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2010年のバックナンバー

ポラントリュイだより: ナポレオンが持て余した二人の軍人《その1》


Porrentruy城を出た観光客が石畳の坂道を下りきると、間口が狭く古い建物が軒を連ねている通りに出る。13世紀に形成が始まった 「Faubourg de France」(フォーブー・ド・フランス)という市街地で、中世都市らしい情緒が漂う。その西の端にそびえ建ち、全くスタイルの違う白壁のどっしりとし た屋敷「Delmas館」を前にした時、私はガイドとしてというよりも、ヨーロッパ史を愛し探求する者として彼の半生を語らずにはいられない。
ここでは、Delmas将軍、そしてもう一人、対照的な道を歩んだ別の軍人についても語りたい。


▲フランス・Argentatに残るDelmas将軍の生家

Antoine-Guillaume Mauraihac d’Elmas de La Coste、通称Delmasは、1768年、フランス・リムザン地方コレーズ県にあるArgentatに、軍人の子として生まれた。12歳の時にアメリ カに渡り、そこでの生活を通して愛国心に目覚めたようだ。帰国後、パリの軍事学校で学ぶが、リベラルな思想の持ち主は中尉という階級を得てから辞め、 1788年に生まれ故郷のArgentatに引っ込んだ。
フランス革命勃発後、Delmasは地元の改革に努め、小郡(群と市町村の中間に当たる行政区)で国民軍を組織した。1792年、周囲に推されてコレーズ 県第一大隊長、翌年には師団長(将軍)に昇進した。革命は、国内暴動からフランス対ヨーロッパ諸国という大戦争に発展していく。

Delmasと配下の義勇軍は各地の戦いで勝利し続けた。1795年、ナポレオン軍のイタリア遠征に参戦し、連勝に次ぐ連勝を重ね、将来の皇帝の信頼を得 ていった。
Delmas像を語る資料は少ないが、私が調べた範囲では、この根っからの軍人は陰謀渦巻く革命後のフランスにおいて、どうも率直過ぎたようだ。

ブリュメールのクーデター後に樹立した総領政府で第一執政となったナポレオンは、政治にも手腕を発揮していった。1801年、フランス革命以来断絶してい たフランス政府とカトリック教会の関係を修復するため、ローマ教皇ピウス7世とLe Concordat(コンコルダート=政教条約)を締結した。

翌年の復活祭の日、パリのノートルダム大聖堂でコンコルダートを祝う式典が行われた直後のことだ。野望が着実に実現しつつあるナポレオンが上機嫌で Delmasに話しかけた。
「いい式典だったよなあ」
対するDelmas将軍の、あまりにも正直な答えはナポレオンの逆鱗に触れた。
「大した宗教儀式でしたよ! 貴方が復活させたもの(=政教条約)を(いずれ)廃止するために殺す百万の人間はいませんでしたがね」
処刑するには惜しい男だと判断したのだろう。ナポレオンは、当時フランスのHaut-Rhin(オー・ラン)県の一郡庁であったPorrentruyに Delmasを追放した。


▲所変わって現・スイスPorrentruy市に残る将軍の館。
将軍の子孫は(公式には)おらず、現 在は大手家具店Nicolが所有する。

▲将軍が安らぎを求めて通ったキャバレー「Soleil」(ソレイユ)。
ここで、後に妻となる Vetter嬢と知り合った。
現在は空家となっており、保存が懸念される。

追放の身、とはいえ、豪華な屋敷をあてがわれたDelmas将軍は、戦火とはほど遠い小さな町で悠々自適の生活を送り始めた。気さくな性格の彼は町の生活 に溶け込んでいった。肉屋の小僧達を「血まみれ王子」と呼んでからかったり、貴族屋敷を改装したキャバレーに足繁く通い、そこで出会ったVetter嬢と 結婚している。 しかし幸か不幸か人気者過ぎる彼には他にも数多くの愛人がいたらしい。困った夫人は夫を夜な夜な小部屋に幽閉した。さすが、百戦錬磨の軍 人でもあるDelmas将軍は夫人が寝静まるのを待って秘密の通路から抜け出し、密かに愛人の元に通っていたという説がある。(その通路は未だ見つかって いない)

働き盛りの年齢にあるDelmas将軍が気楽な隠居生活を享受している一方で、1804年に皇帝に即位したナポレオンは、ヨーロッパ侵略戦争に終始してい た。1809年、北方に同盟国を作る意図でナポレオンはある元帥をスウェーデン王位継承者に推薦するが、これが自身を破滅に導く一因となるとは知将・ナポ レオンも予想だにしなかったのだろうか……。

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

その3 スイスで一番有名なジュラ人、Petite Gilberte(3)


▲1854-’56年に再建されたコージョネ村の教会。
後期ロマネスクとゴシック様式の混在した広大な
建物である。当時、ジルベートも通っていたのだ
ろうか。

第一次世界大戦終結後も、懐かしさにかられた旧従軍兵達が家族と共に「巡礼のように」駅前ホテルを訪れた。しかし、当のジルベートは1923年、ティ ツィーノ州(スイス・イタリア語圏)旅行中に知り合ったザンクトガレン州出身の商人ルイ・シュナイダーと結婚して生家を去っていた。夫婦はチューリッヒに 新居を構え、間もなく長女ジャンヌが生まれた。

1930年にジルベートの父はホテルを売却し、経営は他人の手に渡ってしまうが、歌によって人の口から口へとスイス全土に語り継がれたジルベート人気は途 絶えることが無かったどころか、更に盛り上がっていく。

1939年、国境警備開始25周年を記念し、ルドルフ・ボロ・メーグリン(Rudolf Bolo Maeglin)が「コージョネのジルベート 」という小説を発表した。小説はメーグリン自身によってすぐ、演劇用に書き直された。
同年、この劇はチューリッヒにて発表された。満員御礼の計8回の公演の後、別の劇場では125回も上演され、続いてバーゼルで80回、ザンクトガレンで 50回……という超ロングランヒットとなった。 プレミア公演の度にジルベート本人が姿を現し、観客の熱烈な喝采を浴びた。熱心なファンは、時には自宅にまで押しかけてきたようだ。1939年8月26 日、ジルベートが実弟ポールに送った手紙の抜粋である。

「……アパートにとても入れません。花かごや紅白のリボンで飾られたブーケで一杯。そして私も自分宛の手紙に押しつぶされています・・・手紙を長く書くこ とは不可能です。電話はひっきりなしに鳴ります。花、本、贈り物が殺到し続けています。8日間私は寝ておらず、何も飲まず、何も食べていません!……」

栄光の代償はいつの時代もこうである。

1941年には美人女優アン‐マリー・ブラン(Anne-Marie Blanc)主演で「コージョネのジルベート」が映画化され、これも大成功を収めた(私は残念ながらこの映画をまだ見ていないが、かなりフィクションが かっているそうである)。

時は第二次世界大戦中。あくまでも中立を貫き通すスイス軍は国境警備に当たっていた。ご存知のようにスイスは多言語国家。現在でも度々起こる現象だが、ド イツ語圏とフランス語圏では政治的に意見を異にすることが多い。しかし、国民が一致団結して国を守らなければならない時勢にメンタリティの違いうんぬんで 仲間割れをしているどころではない。そこで、先の大戦中に「ドイツ語圏」の従軍兵の心のよりどころだった、「フランス語圏」の聡明な美しい女性コージョネ のジルベートが、スイス統一のシンボルとなったのである。

戦後、ジルベートは伝説的ヒロインとして人々の記憶の奥にとどめられるようになったが、戦争記念行事の度にドイツ語圏では劇や映画が繰り返し上演された。 それゆえ、ジルベート人気は特にドイツ語圏で世代を超えて語り継がれているのである。

ジルベートは1957年5月2日、他の多くの家族と同様、癌で亡くなった。享年61歳。彼女の亡骸はチューリッヒNordheim墓地の夫の傍らに埋葬さ れた。当時のコージョネ村長シモン・コレー氏が葬儀に赴き、以下の言葉を捧げた。

「彼女は父なる宿に灯る太陽の光でした」


▲参考文献として役立った
『Gilberte de Courgenay』
(Damien Bregnard著)

その後、駅前ホテルはどうなったのだろうか?

1997年、56年もの間経営していたドブラー・ジゴン一族が店を手放したため、ジュラ州立銀行が買収。この時、ジルベートの姪エリアンさん、甥エルヴィ ンさんを初め、政治家や実業家などジュラ州で名の知れた人々が中心となって立ち上がり、ホテルの買収・再建、そしてジルベート時代の文化伝承のために奔走 した。「コージョネのジルベート財団」と名づけられたこのグループは、一時、財政難から買収をあきらめかけたが、バーゼルの実業家クレーリー&モリッツ・ シュミッドリ夫妻(Klärly & Moritz Schmidli)が多額の寄付を施したため、無事にその任務を果たすことができた。2001年4月には改装工事が終わり、新装開店記念式典には連邦議会 とスイス23州すべての代表が参列した。

2005年8月の時点で、ホテル・レストランは順調に経営を続けている。軍人達がジルベートと共に飲み、歌い、踊った大ホールの壁には当時の写真がずらり と飾られているので、訪れた方は是非一つ一つに見入って欲しい。彼女の微笑は今も華やかに、そして太陽のようにまぶしい輝きを放ちながら私達に話しかけて くる。

Mes remerciement particuliers s’adressent à:
Madame Eliane Chytil-Montavon de Courgenay

【参考文献】
『Gilberte de Courgenay』(Damien Bregnard著)
ホテル・レストラン「駅前ホテル・コージョネのジルベート」のWebsite

【写真引用】
http://www.juranet.ch/localites/communes/Ajoie/autreAjoie/Courgenay/gilberte.html

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

その3 スイスで一番有名なジュラ人、Petite Gilberte(2)

ポラントリュイ市及び郊外ガイド協会には個性豊かなガイドが揃っている。ジルベートの姪エリアンさんもその一人である。彼女の父親はジルベートの弟、 ギュスターヴ・ジュニアである。


▲1915年。ホテル裏で兵士と一般人に給仕
をするモンタヴォン姉妹とその従姉妹。
後列中央がジルベー ト。

ガイド協会の定例集会がコージョネ駅前レストランで催された時、私達はエリアンさんがホテルを訪れる観光客を前に語っていると思われるジルベート伝記物 語を聴く機会に恵まれた。エリアンさんは身振り手振りを交えながら表情豊かに語った。

「私がチューリッヒに住み始めた頃、許可をもらいにお役所に行かなくちゃいけなくて、緊張していたの。しかめっ面の無愛想なお役人が前に座っていた。と ころがね……『名前は?』『エリアンです』『姓は?』『モンタヴォンです』『ん……? じゃあ出身地は?』『コージョネです』『(突然叫ぶ)あああ~!  コージョネのジルベートちゃん!!!』更に私がそのジルベートの姪だと説明すると、もう彼は感激、興奮。もちろん、手続きもスムーズに行ったわ。それから もう私は女優のような気分。大得意だったわ。なぜって皆が私に寄ってくるんだもの……ジルベートの話を聞きたくてね」

その役人がジルベートに面識があったかどうかは聞き逃したが、戦後当時、スイス・ドイツ語圏でのジルベート人気を印象付けた話だった。この人気がただ軍 人の中で収まっただけではなく国民レベルに達したのは、今も昔も変わらない、マスメディアの力だった。そのきっかけを作った歌手の話をしたい。

ハンス・イン・デア・ガント(Hanns in der Gand,1882-1947)はポーランドからスイス・ウリ州に移民した医者の息子として生まれた(本名はLadislaus Krupski)。彼は大きなリュートを手に歌い、そのスタイルは吟唱詩人と言われていた。スイスの古い民謡を歌いながら駐屯中の部隊から部隊へと渡り歩 いていた1917年2月22日、彼はジルベートの働くホテルでスイス軍第二師団のある隊を前にコンサートを開いた。人気者ジルベートに興味を持ったイン・ デア・ガントは彼女に直接聞いた。


▲現在もコージョネ駅前ホテルのカフェ内で
見ることができる「コージョネのジルベート」の絵画。
ジョルジュ・ヴィッティーニ作(1949年)

「ジルベートさん、貴方は何人の兵士と将校をご存知ですか?」
「兵士は30万人、将校は全員です」
冗談か事実かはどの資料にも記されていないが、ジルベートの答えは確かに吟唱詩人を強く動かした。彼は早速曲を書き上げ、同年10月11日、コージョネ 村祭りの日に駅前レストランを訪れた。
「モンタヴォン夫人、イン・デア・ガントさんがお嬢さんのために作った曲を披露したいと言っています。私のテーブルにお嬢さんを同席させてもいいでしょ うか?」  アンドレア少佐が許可を求めた時、母親はまったくいい顔をしなかったらしいが、周囲の雰囲気にしぶしぶ認めたという。詩人はホールの中央に立ち、唇に笑 みを浮かべ歌い始めた。
スイス・ドイツ語で始まるこの歌はリフレインのみフランス語である。その部分になると21歳の女性ジルベートはあまりの恥ずかしさに席を立って去ってし まったそうだ。この歌は以下のサイトで歌詞を見ながら聴くことができる。

http://www.swisstenor.ch/musik/mediaplayer/probe9.html

※リフレインの部分(マルキ明子訳):

それはジルベートちゃん、コージョネのジルベート
彼女は30万人の兵士とすべての将校を知っている
それはジルベートちゃん、コージョネのジルベート
スイス全土とすべての軍が彼女を知っている

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

そ の3 スイスで一番有名なジュラ人、Petite Gilberte(1)

ポラントリュイの一つ手前の小さな駅、コージョネ。この駅に降り立つとすぐに、可愛らしい建物が目に入る。スイスのどこの村にでもあるような個人経営の 小さな駅前ホテル。


▲コージョネ村駅前ホテル・レストラン「Petite Gilberte」
(2005年8月撮影)

ところが、ホテル前に観光バスが一台、二台と横付けされていることも珍しくない。観光客の会話に耳を澄ますとスイス・ドイツ語(注・スイス・ドイツ語は 標準ドイツ語と似て非なる言語である)が聴こえてくることが多いだろう。それもそのはず、ここはスイス、特にドイツ語圏で最も有名で最も人気のあるジュラ 女性がかつていた場所なのだから。
物語は1906年までさかのぼる。この年、ギュスターヴ・モンタヴォンという時計職人が駅前ホテルを購入し、家族と共に移り住み経営に乗り出した。三年 経つと、ホテルの拡張工事が始められ、村の楽隊や様々なグループが使用するホールが作られた。数年後、このホールは村人ではなく、スイスの他言語圏から集 結した軍人達で賑わうことになる。
1914年6月28日。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ=フェルディナント夫妻はサラエボを訪問中、セルビア人過激派の青年に暗殺され た。オーストリアは報復のため、ただちにセルビア併合を宣言。ドイツはそのオーストリアを支持。一方、セルビアの独立を支持するロシア、更にイギリス・フ ランス・イタリアも加わり、ヨーロッパは戦争に突入した。やがて中東、中国大陸にも飛び火し、植民地と世界の覇権を競い合う帝国主義戦争としての性格を帯 びた第一次世界大戦へと拡大していった。

戦争が始まるや否や、スイスは迅速に対処した。1914年7月31日、軍は前哨に配置された。8月3日、連邦議会は総動員令を発した。25万人の士官、 下士官、兵士、更に20万人の補充、そして4万5千頭の馬が軍役についた。

総動員令発布後、スイス軍はフランス・ドイツ戦線に近いジュラに配備され、塹壕が掘りめぐらされた。これによって、村々のホテル・レストランは、軍隊の 駐留場所ともなった。コージョネ村の位置するアジョワ地方には、軍の四分の三、主にスイス・ドイツ語圏出身の隊が駐屯した。


▲ジルベート・モンタヴォン
「真ん中分けで結い上げた黒髪が
えくぼを浮かべた丸顔を包み、 華やかな笑顔が
印象的な女性」と姪のエリアンさんは語る

ジルベート・モンタヴォンはギュスターヴとルシーン夫婦の三女としてホテルの一階で生を受けた。
第一次世界大戦勃発当時、ジルベートは18歳。レストランでの家族の役割はそれぞれ定められていた。でっぷりと貫禄のある母ルシーンは勘定台の後ろに常 に座り、家族を含む使用人が働く様子や客をじっと見て采配を振るっていた。ジルベートは姉二人と共に給仕。弟二人は音楽の才能が有り、ヴァイオリンやピア ノ、アコーディオンを演奏し、夕べを活気付けた。(注・この弟の一人、ポール・モンタヴォンは後にジュラを代表する作曲家、音楽家として活躍した。アジョ ワ地方の永遠の名曲として今でも宴会やコンサートの度に繰り返し演奏される楽しいマーチ曲「Salut à l’Ajoie」の作曲者である)

三姉妹の中でも特に笑顔が明るく美しい彼女は、休息と娯楽を求めてやってくる兵士達の人気者となった。彼女はただ小柄で可愛いだけでなく、機知と社交性 に富み、トランプの「ブリッジ」の名手でもあった。また、義務教育を終えてから裁縫の勉強のためにドイツ語圏に住んだことがあり、このホテル・レストラン で唯一スイス・ドイツ語を解する女性だった。
語学力もさることながら、彼女の突出した才能は、驚異の記憶力だった。彼女は接した将校・兵士すべての名前、容姿の特徴や彼らとの会話の詳細 (例えば出身地や家族構成など)を覚えていた。その上、故郷を遠く離れ家族を心配する兵士達の話を親身になって聞いてやり、決して内容を忘れなかった。一 旦兵役を終えて故郷に帰り、再び赴任してきた時にチャーミングなジルベートの記憶にとどめられていたことを非常に喜んだことは言うまでもない。

ジルベートの噂は士官から士官、兵士から兵士へ、そしてスイス全土へと伝わっていった。彼女のニュースは、中央スイス在住の、あるシンガーソングライ ターの興味を引いた。このことが、結果的にジルベートを国民的アイドルに導いていく・・・。

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

そ の2 ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男(2)
農民代表団はアンリエット夫人の文書を尊重するように大公司教側に働きかけたが、既に無効だとはねつけられた。結局、神聖ローマ帝国から代表者として使 わされていた駐スイス・ライヘンシュタイン伯の調停に頼ることになった。思わぬことに、ライヘンシュタインは農民の正当性を認めた。
予期せぬ勝利に狂喜した農民の一部は大公司教の顧問であるラムシュワグ男爵の所有地で暴徒化し、大損害を与えた。この無益な行為がすべての不幸の元凶で あったと言えるかも知れない。
その後も、興奮やまない1700名の農民達は武装し、指導者ピエール・ぺキニャを逮捕しに来た軍隊に立ち向かい、撃退した。  農民代表団はウィーンの帝国裁判所に、税の支払いを年一度のみにする判決を下すよう訴えた。この時、ぺキニャは再び大公側の手に落ちそうになったが、護 衛の騎馬兵が撃退した。


▲市庁舎前でのピエール・ぺキニャ(白髪の男性)の
処刑風景を描いた絵(ジョゼフ・ウッソン作)

5年後、アジョワの各役場前に判決文が掲げられた。
「民衆はあらゆる点において正当ではない。すべての訴えをここに却下し、各々の仕事に速やかに戻るよう、強く命じる」

判決に打ちのめされたものの、反乱軍は闘争を再開した。ジャック・コンラッドの後継者であるジャック・ジギスモンド・ド・ライナッハ大公司教(別名傲慢 大公とも呼ばれる)は、反乱を鎮圧するため、フランス国王ルイ15世に援軍を頼んだ。

ぺキニャは大公司教の支配を逃れスイスの一州として独立したいと策を練り、代表団と共にベルンを訪れた。しかし、却下され、意気消沈してアジョワに戻る 途中、大公司教の密使にBellelay(ベルレー)で捕らえられてしまった。
ぺキニャはSaignelegier(セニュレジェ)で投獄された後、1740年5月2日、ポラントリュイ城の牢獄に移送された。ここで彼は六ヶ月間取 調べを受け、905もの質問に答えなければならなかった。その結果、検事はぺキニャを反乱と大逆罪によって起訴するのに必要な証拠を手に入れた。ロセ弁護 士の果敢な弁護も虚しく、71歳の老指導者は同年10月26日、死刑判決を言い渡された。首謀者格であるリアとリオンも同判決だった。

10月31日、3人はポラントリュイ市庁舎前にて、首をはねられた。
刑はそれで終わらなかった。ぺキニャの首は故郷のコージョネ村に向けて放置され、体は四つ裂きにされた上にアジョワの各役場入口に吊るされたとも、ポラ ントリュイの四つの門に吊るされたとも言われている。首謀者達の財産は没収され、ぺキニャの息子は重労働の刑に処せられた。


▲現在の市庁舎前
(右手の黄色い建物が市庁舎。処刑21年後に改築)

蜂起は完全に鎮圧され、農民は益々重税に喘ぐようになった。フランス革命の波がアジョワにも押し寄せたことで、1792年に大公司教の支配は終わりを告 げ、フランス国家に属することになったが貧しい土地であることには変わりなかった。若者はナポレオン政府軍に従軍したが、帰郷できた者はほんの僅かであっ た。
ナポレオン没落後、1815年のウィーン会議にてアジョワを含むジュラ地域はベルン州に従属する形でスイス国土として認められたが、一つの州として独立 するには164年もの歳月を待たねばならなかった。

権威に屈すること無く獄中でも最後の抵抗を続け、誇り高く死んでいったぺキニャの歌が二つあるが、現代フランス語で歌われた方の最後の二節をご紹介しよ う。

暴君の気高い犠牲者、ぺティニャ(ぺキニャの俗称)、勇気ある農民
ここで君に敬意を表そう
君の名が時代を超えて受け継がれるように!

恐怖の時代は過ぎた、もう暴君なんか怖くない
常に勇気を持って歩こう
波乱をもたらすのは僕らなのだから!

〈参考文献〉
Courgenay-Courtemautruy村公式サイト  http://www.courgenay.ch/
ジュラ州情報サイト・ジュラネットよりCourgenay村のページ

http://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/Courgen.htm

http://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/autreAjoie/Courgenay/courgenay.html

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