たれたとしても、私はこう思いながら永遠の眠りにつくでしょう。 「この世に生を受けたことに感謝したい。私は幸せだった」  自分が自分らしくいられるよう、そして一人でも多くの人と分かち合えるよう、生涯を執筆活動に捧げます。

ここまで読んでいただいた皆様、どうもありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

石の上にも・・・?

幼少時より、暇さえあれば部屋にこもり、文章や長編マンガを書いていた私。学校の読書感想文で入選経験あり。雑誌に投稿すれば、たいていの場合、採用。 ちょっとした物語を書いて友達に回せば「面白い!」と絶賛。「もしかして私には、いわゆる文才があるのかも?」とうぬぼれたことも少なくありませんでした が、 単なる自己満足に過ぎませんでした。名声や富を得ることが執筆活動の目的ではありませんが、作品が評価され、 プロの小説家として認められたいと強く思うようになりました。


▲小説の資料集めを
していた頃

まだまだ二人とも手が掛かります!

▲私に初期衝動を
与えてくれたバンド

2000年末に解散してしまいましたが彼らの音楽は、私の精神・作品の中に宿っています。そして「彼」は今でも活躍中!

私は、「どうすれば自分の書いた作品が世に出るのか」とひたすら考えつつも、「まず自分が楽しむことが先決」と、 好きな題材を選び、毎晩少しずつ、コツコツ書こうと心がけました。「まず自分が楽しむ」とは、ミュージシャンの「彼」から学んだことです。 肉体労働のアルバイトをして小金を稼いでは音楽活動につぎ込み、食べるものもろくに食べず、デビューまでの数年間、貧困生活の中に自分を追い込んでいった 彼。 それでも、「自分が一番好きなことをやっている」という意識があったからこそ続けられたと振り返っています。

一方、私は夫のお蔭で食べ物にこそ困りませんでしたが、執筆に集中できる一人の時間がほとんどありませんでした。 当時、長女がやっと幼稚園に行き始めたばかり。二歳の次女は昼寝をあまりしなくても一日中元気一杯。 一般のスイス人家庭では、それぞれが正午に仕事場や学校から帰宅し、家族揃って昼御飯を食べます。 午前中は子供の相手と食事作りだけで終わり。午後は後片付けや子供連れでの買物に大部分を費やします。 長女の幼稚園での拘束時間も日本に比べれば短いものです。自分の時間と言えば、子供達が寝静まった夜しかありませんでした。 誰にも譲れない、自分だけの貴重な時間。一分でも、一秒でも惜しい! こんなにも時間に飢え、24時間が短いと思えたのは、 人生で初めてかも知れません。「時は金なり」とはよく言ったものです。

99年から始めたインターネット・メール交換を通じ、新たに日本在住の友人が沢山できました。 その中の数人に、気負い無く書いたコメディ小説(官能小説とも言われた!)数作を読んでもらいました。 「スイスに住んでフランス語を喋って暮らしていても、日本語文章力は落ちていない」と自負した私は、 小説を書いては文学賞に応募し始めます。最初に書いた中編小説のタイトルは「エトランジェ」。 夫と出会った英国留学の体験がモチーフです。そして、2000年の夏、人生を変えるきっかけとなる閃きが、私を突き動かします。 「あ~あ、どこにも行けないなんて・・・一人では何も出来ないなんて・・・ほんと、つまらないわ、つまらないわ」


▲三世代で長女ジェシカを囲んで。
初・ひ孫の誕生に喜んだ、元気な頃のおばあちゃん。
「ラ・ヴィ・アン・ローズ」の中に、彼女と、
彼女を育んだ土地への愛情を込めました

夫の祖母、セシルはベッドに腰掛けてぼやきます。彼女の青白い顔には、かつて私達を驚嘆させた、 「幾つになってもヤンチャで行動的で少女のように無邪気な」若作りおばあちゃんの面影すら見当たりませんでした。 その傍らで私は溢れる涙を拭い続けていました。 (もうおばあちゃんは死んでしまう・・・もうこの世で二度と会えないのだ!)  その見舞いの帰り道、私は夫に宣言しました。 「おばあちゃんのことを小説に書く!」 予感通り、セシルおばあちゃんは、私が帰国中の2000年8月6日、愛する七人の子供達に看取られながら生涯を終えました。  この年、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」はまだ存在していませんでした。

TRUE BLUE & SHINE

このエッセイを読んで下さっているお母さん方にはご経験がおありでしょうか? 出産後の女性が育児疲れや環境の変化などから心身に異常をきたすという マタニティーブルー。 ちょっとしたことにも敏感に反応し、イライラしたり涙を流したり。

長女出産後二ヶ月ほど、夜中の授乳で疲れて精神的に不安定だった時期はありましたが、大して深刻ではありませんでした。ところが次女出産後、何と一年 もこの病気を患ったのです。 出産前後に手伝いに来てくれていた両親が帰り、夫が仕事と音楽活動で忙しかった頃、私は3歳でまだまだ手のかかる長女と、赤ん坊の世話に疲れ果てていまし た。 フランス語も人並にマスターし、環境にはすっかり慣れ、知人友人も増えてスイスの生活を満喫している・・・自分ではそう思っていましたが、鬱状態になると 全てがネガティヴに思えてきました。 「友人といっても実はうわべだけではないか、スイス人は外国人を嫌っている、働く女性は家事と育児に専念する女性を無能だと蔑んでいる・・・」私は「劣等 感の塊」でした。そして最悪なことに、 弱き存在の長女に辛く当たることで欲求不満を解消しようとしたのです。私の生涯で最も恥ずかしい時期であると告白せねばなりません。 「高学歴、かつてキャリアを目指していた女性が家庭に入って幼児虐待に走る」という内容の日本の新聞記事を読んで自分の成れの果てではないかとぞっとした こともありました。


▲幸せな家族の風景
優しい夫と娘二人に囲まれ、幸せな家族を築いたつもりだったが・・・。

そんなある日の夜、私の人生を変えた一つの出来事がありました。私はいつものようにアイロンかけをしながら日本のビデオを見ていました。ビデオ鑑賞は当 時、唯一といってもいい私の娯楽でした。 音楽番組に、見知らぬ日本のロックバンドが出演していました。彼らの演奏が始まった時、衝撃が走りました。懐かしい、でも、新しい音。「私が求めていた音 はこれだ!」と。 画面に飛びつき、ビデオを巻き戻して何度も見ました。

13歳の時に洋楽・ロックに目覚めたことをきっかけに、西洋文化にばかり目を向けていた私。英語とイギリスが大好きで、それが高じて英文 科に進みました。 バブル絶頂期の大手銀行に勤めていても何かしら心は満たされず、辞めてイギリス留学。夫との出会い、ロマンス、結婚・・・。私の人生は決して行き当たり ばったりでも運命が狂っていたわけでもなく、 「ロック」を聴いた瞬間から現在までずっと繋がっていたのです。彼らの音を聴いた瞬間、ぐるっと回って原点に戻ってきたような気がしました。

丁度、インターネットを始めた頃でした。バンドの情報収集に努め、親や友人に頼んでCDや音楽雑誌を送ってもらいました。ロックバンドの熱狂的なファン になる・・・ここまでは誰にでも良くあることです。 しかし、彼らの音楽や生きざまには、それだけで終わらせないエネルギーが含まれていました。私は彼らの音や存在を通して自分自身に問いかけるようになりま した。「自分は一体何をしているのだろう?  ただ愚痴を言いながらぼんやり暮らしていていいのか? 折角与えられた人生を無駄に過ごしていないだろうか?」


▲二人の愛娘と
自分らしさを取り戻し、 生き甲斐を見つけたとき、母としても自信を持った。

バンドの中でもベーシストの人間性に魅力を感じた私は、彼の言葉の一つ一つが心身に染み込むようになり、自分という人間を深く追究するようになりまし た。 「誰でも皆、何か一つ光るものを持っている。自身と対話して自分を見つめ直してごらん。きっと答えが見出せる。ありのままの自分を好きになってごらん」

私は32年の人生をこと細かく振り返りながら、「自分に何ができるか?」と考えてみました。ありのままの自分を見つめ直し、出た答え、そ れは・・・。 「生涯を執筆活動に捧げる」

彼らが楽曲の中で歌ったように、「燃え上がる太陽は私のもとにも昇った」のです。

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