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2010年のバックナンバー

ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その2》

「Hôtel-Dieu」前編

2006年4月8日から、旧バーゼル司教区内にある、バーゼル、ビエンヌ、ドレモン、そして我がポラントリュイの博物館で始まった一大イベントがある。
タイトルは「Pro Deo」。
旧バーゼル司教区古文書財団主催で、中世キリスト教世界における様々な文化や風習を見直し、現代生活へと繋がる鍵を見出そうという企画である。
ポラントリュイの博物館は、二回に渡ってお話しする「Hôtel-Dieu」-ポラントリュイ旧病院内にある。展示のテーマは「祝い、生活し、祈る」。 正に中世の人々の生き様を集約した表現である。


▲サン・ジェルマン門
別名「死者の門」。
中世において、町に出入りする人間を取り調べる
検問所としての役割もあった。

▲サン・ジェルマン門を出たところ
左手のガラス張りの建物には、
警察・戸籍役場などが入っている。この場所に
最初の市民病院があったらし い。


1765年に完成した病院「l’Hôtel-Dieu」

ポラントリュイで最も美しい
バロック式建築物の一つである。

「Hôtel-Dieu」は、直訳すれば「神の館」。そして、現在の言葉では病院である。古来よりキリスト教社会では病気は神様から送られた罰という観 念が定着していた。そこで、816年のアーヘン公会議で、司教区は教会の傍に「Hôtel-Dieu」を建設し、病人の治癒回復に寄与しなければならない と決定した。

「病院」=英語のhospital、フランス語のhôpitalは、ラテン語のhostis「よそ者」に起源を発する。一見、この排他的な言葉は、ギリ シャ語のposis「他者を受け入れる」という言葉と合体し、病院や宿泊施設など、人をもてなすことを意味する用語を生み出して行く。その語源が色濃く 残ったhostile(敵意ある)も存在するが・・・。

ポラントリュイ市議会と43名の有産階級者は、初の病院を1406年、サン・ジェルマン門の近くに建設した。有産階級者の多大なる寄付により経営は潤 い、資本は膨れ上がり続けた。1598年、大公司教ブラレーによって条例が施行されると、病院は司教の管理下に入った。

ところで、サン・ジェルマン門は、別名「死者の門」と呼ばれていた。この気味の悪い名称は、町から追放されるハンセン氏病患者が黒い服と手袋を身に着 け、近寄らないようにと自ら警告するよう持たされた鈴を持って通る場所だったことに由来する。

ハンセン氏病患者専門救済院は12世紀頃から存在していた。ハンセン氏病患者は社会より疎外されていた。伝染病であることはもちろんだが、旧約聖書の記 述より受け継がれた「タブー」、神によって与えられる病と考えられていたからである。(注・現代の研究では伝染率は極めて低いと判明し、治療薬もあるが、 当時は汚れた不治の病と恐れられていた)
ポラントリュイ市内でハンセン氏病患者が発生すると、教会は速やかにブザンソン大司教に使者を送った。大司教の承認を得た上で患者を町から追放し、専門 施設に入れた。すべての費用は司教区が受け持った。ポラントリュイでは城壁外に比較的快適な施設があったという資料があり、地名も 「Maltière」(病人の住む家)として残っているが、建物があった正確な場所は不明である。

一方、市民病院は1618年‐1648年、三十年戦争によって廃墟となった。軍による占拠、ペストの流行、飢餓などの理由である。17世紀になってから 善意ある寄付者のお蔭で再建された。しかし、18世紀半ばに大火災に遭い、「病人には非衛生的で一般市民には危険な場所」という理由で廃院となった。

いつの時代にも寛容な人間はいるものである。1758年9月16日、Jeanne Baptiste Chavé夫人が、すべての財産を病院建築のためにと、遺贈した。有産階級市議会は「ラ・コーティン」と呼ばれていた有産階級者所有の土地を購入し、そこ に、ブザンソン生まれの建築家Pierre-François Parisが1761年から4年間かけて病院を建築した。
パリ氏は、現代風に言えば超多忙な「カリスマ」建築家だろうか。数々の歴史的大建築物を設計・建築するだけでなく、宮廷付の測量技師長でもあり、土木局 長を勤めて大道路を開拓し、さらには宮廷議会委員も勤めていた。(給料は貢献度に決して比例しておらず、不満の種だったらしいが)1792年、フランス革 命軍が近づくと、「権威者・大公司教」に近い存在であった彼は迫害を恐れて町を脱出し、以後、行方知れずとなった。
病院の内部については後編にてご紹介する。
「Pro Deo」についての情報はこちら : http://www.prodeo.ch/
〈参考資料〉
Porrentruy市公式サイト : http://www.porrentruy.ch/
Hôtel-Dieu公式サイト : http://www.museehoteldieu.ch/index.html

ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その1》

グレレスの館

フランス語で「ホテル」(l’hôtel)と言うと、観光客が泊まるホテルの他に、「公共の建物」という意味と、「(貴族などの)私邸、館」という意味 がある。


▲グレレスの館
現在はバーゼル大公司教統治時代の貴重な資料が眠る古文書図書館。カメラに収まらないほど巨大。

▲当時の売れっ子鍛冶屋Jollat(ジョラ)製作の錬鉄の階段手すり。
グレレス夫妻婚姻記念の紋章付き。

▲大公司教の妹、グレレス卿夫人
ヴィクトワールの墓

▲妹思いの大公司教、バルデンシュタイン出身の
ジョゼフ=ギョーム・リンク

18世紀、「アジョワ暴動」(1730~40年)(第20、21話‐ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男をご参照に)後、Porrentruyを含 むアジョワ地方は、表面上は静けさを取り戻した。バーゼル大公司教支配下でPorrentruyの町が最後の輝きを見せる時代である。 町は建設ラッシュとなった。ブルジョワ階級は流行のバロック・レジェンス様式で邸宅の一部を改装したが、大公司教の財力は部分装飾だけではとどまらず、彼 らの邸宅の何軒分かに相当する「ホテル」建設を実行させた。

1750年頃、最初の「ホテル」が完成した。「グレレスの館」(Hôtel de Gléresse)と呼ばれる建物は、当時の大公司教、バルデンシュタイン出身のジョゼフ=ギョーム・リンクが、妹・ヴィクトワールと、その婿であるグレ レスのジャン・フレデリック・コンラッドに結婚祝いとして贈ったものである。(グレレスはドイツ語読みでは「Ligerz」。
Bienne/Biel湖を見下ろす小さな村で、ワインの産地である)その頃、グレレス卿は大公政府の実力者でもあり、多忙を極めていたが、彼と妹がせ めてPorrentruyで束の間の休日を楽しめるようにという心遣いだったという。

写真でご覧の通り、威圧感のあるドイツバロック式の館は、建築家ヨハン・カスパー・バグナート設計によるものである。バグナートは1696年ライン地方 Landauに石工の息子として生まれた。建築家として多忙を極めたため病弱になったが、1757年に亡くなるまでバーゼル司教区のために貢献した。スイ スとドイツの国境、ボーデン湖に浮かぶマイナウ島の教会は彼が建造した。ジュラ州都・ドレモンの市庁舎の設計者でもある。
館は豪華なだけではなく実用的でもあった。馬車に乗ったまま出入り内部に出入りできるように車道と歩道の段差を少なくし、入口を高く広く設計している。 馬車は大きな玄関ホールでグレレス夫妻や客人を下ろすと、中庭を一周して180度方向転換をし、再びホールに戻ってきて待機する。

グレレス卿夫人ヴィクトワールの墓をPorrentruyで最古の教会、サンジェルマン教会で偶然見つけたので写真をご覧いただきたい。司教の庇護で恵 まれた結婚生活を送っていた彼女が、フランス革命軍による破壊活動や司教区の解体後、どのような運命をたどったのかは知られていない。せめて墓に刻まれた 言葉を読み、彼女の人柄や功績を想像してみよう。
「グレレスのヴィクトワール夫人。旧姓バルデンシュタイン出身のリンク。1810年9月(?)20日死去、享年92歳。彼女は美徳の手本であり、貧しき 者の母であった。裕福なものよ、彼女を真似よ。貧しきものよ、彼女を祝福せよ。すべてのものよ、彼女のために祈れ。安らかに眠りたまえ」


〈参考資料〉
「Images du vieux Porrentruy」Roger Ballmer 著
Porrentruy市公式サイト : http://www.porrentruy.ch/

ポラントリュイだより:Porrentruyの語源

日本と同様、スイスの地名にもそれぞれ語源がある。ポラントリュイ‐Porrentruyは、字面だけでは分からないが、実は歴史家が現在でも喧々諤々 持論を繰り広げられるだけの深い意味を持つ。


▲善王ダゴベルトI世
歌のせいでパンツを正しくはいていたかどうか
疑われるはめになったフランク王国統一者。

7世紀、Porrentruyは、メロヴィング王朝アウストラシア王国に従属するアルザス公国の一部となっていた。623年、後にフランク王国を統一す るダゴベルトI世(善王Dagobert Iと呼ばれる)がアウストラシア国王に任命された。王の二番目?の妻の名はRagentrude(ラーゲントルード)という。その女性が町を流れるアレン (Allaine)川に橋を建設したとという言い伝えがあり、一見何の関わりも無さそうな「Porrentruy」の語源は、「ラーゲントルードの 橋」=Ponsragentrudisから来ると主張する学者がいる。確かに町の創成期頃の名前として文献に残されている。

話しは少しそれるが、フランス語圏の子供なら誰でも知っている「善王ダゴベルト」という歌がある。フランス大革命時に王政を揶揄する歌として誕生した。 ダゴベルトI世は専制君主ではなく、多くの貴族や僧侶を側近として登用し、彼らの教えに耳を傾けて政治を行っていた。その中に、後に言う「宰相」的な役割 を果たした聖エロワ(Saint Eloi)という聖職者がいた。歌詞の一番に、王と、その奔放な放蕩生活を諌める聖エロワとの会話が導入されている。

♪ダゴベルト善王はパンツを裏返しにはいた。
♪偉大な聖エロワは言った。
「国王陛下、正しくパンツをおはきになっておられませんぞ」
♪「本当だ」王様は言った。「ちゃんとはき直すぞ」

*ここでいう「パンツ」は昔の短跨(たんこ)、今で言うショートパンツである。


▲アレン(Allaine)川
近郊の村に水源を持つ。

▲クルジュナ(Creugenat)川
豪雨時のみ川の一部が牧草地にひょっこり湧き出て
現れるため、 古いフランス語で「魔女の穴」という
異名をもつ。 アレン川に合流する。

Ponsragentrudis、1140年にはPontereyntruと呼ばれた町は、1200年代に入ってBrunnendrut、そして 1283年にはBurnentrutと記されている。「Brunnen」はドイツ語でも水源や泉という意味であるが、「-drut」を古代ケルト人の宗教 を司った僧「ドルイド(druide)から来たと解釈すると、意味は「ドルイド僧の泉」となる。また、古代、ケルト語でBruntrutumと呼ばれた時 代もあるらしい。これを訳せば「水源の国」である。
確かにこの地には前述のAllaine川を初め、7つの川・水源がある。ローマ人が植民を開始する前、この地はケルト人の支配下にあった。水を宗教儀式に 使うケルト人にとってこの地は適していたのではないだろうか。

「Porrentruy」の町の名は、文献の中で時代ごとに微妙に綴りを変えていく。私個人はガイドとして日本人のお客様に説明する時には後者の説を 取っている。海や河川の恵にはぐくまれた日本人は、遠い昔の王妃の話よりも、豊富な水で潤い育まれた歴史の方に、より親近感を覚えるかも知れないと判断し た上である。


〈参考資料〉
「Images du vieux Porrentruy」Roger Ballmer 著
Porrentruy市公式サイト : http://www.porrentruy.ch/
ヨーロッパ史サイト : http://www.histoire-en-ligne.com/article.php3?id_article=162

ポラントリュイだより: ナポレオンが持て余した二人の軍人《その3》

Delmas将軍を再び得たナポレオンは、多国籍同盟軍を相手にリュッツェン、バウツェンの戦いに勝利した。この同盟軍の中にはBernadotte元 帥、いや、王位継承者となったBernadotte王子率いるスウェーデン軍の姿があった。彼は「ナポレオン本隊との衝突を避ければ勝てる」という 「Bernadotteプラン」を考案し、その後の同盟軍勝利に大きく貢献した。


▲1813年10月、ナポレオン軍の大敗に終わった
「ライプツィヒの戦い」

ナポレオン軍は休戦後の「ドレスデンの戦い」で快勝したが、それが最後の栄光だった。 1813年10月16日から19日にかけた「ライプツィヒの戦い」は大激戦となった。ナポレオン軍15万8000のうち4万人以上、総司令官 Bernadotte率いる同盟軍33万のうち6万人以上の死者を出した。この戦いで大敗し、ナポレオンのドイツ支配が終わったため、「諸国民解放戦争」 とも呼ばれる。
戦い最後の日、前線で奮闘していたDelmas将軍を大砲の砲弾が襲った。下半身を砕かれた将軍は、二週間生存していたという。
ある日、死の床にあるDelmas将軍を、かつての戦友Bernadotteが見舞った。BernadotteはDelmasに、「体が治ったら私の軍 に加わって下さい」と提案した。
「いいえ、決して!」 Delmas将軍は力強く答えた。  「もし私がナポレオンと問題があったとしても、フランスへの不満はありません。私の祖国であるフランスに、常にご奉仕するつもりです。皇帝を裏切る気持 ちは少しもありません。祖国に銃を向けるのは私の軍ではありません」
Bernadotteへの痛烈な皮肉を残し、Delmas将軍は間もなく息絶えた。


▲Bernadotteとの婚姻後も
ナポレオンを愛し続けていたデジレ・クラリー

ナポレオンによりヨーロッパ各国で王位・大公位に就けられていた者は、すべてその地位を失ってしまった。ただ一人、スウェーデンに現存する王朝の初代国 王・Bernadotteを除いて…。
1818年にカール14世ヨハンとして正式に国王となったBernadotteは、以前のような国民の人気者ではなかった。彼はスウェーデン語を生涯解 さず、反動的な政治を行った。また、祖国フランスの王位をも狙ったが、フランス国内での支持をほとんど集めることができず、実現しなかった。
絶対的権力を手に入れた男は、権力者を嫌って体に刻んだ「王侯に死を」という刺青をどうにかして消し得たのだろうか。

セントヘレナ島での囚人時代のナポレオン語録がある。 「Bernadotteか・・・恩知らずな奴だ。余が出世させてやったというのに。だが、裏切りとは言うまい。奴はスウェーデン人らしくなっただけだ…… だから余は奴を恩知らずとして非難するが、裏切り者としてではない」

Bernadotteは1844年に他界した。その16年後に妻のデジレは83歳で亡くなったが、枕の下からかつてナポレオンに宛てて書いた恋文の下書 きが何通も発見されたという。死ぬまで愛した男ナポレオンの栄枯盛衰を、運命に翻弄されながら見守り続けていたスウェーデン王妃の悲しい逸話である。


▲故郷ArgentatにあるDelams将軍の胸像

パリの観光名所の一つ、凱旋門。この門の東側、シャンゼリゼ通りに面した支柱16番にDelmas将軍の名前は刻み付けられている。戦死した他の将軍や 連隊長と共に。

Delmas将軍研究家のVacher氏は語る。
「コレーズはDelmasを誇りに思うだろう。ヴェルサイユがHocheを、シャルトルがMarceauを、le Puy-de-D ômeがDesaixを誇りに思うように。Delmasは彼らと同じ類いの兵士だ。戦争と愛国への美徳を持ち、かつ無私無欲であるような」


〈参考資料〉
フリー百科事典Wikipedia「カール14世ヨハン」「ナポレオン・ボナパルト」「デジレ・クラリー」
Delmas将軍の故郷Argentatの公式HP : http://www.argentat.fr/
フランス・コレーズ県の公式HP : http://www.correze.org/
ナポレオン1世研究サイト : http://ameliefr.club.fr/index.html

ポラントリュイだより: ナポレオンが持て余した二人の軍人《その2》


一兵士からフランス皇帝軍の元帥に昇進し、その上、一国の王にまで上りつめた男がいる。ただし、祖国フランスではなく、言葉も文化も違う異国にて。 「Jean Baptiste Jules Bernadotte」、ベルナドット元帥の名前はBernadotte(ベルナドッテ)王朝として今日に至るまでスウェーデンの王家に名前を残してい る。


▲スウェーデン・Bernadotte朝初代王・カール14世ヨハンとなったBernadotte元帥
かつて「美脚軍曹」と呼ばれたこともあるなかなかの美男子

▲Delmas館内に現存する、「帝政式」というスタイルの暖炉。
鏡に映っている方は、建物の所有者ニコル氏に掛け合って撮影許可を取ってくれたアダット・ガイ ド協会会長

▲暖炉中央の彫刻にローマ風のナポレオンの横顔が・・・。追放後も尚、Delmas将軍が皇帝ナポレオ ンを敬っていたことがうかがえる。

1763年、弁護士の子として生まれたBernadotteは、親の反対を押し切り、1780年、フランス陸軍に入隊した。フランス革命では熱心なジャ コバン(急進的な革命推進主義)支持者となる。体に「王侯に死を」という刺青をしていたとさえ言われている。
革命勃発後はドイツ・北イタリアに転戦して武勲をあげ、1794年に陸軍少将に昇進。平民出身の将軍は国民にも人気があり、ナポレオンのライバルとされ たこともある。1799年のクーデターでナポレオン政権が誕生した後も、Bernadotteはナポレオンとは距離を置いた関係だった。 Bernadotteは先のクーデター参加も拒否していた。やがて、権力志向の強いナポレオンへの軽蔑と嫌悪を露わにし始めた。それにもかかわらずナポレ オンがBernadotteを許していたのは、かつて自分が婚約を反故にした女性、デジレ・クラリーを妻としてめとってもらった負い目があるからだと言わ れている。

1804年、ナポレオンが皇帝に即位すると、Bernadotteは元帥の一人に抜擢され、1806年にはイタリアのポンテコルヴォ大公の位も与えられ ている。その昇進に見合うだけの武勲を残していないBernadotteにこれだけの栄誉を授けるのは、デジレへの罪滅ぼしをしたい一心だったのかも知れ ない。

1809年、スウェーデンで軍事クーデターが起き、反ナポレオン派のグスタフ4世が廃され、その叔父カール13世が王位につけられた。この老いた王の皇 太子は間もなく急死し、後継者を急ぎ決めることになった。この時、ナポレオンへの使者となったメルネル男爵は、Bernadotte元帥を王位後継者候補 にしてはどうかと申し出た。
実は、かつてメルネル男爵はBernadotteの捕虜となっていた。その時、他の軍人と共に親切な対応を受け、寛大な処置を施されたため、恩返しの機 会を狙っていたと思われる。また、Bernadotteはその善行により、スウェーデン国民の間でも人気があった。スウェーデン国会とカール13世は Bernadotteが「プロテスタントに改宗する条件で」後継者就任を決め、Bernadotteも了承した。
北方に同盟国を欲していたナポレオンであるが、デジレへの贖罪の念もあったのだろう。デジレをフランス皇后にはしてやれなかったが、スウェーデン王妃に できるのである。 ナポレオンに反感を持つBernadotteに頼るという安易な政略に、冷徹な帝王になりきれなかった「情の人」ナポレオンの悲劇の発端を見られずにはい られない。

1810年にスウェーデン国王の摂政となったBernadotteはナポレオンの信頼を裏切って反フランス的行動を取るようになり、1812年にはロシ アと同盟を結んだ。 ナポレオンのロシア遠征の失敗に乗じ、また、ナポレオン軍の内情にも通じているBernadotteは、反ナポレオン同盟軍に積極的に貢献した。これが 1813年10月の「ライプツィヒの戦い」である。

この戦争の半年ほど前、返り咲いた男がいる。
1813年4月10日、勅令再興式の際、「刺繍も装飾も無い」フランス共和国の使い古された青い軍服に身を包んだ男が現れた。
「私はまだフランスのためにご奉仕できます。私を好きなように使って下さい」 豪華な軍服に身を包んだ皇帝の取り巻きは古臭い装いの見知らぬ男を見て冷笑した。しかし、ナポレオンは進み出て言った。
「皆さんに紹介しよう。共和国の第一前衛将軍、Delmas将軍だ。」

追放から11年。Porrentruyから駆けつけたDelmas将軍は再びナポレオンに身を捧げ、最前線で戦うことになるが、それは彼自身の悲劇をも 意味していた。


Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Monsieur Jean-Claude Adatte (Président de l’Association des guides touristiques de Porrentruy et environs, ポラントリュイガイド協会会長)
Monsieur Francis Nicol (propréitaire de Maison Delmas, ニコル館所有主)

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