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2010年のバックナンバー

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

そ の2 ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男(1)

「アジョワ暴動」と呼ばれるこの事件を語る時、多くの人々は「独裁者バーゼル大公司教による圧政に耐えかねた勇気ある農民の反乱」と捉えがちだが、様々な 資料を見聞すると、ありきたりの「革命賛美」という単純な図式だけでは書き表せないような気がしてきた。
単なる歴史上の出来事として文章上だけでなぞるだけでは物足りず、できればこの暴動の首謀者である男の生涯を、いつかの日かもっと深く掘り下げ、追ってみ たいという思いに満たされながらこの原稿を書いている。


▲コージョネ村役場前に建つ
ピエール・ぺキニャの胸像

「アジョワ受任者のリーダー、自由のために死す」と書かれている。

ピエール・ぺキニャは1669年4月、コージョネ村に生まれ、1700年頃にマリー・マグダレンと婚姻し、子をもうけた。静かに余生を送っても何ら不自 然ではない年齢に達していた彼は、その強靭な肉体と精神力ゆえ、反乱の指導者として祭り上げられることになった。10年に及ぶ抵抗の末、壮絶な死を遂げた 彼は、地方の英雄として今日に至るまで名を残すことになる。

アジョワ地方は「バーゼル司教公国」の一部で、10世紀末よりバーゼル大公司教が政治的・宗教的に直接支配下においていた。
17世紀、アジョワ地方は30年戦争における皇帝軍・スウェーデン軍・フランス軍に踏みにじられ、傭兵の暴虐や略奪、更にはペストなどの伝染病の流行 で、貧窮していた。1726年、ジャン・コンラッド・ド・ライナッハ大公は「秩序と公正を推進し、法・財政をより良く管理する」目的で条例を発布した。複 数の委員会があらゆる商業の場に立ち入り、村々の権限を制限し、水・森林・塩・穀物・主要道路も司教の管轄下におかれた。一見、理不尽なこの条例は、寡婦 や孤児を保護し、貧者に恵みを施す組織をも整えている。

以前より、様々な条例、及び大公・農民間の協定において森林伐採・狩猟・漁獲・鉄や塩の売買については統制されていたが、役人達は法を必ずしも正しく適 用していなかった。そして更なる締め付けとも言える1726年条例によっても不正徴収は続けられ、農民達の怒りは募る一方だった。

農民達の不満を知った大公は彼らの意向を知ろうと1730年1月11日に国民議会(聖職者・貴族・平民からなる)を召集し、自ら演説を行ったが、反乱の 火種を消すまでには至らなかった。
1730年8月1日、アル(Alle)村の役場で集会が開かれ、若い男がある書類の写しを持ち込んだ。それはポラントリュイが75年間だけフランスのモ ンベリヤー伯の領地だった時代(1386-1461)、伯夫人・アンリエットによって授けられ、平民(有産階級)の色々な特権(税徴収の限度も記されてい る)を認める文書だった。この書状が大公司教の住まいであるポラントリュイ城の古文書管理室に「故意に」隠されていたと信じこんだ農民は怒りを爆発させ た。


▲処刑された通りは「ピエール・ぺキニャ」通り
と改められ、名誉回復した。

話はそれるが、このアンリエット夫人は慈悲深き賢貴婦人として庶民に慕われていた。伝説によると天は彼女の死を惜しみ、「Tante Arie(アリーおばさん)」として生まれ変わらせた。アリーおばさんはフランスのフランシュ・コンテ地方からスイスのアジョワ地方にかけて広く出没し、 様々な姿に変装して現れ、クリスマスに子供達におこずかいを配ったり、サンタクロースの如く煙突から登場したという伝承がある。
9月16日、8月の集会のメンバーのうち9つの共同体の代表が集まり、人民の権利を守るための12人の代議士を選出した。その中に、60歳を過ぎても尚 たくましいピエール・ぺキニャ、後にぺキニャと共に処刑されるChevenez(シュヴェネ)村のRiat(リア)、Coeuve(クーヴ)村の Lion(リオン)もいた。

アジョワの各村々は、反乱の旗の下に次第に一致団結し始めた。

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

そ の1 村の歴史と伝承


▲村の紋章
金色の足を緑の山の頂に
かけている雁(がん)

ジュラ州・コージョネ村。行政中心地ポラントリュイの東南5kmに位置する。2005年現在、人口2173人。ポラントリュイ市の副都心として、また新 産業区域として発展し続けているが、ジュラ州のどこにでも見かけるような小さな村である。
この村が何故、スイスで一番有名なジュラの村になったのか? そのお話は少し先に延ばすとして、今回はコージョネ村の歴史を追ってみる。

コージョネ村が文献の中に出てくるのは1139年、法王イノセント2世の大勅書の中であるが、紀元前から集落は存在していた。その確固たる証拠が今日 「穴あき石」(La Pierre-Percee)とよばれている巨石である。
高さ2,4m、幅2,3m、厚さ40cmの石には、直径60cmほどの丸い穴が空いている。巨石遺跡はイギリスのストーンヘンジなどに見られるように一 般にはケルト文化と思われがちだが、元々は更に以前の時代より巨石は築かれており、ケルト人は自分達の信仰・神話・伝承を巨石遺跡と結びつけたに過ぎな い。「穴あき石」が建てられた時代は、ケルトの初期民族セクァ二ア文明が栄えていた紀元前3000年頃と推定される。


▲謎の巨石、「穴あき石」(La Pierre-Percee)

この巨石建造の目的は謎に満ちているものの、最近の研究では、この石は集合墓地において、墓碑を組み立てる石の一枚ではないかと見られている。穴は埋葬 品を外から入れるためである、または霊魂の不滅を信じるケルト信仰において魂が出入りするためだとも言われている。標石であるとも、ドルイド(神官)が天 体観測をした穴とも言われている。

何世紀もの間ヨーロッパで勢力を伸ばしていたケルト人も、紀元前3世紀に入ると、次々と敗北するようになった。紀元前58年、ジュリアス・シーザーが ローマ軍を率い、当時ガリアと呼ばれたケルト人の土地に侵攻した。そして、当時セクァニア人の土地を強奪し圧政を加えていたゲルマン人の一民族・スエヴの 長、アリオヴィストの軍勢を破った。
その戦いについて、「ガリア戦記」の中でシーザーは「戦場はライン川より5万歩、ブザンソンより19里」と 書いているが、それは正にコージョネの平原に位置している。内容を信じた人々は、その辺りを「シーザーの野営地」と名づけたが、実際は現在のフランス・ア ルザス地方の町、Ribeauville(リヴォヴィレ)付近と言われている。しかし、ローマ人・ローマ軍がコージョネ村近郊を通ったことは発掘物からも 明らかである。

最後に、ポラントリュイ行政区の旗にも描かれている、下半身が蛇、上半身が鳥という大蛇の伝説をご紹介しよう。
この大蛇は小さな丘の岩場に住み、夜になると水を飲みに下りてきた。その目は宝石でできていて、超自然の能力があり、健康と富をもたらした。大蛇は水の 中に落とさないように、飲む時は目玉を外す習慣があった。


▲「大蛇伝説」の主人公(悪役?)

ある夜、ある農家の召使がこの目を奪おうと、鋼鉄の針を張り巡らした樽の中に入り、大蛇を待ち伏せした。樽には小さな扉をつけていた。大蛇が目を外すと 召使はその扉を開け、手を伸ばして奪い取った。気づいた大蛇は怒り狂い、樽に巻き付いたが、針に刺さって皮膚を裂かれ、大怪我をして逃げていった。
召使は早速その目を持って帰り、足が不自由だった主人を治した。その効力と奇跡はたちまち村人達に知れ渡った。この農民と召使は豪奢な生活を始めた。

しかし、この物語の結末は、めでたしめでたしとはいかない。
ある日、村の代表団がこの豪農を訪れた。中に入ってみると、凄惨な光景が目に入った。大蛇に締め上げられたような形で体が潰された主人と召使が青い顔で 床に転がっていたのだ。村人達は家中を探したが、「目」は見つからなかった。大蛇は自分の財産を取り戻しに来たのである。以後、村人達は決してその目を手 に入れようと試みなかったそうである。
〈参考文献〉
Courgenay-Courtemautruy村公式サイトhttp://www.courgenay.ch/
ジュラ州情報サイト・ジュラネットよりCourgenay村のページhttp://www.juranet.ch/localites /communes/ajoie/Courgen.htm
http://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/autreAjoie/Courgenay/courgenay.html

ポラントリュイだより:奇跡の聖母像伝説


▲聖ピエール教会
14世紀建造。

▲聖ピエール教会内の聖ミッシェル礼拝堂に安置される
「奇跡の聖母像」

▲ロレット礼拝堂
約100年毎に改修工事が
きちんと行われている

ポラントリュイ市旧市街にそびえ立つ聖ピエール教会。 この教会内から、聖ミッシェルという信徒団体(1337年結成)が建造した聖ミッシェル礼拝堂(1423-40建設)に直接入ることができる。
中世から宗教的・政治的に実力を持ったこの団体は、時代ごとにこの礼拝堂に惜しみなく金をつぎ込み、飾った。 大天使ミカエル(ミッシェル)を描いた19世紀のステンドグラスは暗い堂内の中で輝くばかりであるが、私の目はまず、入口近くの古ぼけた像に向けられる。
「Notre-Dame des Annonciades」(アノンシアド会の聖母マリア)は、別名「奇跡の聖母」とも呼ばれ、400年にも渡って大切に保存されている。 人々の間に語り継がれ、ポラントリュイに関する歴史書にも登場するこの聖母像について、ご説明する。

三十年戦争(1618-48年)は、ドイツを中心に行われた戦争である。ハプスブルグ・ブルボン両家の国際的敵対と、ドイツ新旧両教徒諸侯間の反目を背 景に、 皇帝の旧教化政策を起因としてボヘミアに勃発。戦火はヨーロッパ各国に飛んだ。この時期、ポラントリュイを含む現在のスイス国・ジュラ地方はバーゼル司教 直轄の小国家であった。 ローマ帝国、スウェーデン、フランスといった列強の侵攻で、地域は多くの被害にさらされた。ことに傭兵の狼藉はひどいもので、略奪・放火が繰り返され、住 民は飢えに苦しみ、 ペスト・チフスが蔓延し、国は荒れ果てていた。
その頃、戦火の真っ只中にあったフランス・アルザス地方のアノンシアド修道会を抜け出し、ポラントリュイに逃れてきた尼僧達がいた。 彼女達は、幼いキリストを抱く聖母マリア像を携えていた。

1634年、スウェーデン軍が再びポラントリュイの町に近づいているという情報が入り、住民は恐怖に怯えていた。尼僧達は、この聖母像を敵の方向に向 け、侵攻を阻んでくれるよう、祈り続けた。 次の朝、スウェーデン軍がポラントリュイ市を見渡せる南の丘に着いたところ、濃い霧が市を包み込み、視界を遮っていた。このため、スウェーデン軍は町に下 りることなく、退却していったという

別の文献はこう語っている。
「・・・尼僧達は聖母像の前に平伏し、町の解放を願い続けた。次の朝、スウェーデン軍の上に大きなコートの形をした青い巨大な雲が現れた。これは聖母の 加護の印であった。 その日、スウェーデン軍は退却し、その地方から去っていった」

「奇跡」と歓び湧いた町の人々は、侵略軍が踏みとどまった場所に「La chapelle de Lorette」(ロレット礼拝堂)を建設(1653-57)、 現在、毎年8月15日の聖母被昇天祭に聖母像を輿に載せ、ロレット礼拝堂まで巡礼する催しが行われている。
この聖母像は、フランス大革命の際、貪欲な革命軍がパリの博物館に売り飛ばそうとしたところを、ある市民の機転で難を逃れた。現在は、先述の聖ピエール 教会内の聖ミッシェル礼拝堂に安置されている。

ポラントリュイは、ジュラ地方の中でも比較的霧の少ない地域である。400年近く前のこの事件はただの空想上の物語なのか、それとも現実に起こった奇跡 なのか? それを信じるか否かは貴方次第である。

付記・ちなみに、私はこの伝承にいたく感銘を受け、小著「レクイエム」にて主人公に影響を与える場面に挿入した。(小説自体はフィクションです)
〈参考文献〉
「Images de vieux Porrentruy」Roger Ballmer著・出版元Democrate SA(1984)
「PORRENTRUY Hier et aujourd’hui」編集・出版元Le Pays(1996)

ポラントリュイだより:イノシシ伝説


▲市庁舎前のイノシシ像
ポラントリュイ市の観光名所である。

ポラントリュイの古都に翻る旗の中に、銀地に恐ろしげな目の黒いイノシシが記されたものがある。 また、観光局などで手に入る、町に関するパンフレットなどを見れば、こちらは可愛らしく漫画化されたいのししが印刷されている。 この「イノシシ」こそ、ポラントリュイ市の紋章である。

古来より現在に至るまで、この地方の森林にはイノシシ、鹿、キツネ、野ウサギなど、狩人にとっては獲物となる動物が生息している。 (★ 現在、狩は、季節や曜日、射止めて良い頭数など厳密に指定されている。例えば、イノシシの冬狩りは12月1日から一ヶ月間のみ、 10月に狩ることができる野ウサギは狩人一人一匹、二日間に限定と法で決まっており、破れば罰金や罰則が待っている) イノシシは住民にとって身近に存在する動物ゆえに、市の紋章に選ばれたともいえる。
また、別説では、勇敢さ、勇気の象徴であるイノシシは、しばしば領主旗にも描かれていたゆえ、そこから引用されたという。 このように紋章の由来には様々な説があり、定かではない。



2005年1月1日より施行された
税つきゴミ袋にも
キャラクター化されたイノシシ


市庁舎の中にあるポラントリュイ市の旗

こちらのイノシシは恐ろしい三角目

非常に叙情的な物語で綴られる説を御紹介する。

「昔々、ある日、巨大なイノシシが、しっぽをピンと立て、大口を開け、全速力で駆けてきた。 この生き物は、10ピエ(当時の計量単位、1ピエ=約32,4cm)もある城壁を、何でもない囲いのように飛び越え、町に侵入した。 町の住民は恐怖におののき大騒ぎとなったら、勇気ある一人が窓から斧を投げつけた。イノシシは、市庁舎の階段付近で絶命した」
この出来事は、その後、町の議会で取り上げられ、《町を囲む城壁の一部が敵の攻撃に対して十分な高さではない》と判断され、 より城壁を高く、強化するきっかけとなった。
さらに伝説は語る。
「このイノシシは、疑いなく、町の守護《能天使》(=天使9階級の中で下から4番目)の使いである。 議会は、今後、イノシシを町の紋章する決定を下した。こうして、旗は銀地に黒イノシシ、全ての書類への公印は、善霊が化身した、 《毛むくじゃらで、飛び跳ね、唸る》イノシシとなった」

もう一つの伝説である。
「昔々、ジュラの森林は獲物の宝庫であった。狩は、バーゼル司教の楽しみの一つであり、それに一日を費やした。 ある日、司教一行は素晴らしいイノシシを追い込み、追跡した。 そのイノシシはローフォン(Laufon=現在バーゼルラント州の町の一つで、BaselとDelemontの中間辺りに位置する)に逃げ、 町を横切り、それからドレモンに入った。ここで、門を勢いよく落とし、傷つけたにもかかわらず、イノシシは止まらなかった。 イノシシは血を流しながらポラントリュイに突進し、市中に入った。有産階級の人々は門を閉ざしてようやくイノシシを捕獲し、殺した。

同日、バーゼル司教はこの三都市の紋章を定めた。
ローフォンは、イノシシの色、すなわち黒地に白い司教杖。ドレモンは、イノシシが流した血の色、 すなわち赤地に白い司教杖。 そしてポラントリュイは、銀地に黒いイノシシ」

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Monsieur Claude Voisard de Fontenais


▲ローフォン市の紋章


▲ドレモン市の紋章

〈参考文献〉
ジュラ州ポラントリュイ市観光局サイトよりhttp://www.porrentruy.ch/
「Images de vieux Porrentruy」Roger Ballmer著・Democrate SA

〈写真引用〉
バーゼルラント州公式サイトよりローフォン市のページより

http://www.baselland.ch/docs/gemeinden/info/laufen.htm

ドレモン市公式サイトよりhttp://www.delemont.ch/

ポラントリュイだより:駅物語《その2》

「ベル・エポック」と呼ばれる1900年代初頭、鉄道の発展と共に、ポラントリュイは最盛期を迎えた。
観光客、ビジネスマン、商人、外交官が数多くポラントリュイ駅を利用することになったため、駅前を中心として町そのものの開発も進んだ。
現存する駅前の数本の大通りは、この時期に建設されたものである。市の人口増加もめまぐるしく、1879年に4452人だった住民が1900年に は6959人に達した。 (ちなみに2003年末の統計では、6630人)産業が栄え、それに伴い定住労働者が増加したため、新興住宅地も次々と開発された。


▲現在のポラントリュイ駅
二年ほど前、外壁の修復が終わった。

パリ、ロンドンと南ヨーロッパを結ぶ中間地点に当たるポラントリュイは、旅人の休憩所としての役割も果たすようになった。
駅から旧市街にかけ、ホテル・レストランが発達した。その中でも旧市街の入り口に位置する「Grand Hotel International」(1907年開業)は 当時としては最先端の設備、すなわち電気、浴槽、セントラル・ヒーティングを完備した高級ホテルだった。 旅行客が退屈しないようにとおよそ800人収容の劇場が内部に設置された。天井は当時流行りの化粧漆喰で贅沢に装飾が施され、 一階席をぐるりと囲んで見下ろすバルコニー席も用意されていた。

このホテルは1912年には既に倒産し、カトリック団体に売却された。この団体は後に「L’Inter協会」と名称変更し、建物を管理している。 現在はアパート、そしてレストラン「L’Inter」が入り、劇場はコンサートや演劇などの催しに、頻繁に利用されている。
このホテルの倒産は、ポラントリュイ衰退の序曲と言えるかも知れない。
1914年、第一次世界大戦勃発。1918年、敗者ドイツよりアルザス・ロレーヌ地方がフランスに返還されると、 フランスはストラスブール(アルザス)―バーゼル間鉄道を好んで使用するようになった。ジュラ側の働きかけもむなしく、 1928年からフランス―ジュラ間路線は荒廃の一途を辿った。1938年にはフランス国有鉄道(SNCF)設立。翌年、再び世界大戦勃発。全ては遮断され た。


▲二十世紀初頭から賑わっていた「駅前ホテル」

▲かつてのホテル・インターナショナル
現在はレストラン・劇場となっている。
外壁は当時も黄色に塗られていたそうだ。

細々と乗客を運び続けていたフランス国境の駅デルとスイスを結ぶ路線は、1990年代に入って閉鎖された。

シナゴーグ物語にも登場していただいた、パリ出身のデニーズさんはこう嘆く。
「昔はパリとポラントリュイが繋がっていたから里帰りも楽だったし、異国で暮らす寂しさも減っていたわ。今では・・・何てこと。 直線距離ではあんなに近いパリに行くのに、わざわざドレモン、バーゼルまで迂回しなければならないなんて! もうパリに行くこともできなくなってしまっ た。 私は車の運転もできないし、この年で電車を乗り継いでの大旅行はもう無理なのよ」
彼女は確か82歳。帰国のために12時間も飛行機に乗る私にとっても身に染みる話である。

フランス東部鉄道会社は、重税をかけられるようになったアルザス地方を通る鉄道(ベルフォール―スイス・バーゼル間〉を利用しなくなり、 アルザスを通らずにスイス入国を可能とする鉄道網を急速に発達させる必要に迫られた。この会社の財政・技術援助により、 1872年にはフランス国境の町デル(Delle)(ベルフォール県)―ポラントリュイ間鉄道開通。同年、ポラントリュイ駅開業。そして、ジュラ地方の鉄 道網は次々と増えていった。 高架橋やトンネルも同じくフランス東武鉄道会社の援助で開通した。1877年にはかつてアルザス地方への路線を伸ばしていたベルフォールがデル駅と結ばれ た。

現在、ポラントリュイ駅は、ジュラ州各地を結ぶローカル駅として、一時間に一本の電車を走らせている。 2004年12月12日よりダイヤが大幅に変わり、一時間に二本(うち急行列車が一本)走り、それぞれバーゼル駅とビエンヌ駅(ベルン州)に直行となる。 電車を多く利用する私としては嬉しい限り。そして、かつての栄光を取り戻すまではいかずとも、 バーゼル・ベルン・ヌーシャテル地方の人々のポラントリュイ訪問が増えて欲しいと願ってやまない。

〈参考文献〉
スイス国・ジュラ州公式サイト資料より http://www.jura.ch/
ジュラ州ポラントリュイ市ガイド協会資料よりhttp://www.juratourisme.ch/

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Madame et Monsieur Denise et Jean Vallat

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