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2010年のバックナンバー

ポラントリュイだより: 旧市街に活気を


やや固めの歴史探訪シリーズから脱け出し、さて、お次は何を書こうかと考えてみたが、頭をひねればひねるほど、良いアイディアは浮かばない。まあひと つ、ここは気楽に、町の内外で起こった「四方山話」でも書こうかというところに落ち着いた。今後しばらくは、「シリーズ無きシリーズ」にお付き合い願いま す。

▲Blarerが1590年に再建した城の「雄鶏塔」
左が司教杖、右がBlarer家家紋の雄鶏である

▲「雄鶏塔」の雄鶏部分を拡大
黄色い十字は勿論、絆創膏ではなく十字架を意味する

今年2008年を、ポラントリュイガイド協会は、「特別な年」とし、一年をかけて祝いがてら、様々なイベントを企画している。2008年がどうしてポラ ントリュイのガイドにとって意味を持つか、説明しよう。
またもや歴史の話になる。1527年よりポラントリュイ城を拠点に司教公国を治めていた、バーゼル大公司教。大公はフランス語で「Prince」と言う が、「そして王子様とお姫様は結婚し、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました」という「王子様」のプリンスではない。神聖ローマ皇帝より「公国」を治め るために賜った称号なのである。現在でも、モナコ公国の頂点に立つ御方はプリンスであるが、「王子様」ではなく、大公である。

1792年にフランス大革命軍によって国が滅ぼされるまで、司教公国の歴代為政者達のうち、「大公中の大公」または「再興者」という輝かしい異名を授け られた大公司教が、ただ一人だけいた。フランス語で言うと、Jacques-Christophe Blarer de Wartensee(ジャック・クリストフ・ブラレー・ド・ヴァルテンゼー)。ブラレー大公司教の偉業については、ポラントリュイ便り第42話 「バロック建築様式」《その2》をご参考に。彼の就任期間は1575年から1608年まで。この没年から400年に当たるのが今年。そんなわけで 「死後400年記念」として大衆レベルで大いに楽しんでしまおうという考えからスタートした。2007年からほぼ一年かけて準備。開催記念式典(3月15 日に済)、展覧会(今年3月15日から8月17日まで)、数回に亘るコンサート、ラジオ放送もされる記念ミサ、ブラレーを主役にした演劇など、ガイド20 人余りがグループを形成し、それぞれの企画遂行に励んでいる。

私の担当は他の2人のガイド共に「町をブラレー家の家紋でもある雄鶏で飾ろう!」という企画。ポラントリュイ市の保育所とすべての小学校にお願いし、生 徒と先生が作った雄鶏をモチーフにした作品(工作や絵)を旧市街のショーウィンドウに配置するという企画である。店々へお願い状を送付した上で、一軒一軒 回り、店主と直接話して親交を深めた上で、企画への理解と協力をお願いした。どの店がどこにあり、何を置いてあってどんな大きさと形のショーウィンドウで あるか、事細かに書き留めた。

学校の先生サイドにも通知と短い説明会を催した。人口7000人足らずの町であるが、学校数は多く、下は託児所から上は小学6年生まで、30余りのクラ スが協力してくれた。
先生と商売人ではあまりにもメンタリティが違う。悪気は無くてもダイレクトな商売人(土地柄もあるが)に対し、先生方は非常に誇り高く、馴染みの店以外 にはなかなか怖がって?入ってくれない。そんなわけで「先生の選択からこぼれた」店にはガイド自身が完成した雄鶏作品を持って行ったこともある。

半年ほどかけて学校と商店の間を駆けずり回り、コーディネートをしてみて、苦労も多かったがやはり楽しい思い出が一杯である。普段は入らない店にも入っ て店員さんとの会話を楽しんだ。自分の娘がお世話になっていない、知らない先生方とも膝を突き合わせて話すことができた。物事は何でもポジティヴに取る方 が良い。閉ざされた世界の中でぬるま湯に浸かるよりも、別世界に飛び込み、見地を深める方が良い。限られた人間と付き合うよりも、意見や考えを多少異とし たとしても、様々な職種・年齢の人間と交流することが、自分の成長への糧となる。自らの足で旧市街の端から端まで、そして学校という学校を歩き回って得た 教訓である。

ポラントリュイだより:ベル・エポックとアール・ヌーヴォー


▲Pfister館と呼ばれる豪邸
1899年、靴会社社長の邸宅として建築された。現在は、年金事務所が入っている。改築の完璧さから、事務所の潤い加減 が分かる!?

▲Pfister館の暖炉
煉瓦に見える部分は別の素材?

▲我が家の向かいにある豪邸
1909年、薬剤師ジゴン氏のために建設された。

▲豪邸内にあるステンドグラス
1910年製、玄関ホールにある。
スイスのステンドグラスを紹介した文献によると、
「明るい光をもたら し、客に、家の主人の芸術的センスを見せる」
役割をしているそうである。

もうかれこれ3年も前になるが、ポラントリュイ便り歴史シリーズの初め、4回に渡って近代ポラントリュイ全盛期・シナゴーグと駅の栄枯盛衰について語っ た。文献を調べ、町や近辺の村々の逸話をほじり出しては皆様にお届けしてきたが、ここらでテーマを一新したい。3年余り続けた歴史シリーズを、奇しくも同 時代のテーマ、市民文化が満開した「ベル・エポック」で文字通り華やかに締めくくりたい。

「駅」シリーズと重なる部分も多々あるかと思うが、時代背景について述べる。
スイスでの「ベル・エポック」(フランス語で美しい時代)は1895年から1914年の20年ほどと見なす歴史家もいるが、ポラントリュイのそれは、お そらく鉄道・駅建設を発端として考えて間違いはないから、1870年代半ばには始まっていたと考えても良いだろう。
この時代、「普仏戦争」(1870-71)終了後、ヨーロッパは、第一次世界大戦までの束の間の平和と第二次産業革命によってもたらされた経済的飛躍を 堪能していた。産業革命の進行によって工場経営者に富が集中すると、その富は新興の中産階級の住む都市に流れ込み、都市文化が宮廷文化に取って代わった。

鉄道の発達により長距離旅行が可能になり、中流有産階級者は各国の美を持ち帰り、自国文化に溶け込ませた。この時代に流行した装飾美術、そして広い意味 では建築を含め、「アール・ヌーヴォー」(新しい芸術)と呼ぶ。この名は、パリの美術商、サミュエル・ビングの店の名に由来する。装飾に於ける特徴は、有 機的な自由曲線の組み合わせ、鉄やガラスを素材として使っていることである。

ポラントリュイの発展は、「漁夫の利」であったかも知れない。「駅物語その2」で述べたように、普仏戦争に負けたフランスは、ドイツ帝国にアルザス全て とロレーヌの一部を譲渡しなければならなかった。この支配により、フランス東部鉄道会社は、重税をかけられるようになったアルザスを通らずにスイス入国を 可能とする鉄道網を急速に発達させる必要に迫られた。フランス国境の町デルとポラントリュイを繋ぎ、険しい崖が阻むサンチュルサンヌの高架橋の経済的支援 もした。こうして、イギリスから海を渡ってフランス、スイスからイタリアへと繋がる鉄道網が完成した。

鉄道の発達と共に、ポラントリュイへの人・貨物の出入りが激増した。当然、フランスやイタリアなど「流行に敏感な国々」のアートも入って来やすいこと明 白である。この時代、駅とポラントリュイ旧市街の周囲を中心に、斬新かつ壮大で美しい建築物が次々と建てられた。バロック時代を第一次建築ラッシュとすれ ば、これは正に第二次建設ラッシュである。ポラントリュイでもひときわ人目を引く、黄色い壁と赤い屋根瓦、赤煉瓦(偽も含む)、コロンバージと呼ばれる木 骨組積造り。三軒あるこの豪邸のうち二軒は建築家モーリス・ヴァラによって建てられ、尖がった屋根が特徴である。赤と黄を主体とした色使いは、何となく中 国風であるが、アール・ヌーヴォー自体が日本美術の影響を受けていることから(サミュエル・ビングの店も日本美術を扱っていた)、東洋への憧れを取り入れ たと見ても良いかも知れない。

筆者自宅の向かいに位置するこのタイプの家(写真参照・ヴァラ建築ではない)は、その隣家と同様、階段踊り場にあるステンドグラスが美しい。ポラント リュイで一番シックなホテル「Auberge d’Ajoie」自体の建設はベル・エポック以前の1830-1840年代だが、一階ティールームのステンドグラスや回転扉、床のモザイク模様(1902 年製)など、見事なアール・ヌーヴォー装飾を惜しげもなく訪問客に見せてくれる。

人口僅か7000人足らず。ルツェルンのような世界的観光地でもないし、かつて時計産業華やかりし頃の面影は無く、中小の工場が生き残っているだけ。ど こといって目立たない小都市ポラントリュイは、掘ればいくらでも歴史遺産という名の宝が出てくる宝の山のようなものだ。スイスに来た日本人観光客が、山と 観光地だけを駆け足で見て帰ってしまうのがいかにも残念である。そんな思いもあって、この歴史シリーズを綴ってみたが、少しでも興味を抱いて下さった読者 はいたであろうか。「百聞は一見にしかず」という諺にあるように、是非訪れていただきたいスイスの小都市として、これからもワールドアイのページを借りて 皆様にお伝えしていきたい。

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Monsieur Marc Thévoz de Bure


▲Auberge d’Ajoie。
小さいながら、ポラントリュイで一番洗練されたホテル。


▲ホテル一階、ティールーム
各窓にステンドグラスがはめられている。
壁画にはサンチュルサンヌをはじめ、古き良き時代のジュラの市町村が描 かれている。ホテルの宿泊客は、レトロな雰囲気に浸りながら朝食が食べられる。

ポラントリュイだより: ロココ・新古典主義建築様式など ~歴史のうねりの狭間で~


▲ポラントリュイ城の大公司教邸宅部分
窓は18世紀に改築。大きな長方形の窓は切り石ですべて輪郭をつけられ、レゲンス様式であるアーチ型の切妻壁がっている。中には化粧漆喰で帆立貝、動物、バッカスなどが形作られている。

「歴史のうねりの狭間で」と、いうサブタイトル通り、曰くつきの時代。何度も書いているが、ヨーロッパ大国文化の中心から地理的にも経済的にもかけ離れ ているバーゼル司教公国は、流行には遅れがちであった。ようやくゴシックが定着したと思ったら、大国はルネッサンスだバロックだと次々と新しい建築様式に 則った建物を生み出し、ポラントリュイは何年も何十年も後を謙虚に追いかける、という有様であった。それでも、権力者や有産階級者が慌てて流行を追えるう ちは、公国の器に合った小さな幸福を享受できていたと言えよう。
1792年、フランス大革命軍は、ポラントリュイを含む旧バーゼル大公司教区を占領した。封建制度からの解放は、住民が自由と民主主義を謳歌できる体制 へとは、すぐに結びつかなかった。恐怖政治、そしてナポレオンの統治。ナポレオン没落後、スイス国ベルン州への従属。歴史の大波小波は、独立に向けて、住 民の精神を鍛え上げていく。

ごく忠実に建築史に沿っていくと、バロック後はロココ(語源はロカイユ=貝殻模様の装飾)様式となっている。時期的にはフランス王ルイ14世の在位期間 の終わりあたりからフランス革命勃発前まで。そしてさらにロココを二つの様式に大別すれば、オルレアン公フィリップの摂政時代(1715-1723)をレ ゲンス様式、その後をルイ15世様式(1723-74)という。(ちなみにその後はその人生同様、短期間のルイ16世様式。ポラントリュイでは有産階級者 の家の扉や窓などで見られる)


▲旧・中央市場詳細は、第33話・四大「ホテル」その4をご参照に。ちょっと貧弱な体の巨人二人に注目。

権力者の癒しの場として発展した、繊細・華麗にして耽美的なロココ様式は、司教公国に本格的に取り入れられる前に終焉を告げる。
フランス大革命勃発。革命軍到着直前、バーゼル大公司教は国を捨て去った。逃亡生活が老体に応えたのか、2年後、亡命地コンスタンスで無念の死を迎え た。
ロココにはほとんど縁が無く、それに続く新古典主義建築が根付かないまま歴史主義建築の中に埋没していくと、ポラントリュイは身を翻したようにアール・ ヌーヴォーに飛びついた。ポラントリュイで華麗な花を咲かせたアール・ヌーヴォーについては次章でたっぷり述べるとして、ここでは影薄い新古典主義建築物 をご紹介する。


▲JUVENTUTI小学校
ピンク色に壁が塗られ、可愛らしいことは可愛らしいが、「もしかして、これは芝居に見られるようなセットか?」裏 に回と何も無いような錯覚に囚われているのは私だけか?(失礼!)

新古典主義建築とは、18世紀後期に啓蒙思想や革命精神を背景として、フランスで興った建築様式である。革命以前も、農民紛争鎮圧の梃入れを頼んだこと をきっかけとして、フランス王家とより繋がりを深めていた司教公国だが、いかんせん、時期的にはあまりに短期で、しかも続く革命の動乱と恐怖政治の最中、 流行に沿った新しい建物を建てる余裕はなかったようである。革命前・大公司教の権力の絶頂期、写真(上、2枚目)のようなバロック建築の中央市場の東壁に 取り入れられたぐらいである。
三角形の切り妻壁の中には、棍棒を持った二人の巨人が腰掛けている。この豪奢な建物は、革命軍に占拠され、その後、1年足らずの革命政府ローラシアン共 和国国民議会場→フランス共和国モン・テリブル県庁→ナポレオン政府下のオー・ラン県郡庁が置かれ、皮肉にもフランス支配体制の象徴的建物となった。ま た、ベルン政府下では裁判所と警察があり、常に権力と結びついてやまない数奇な運命をたどった。現在、州立図書館・古文書図書館・古生物学&考古学研究所 が置かれ、名実共にジュラの知的象徴たる建築物となったことは、誠にめでたい。
革命・ナポレオン時代を経て90年。JUVENTUTIという学校が新古典主義様式で建設された。この建物は現在でも幼稚園・小学校として利用され、次 女が二年間お世話になっている。改築はされているが、複雑に入り組んだ造りで、広いとはいえない中庭もあり、小学校というよりは当時のお屋敷という趣であ る。

さて、新古典主義とアールヌーヴォーの間に位置する、便宜的とも言える様式に歴史主義建築(折衷主義様式ともいわれる)がある。新古典主義建築では古代 ギリシア・ローマの建築が理想とされたが、19世紀になると中世のゴシックや近世のルネッサンスが再評価され、過去の建築様式のリヴァィヴァル運動が起 こった。写真の、改革派教会(プロテスタント教会)はネオ・ゴシック、現在はアパートとして複数家族が住む建物(1905年建設)は、ネオ・ルネッサンス と位置づけられる。

これは私的な感想であるが、「新、ネオ」様式はいずれにしても過去の踏襲なので、嘘っぽいといか、本家に比べればどことなく重厚味に欠けるような気がす る。日本の娯楽施設で、突然、ローマ神殿風の内装に出くわした時の気持ちと似ているかも知れない。


▲プロテスタント教会は、すっきり爽やかなネオ・ゴシック様式
おどろおどろしい中世暗黒時代の教会のような貫禄は無い。

▲私の家から目と鼻の先、元々は歯医者のために建てられた大邸宅だが現在はマンションとして数家族が暮 らしている。
Last Update: Nov.23,2007

ポラントリュイだより: バロック建築様式《その2》

理屈無しに心和む瞬間がある。遠出をしていて、夕刻、または夜遅くなってポラントリュイに帰る時。電車、あるいは車の中にいる私に向かって、ポラント リュイの街影よりも先に微笑みかけてくれるもの。それはオレンジの光に照らされて闇の中に浮かび上がる城であり、サン・ピエール教会である。この光景を見 る度に、「故郷に帰ってきた」という思いに瞼を熱くする私である。
その時刻、サン・ピエール教会の少し南側に、少し控えめに光を放つ塔がある。それが、今回ご紹介する旧イエズス教会である。この教会に隣接する、 1591年に創設されたイエズス修道会カレッジについてはまた別の機会にご紹介するとして、1597年に礎石が築かれた教会の内部バロック様式部分につい て述べたいと思う。


▲大公司教
Jacques-Christophe Blarer de Wartensee
異例の、33歳という若さでバーゼル司教に任命され、
司教公国の改革に尽した

▲旧イエズス教会内のパイプオルガン。オルガニストなら、誰でも一度は弾いてみたいと思う「名器」

天井には、聖母マリア亡き後の世界が化粧漆喰によって見事に描かれている。「聖母の棺が空になっている のを発見して大騒ぎする十二使徒」、手前が「昇天する聖母」

▲壁や柱の見事な化粧漆喰細工
枠内の白い部分には元々何も入っていなかったそうだ。フレスコ画を入れたかったのか?司教達の意図は謎 だが、フランス革命軍の到着によって、すべての装飾は途絶えた。

▲壁の下半分、フレスコ画が削り取られている
中二階があり、19世紀には本棚が置かれていたそうだ。現在は旧教会は多目的ホールとして生まれ変わり、ポ ラントリュイの文化普及に貢献している

カトリック勢力の復興に情熱を傾けた大公司教Jacques-Christophe Blarer de Wartensee(在位期間1575-1608)は、今日においても「大公の中の大公」と呼ばれ、秀逸な大公司教と評価を受けている。彼はただプロテス タントへの嫌悪を剥き出しにして町のカトリック色を強めたのではなく、火災で破壊された城の修復(公国統治の足場固め)、スイス国で20番目の印刷所(政 教関係の書類や書物の印刷)、そして優秀な修道士・司祭の育成を目的としたイエズス会カレッジといった重要な施設の建築、公国内数箇所の製鉄所の創設を成 し遂げ、ポラントリュイ、そしてバーゼル司教公国の復興に努めた。
Blarer de Wartensee司教は、「貧困は勉学の妨げになってはならない」と奨学金制度を設け、貧しい家庭の学生をも積極的に援助した。その精神性が反映して か、イエズス教会の内部は、司教専用の教会にもかかわらず、建築当初は非常に簡素なものであったと伝えられる。
彼の死後、ペストの流行(1610-1634)で、20年余りもカレッジは閉ざされていた。その後、30年戦争により、カレッジごとフランス軍による占 領を受けた。授業は1639年に再開されたが、ほぼ30年のブランクにもかかわらず、イエズス会カレッジは黄金時代を迎え、国内外で高く評価された。

1678年、公国が比較的安定している時期、Jean-Conrad de Roggenbach(そのため、「幸福な大公」というあだ名がある。在位期間1656-1693) 大公司教は、30年戦争による砲撃や占領で被害を受けた教会の改築に着手した。シンプルだった内部は、豪華なバロック様式へと、大幅な変貌を遂げた。
前回でも少し述べた、バイエルン地方の化粧漆喰専修学校Wessobrunnの教師にして名工、Michael Schmutzerを招き、1年かけて天井一面に化粧漆喰を施した。1701-1703年の間、天井部分は化粧漆喰細工で描かれた聖母の生涯で飾られた。
豪華さを増したイエズス教会は、1892年に押し寄せてきたフランス大革命軍により再び占領された。革命中は「理性の聖堂」と呼ばれたが、内部は荒らさ れ、やがて軍用商店となった。1796年にはフランス共和暦旬日の礼拝所、19世紀にはプロテスタントの礼拝に利用された。革命の火が収まると、建物は体 育館として利用され、中二階部分は図書室となった。

1962年から1965年にかけてバロック様式に修復され、中二階をなくし、ギャラリーを復元した。そのギャラリーには、1985年、18世紀のオルガ ン(複製)が置かれた。このオルガンのオリジナル、Glauchauは、1730年にGottfried Silbermannによって製造され、お披露目式典には、かのJ.S. バッハも来たという。高度な音色を含めて、このオルガンの復元に成功した人物はJürgen Ahrend(1930年生)である。日本のオルガン奏者の間でも名高いこの樫製のオルガン、ヨーロッパ各地からわざわざCDの録音に来る音楽家もいる。 たっぷりとした厳かな音色は、聴く者を、バッハが生きたバロック全盛時代に連れ戻してくれると言っても過言ではない。

現在、この旧イエズス教会はジュラ州立高校付属ホールとして、音楽会や講演会など、様々な用途に利用されている。コンサートや観劇などで何度か足を踏み 入れている私も、入場の度ごとに天井や壁の装飾に目を奪われずにいられない。近代的なコンサート会場に無い重厚な雰囲気に飲まれ、音と共に、古の司教公国 への想像の旅が始まる……それが、私流の楽しみ方の一つでもある。

ポラントリュイだより: バロック建築様式


▲1978年のサン・ピエール教会
修復前の内陣。こてこてのバロック様式だった

▲修復後(現在)の内陣
簡素だが、むしろ心安らかな気持ちになる

▲1768年、宮廷おかかえ建築家Paris氏
により設計された有産階級者の館
各窓やドアにはこのような装飾用要石がついている。どうやら、所有者は向かいに建つ大公司教が建設した中央市場の窓飾りを羨ましく思って、注文したらしい。

▲1761年建造・旧病院の窓・扉の飾り
この時代、為政者・権力者・スポンサーの顔に似せた天使の顔のモチーフが絵画や彫刻に盛んに用いられ た。(だから天使の顔が可愛くないのだ・・・陰の声)

▲ポラントリュイ城内・Roggenbach大公司教のチャペル
司教の紋章入りアーチ型天井の、凝った化粧漆喰

▲中世都市サンチュルサンヌのコレジアル内
後陣のだまし絵は1622年製

バーゼル司教公国において、ゴシックとバロック建築の間に入るはずのルネッサンス建築がほとんど見当たらない、あるとすれば扉の装飾や泉のような部分装 飾・小型建築物だということは前回の章で述べた。今回述べるバロック建築は、ルネッサンス期の遅れを取り戻すかのように、この山がちな小国で大きく花開い た。
第29~33話まで、ポラントリュイの四大「ホテル」=公共建築物について述べたが、それらの建物は正にこの時代を象徴している。10年に渡った大規模 な農民騒動を、フランス王の力を借りて鎮圧した司教は、権力を見せつけるかのように、巨大な館を次々とポラントリュイ市の中心地に建てた。これらの建物に ついてはこの5話を読んでいただくとして、ここではその他の荘厳・華麗な部分装飾について述べる。

16世紀の初頭から中期、宗教改革が猛威を振るい、聖像・聖画、時にはカトリック教会も破壊された。中期以降、イタリアに集結したカトリック勢力による 反宗教改革が起こり、教会の勢力が盛り返した。芸術もしかり、教会や王にとって代わっていたルネッサンス期の大パトロン、市民(力のある有産階級)が再び 教会や王という権威者にリーダーの座を譲ることとなった。そのようなヨーロッパの世情から考えると、バーゼル司教が敢えてルネッサンス建築を追いかけな かったのは、流行から遅れた田舎というだけでなく、「ルネッサンスなど俗なこと」という絶対権力者としての誇りがあったからではないだろうか、という邪推 もできるのである。
バロック、という言葉自体、何やら重厚で荘厳な響きがあるが、実は皆様も知っての通り、語源はポルトガル語の「歪んだ真珠」と言われている。ルネッサン ス時代の端正ですっきりした形よりも、楕円の平面や捻れ柱のような歪んだ形、動きのある形が好まれて使われ、爛熟期には過剰とも言えるほど装飾過多になっ たところを、悪趣味で下品な様式と揶揄または批判して使用した言葉だ。実際、ポラントリュイにあるサン・ピエール教会を改修前(バロック様式)と改修後 (なるたけ建設当時に近い様式、つまりゴシック)を比べてみると、明確である。飾り立てられた祭壇・内陣付近は、「誇張」とも言える派手さ・重々しさが白 黒写真でも伝わってくる。

また、この時代は、感受性を重んじ、驚嘆させる意図から、目の錯覚を多用した芸術を内部装飾に用いた。実はそれほど広くない教会の後陣部分も、写真の通 り、手すりやギャラリーを描くことで少しばかりの奥行きを感じさせるのである。

18世紀の半ば頃からフランス大革命まで、ポラントリュイは全盛期を迎えた。バーゼル司教の地位は揺るぎないものであったが、有産階級市民も自らの邸宅 から古臭いゴシック様式を排除し、流行のバロックに染まった。このため、旧市街の窓々は、上板が真っ直ぐに直され、更に金のある者は、凝った彫刻の要石で 窓を飾った。
内装に関しては、この時代、化粧漆喰による天井・壁の装飾が流行りに流行った。化粧漆喰はイタリア語のスタッコから来た言葉で、フランス語では ” stuc “。石灰に水を混ぜると熱を発して粉末状の「消石灰」を生じる。そこに粘土粉、大理石粉、砂、顔料を混ぜて練る。この材料を使って複雑に絡んだ草花や貝な ど、様々な形をもって飾り立てたのである。写真にある、「Roggenbach司教のチャペル」の天井は、1678~79年頃、バイエルン地方の Wessobrunn学校で化粧漆喰細工を教えるMichael Schmutzerの弟子達によって作られた。この学校出身の化粧漆喰工は引っ張りだこで、スイス各地の教会などの化粧漆喰を担当した。

建築史の順番から言えば、次はロココ(初期=レゲンス様式、盛期=ルイ15世様式)、そして新古典主義と続くが、これらの様式は同時代内に入り乱れてお り、境界が定かでない。また、バーゼル司教公国に限って言えば、芸術様式を楽しむどころでない、大きな歴史のうねりに巻き込まれてしまった。
1792年にフランス大革命軍がポラントリュイに到着した。バーゼル司教公国最後の司教・Joseph-Sigismond de Roggenbachは軍の到着直前に逃亡、Bienneを経てConstanceにたどり着いた。彼はその地で失意のうちに亡くなり、999年から続い たバーゼル司教公国は消滅した。

「フランス王朝と結託して農民を苦しめ惨殺した」かどで「革命の敵」と見なされた公国権力者の館は革命軍に没収された上、町の各地で建物が破壊された。 民主主義が、蛮行により歴史上に汚点を残したことを、非常に遺憾に思う。
ポラントリュイを含む現在のジュラ州は、革命軍が勢いで作った束の間のローラシアン共和国、恐怖政治がはびこった新生フランス国への従属、ナポレオン統 治時代を経て、1815年ウィーン会議が下した併合法令で、ベルン州に属する形でスイス国に組み入れられた。

華やかなバロックは遠い昔の話になったが、落ち着きを取り戻したポラントリュイは、不死鳥の如く蘇り、19世紀半ば過ぎから文化的・経済的に飛躍を遂げ るのである

〈参考資料〉
西洋建築様式史(美術出版社)

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