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2010年のバックナンバー

母性の日々、そして二度目の妊娠・出産

12月6日は聖ニコラの日。スイスの子供達には、聖ニコラが良い子にプレゼントを持ってきてくれるこの日の方がクリスマスよりも重要かも知れません。 ジェシカは7日に決まっていた帝王切開日ではなく、自分で6日を選んで生まれてきました。娘の誕生は、子供から親へと脱皮した私への、神様からのプレゼン トなのかも知れないと思えてなりません。

初めての子を授かった私は、絵に描いたような「親バカ」になりました。ジェシカの辞書に「むずかる」という文字は無く、朝も昼も夜もベッドに入れれば スースーとよく寝てくれました。 「早く起きてくれないかな~」または、「まさか窒息死なんてしていないよね?」と、何度も子供部屋をそっと覗いてみました。彼女が寝ている間は、家族や友 人にせっせと手紙を書き、赤ん坊のいる生活がいかに楽しいかを綴りました。 「世界で一番可愛い!」と有頂天の私が叫ぶと、夫は冷静に「そりゃジェシカは可愛いけど、世界で一番ってことはないと思うよ」・・・ですって。でも、親に とって子は世界に二つと無い宝なのです。せめて家の中ではそう言わせて下さい。


▲ジェシカ生後6ヶ月
この笑顔にメロメロだった私。
ハイハイと伝い歩きを同時に始めた頃。

子供と散歩したり、公園に行くことで、町のお母さん達とも交流が始まりました。外国人が土地に溶け込む助けとなる要素に、安定した仕事を持つことやクラ ブ・ボランティアなど地域レベルでの活動に参加することが挙げられます。 私の場合、根本的な支えは家族です。出産以来、新たな交流が生まれるに連れ、子供を介してしっかりとスイスに根を下ろしつつある自分を実感しました。

ジェシカが二歳の誕生日を迎えて間もなく、二度目の妊娠。ところが、今度の発覚は「出血」から始まりました。「流産の可能性があるからすぐに入院して下 さい」病院でそう言い渡された後、泣きながら運転して帰宅しました。 (今思えば事故を起こさなくて良かった)そう言えば、疲れやすく、自我が芽生え始めたジェシカの行動にイライラしがちな毎日でした。次の日、ジェシカを夫 の実家に預け、入院しました。第一子を授かってウキウキしていた前回と違い、 小さな命を奪われるかどうかという瀬戸際の入院は重苦しいものでした。私は「絶対安静」を強いられ、ベッドから一歩も降りてはいけないと言われました。


▲無事に次女リサを出産
二人の娘の出産時間は 共に午前6時半過ぎでびっくり。
写真は退院日の朝です。

入院中、同室の女性達が私の心を和ませてくれました。向かいのベッドには三十代の女性ミッシェル。妊娠と同時に子宮筋腫が見つかり、しかも筋腫は胎児の 成長と共にどんどん大きくなっているということ。 切除手術の際に胎児が助かるかどうか不安一杯のはずなのに、彼女はいつも陽気で、私を励ましてくれました。斜め前のベッドのおばあさんは腕を骨折。声高に 痛みを訴えることは皆無で、謙虚で穏やかな方でした。
数日後、超音波検査の為、別室に呼ばれました。そんなちょっとした移動も「車椅子」です。黒い画面に子宮の内部が映り・・・あるものが認められました。 「胎児は成長しています。大丈夫、ちゃんと生きていますよ」 それからはもう涙で何も見えませんでした。

おばあさんは退院し、ミッシェルの子宮筋腫除去手術は大成功に終わり、私達はそれぞれの生活に戻っていきました。おばあさんにはその後お会いしていませ んが、ミッシェルは現在、四女の母です。 たまにスーパーで会いますが、子供四人を引き連れたその姿は「たくましい!」の一言です。

退院後、私はすぐに元通りの体になったわけではなく、二週間ほど安静にしていなければなりませんでした。その間、老人・病人の自宅介護を専門とする女性 が家事を担当してくれました。費用は保険会社が負担。さすがプロの彼女は掃除、洗濯、アイロン等を限られた時間内に効率良く片付けました。彼女のアイロン 中によくお話しましたが、感じの良い方でした。また、自腹を切りましたが、食事配達専門業者にお願いし、病院で出す食事を毎日正午に持ってきてもらいまし た。ポラントリュイ市の病院には優秀な料理人がいると思われ、毎日メニューが変わり、味もちょっとしたレストラン並だと付け加えましょう。
こうして、周囲の人々に助けられながら、97年11月27日に次女リサを普通分娩で出産しました。

母親への道

妊娠中、ひどい悪阻に悩まされていたことは第七章でも書きましたが、私は絵に描いたような妊婦でした。 朝起きて最初の行事は洗面所に駆け込むこと。まず、妊娠発覚の際の面白いエピソードをお話しましょう。

私と夫は、当時大ヒットしていた「シンドラーのリスト」という映画を見に、車で40分ほど走ってフランスの映画館にまで行きました。 ナチス恐怖政治時代、数多くのユダヤ人を自分の工場に雇ったシンドラーという名の男の物語です。彼のお蔭で強制収用所行きを免れたユダヤ人が生き延び、 あの時代にも彼のような勇気と英知ある男が存在していたのだと、一筋の光を見出した気分でした。その帰り、私と夫は車をマンション前に停めるや否や、同時 に茂みに駆け込みました。 「残酷な場面が沢山出てきた映画だったからねえ。それとも風邪かな?」と笑い合いましたが、私の嘔吐は悪阻のせいだったと間もなく分かりました。 それでは夫は何故? 未だに謎のままです。「夫婦の絆」と良い方に解釈しましょうか!?


▲マッターホルンを背に
さすがに上らず、母とツェルマット
にとどまりました。
妊娠中でも大好きな旅行はやめられません。

妊娠すると食べ物の好みが変わったりしますが、私の場合は異常な行動に走りました。 棒状でカニかまぼこ風味のお惣菜「スリミ」(スイスのスーパーに売っている)にマヨネーズをべったりつけて何本も食べると悪阻が治まったのです。 また、そうめんなら幾らでも腹に入り、何把もがつがつと平らげました。今思えば、出産雑誌の定番特集「妊婦・胎児に最も適切な料理」など全く無視した凄ま じい食生活でした。。

悪阻も治まった妊娠中期から後期にかけては、赤ちゃん用品を揃えたり、出産・育児雑誌を読むことが、何よりの楽しみでした。また、アメリカで婚姻した日 本女性が四人の「天才少女」を育てた本を読み、 いたく感銘を受け、私も彼女が推奨する「胎教」をやってやろうじゃないかと決意しました。
まず、文房具屋で画用紙を買ってきて正方形のカードを作り、平仮名・カタカナ・アルファベット・数字を鮮やかな色で濃く描きました。 そして毎日のようにカードの文字を指でなぞり、発音しました。その本によれば、お腹の中の赤ちゃんはもうちゃんと耳も聞こえているし、母親が集中すれば、 同じように学習しようとするのだそうです。 外出時にも、一応は人目をはばかりながら、目に見える景色がどのように美しいか、胎児に向かって説明し、優しく語りかけました。絵本も、声を出して読み聞 かせました。また、ソファにゆったり座って目を瞑り、クラシック音楽に耳を傾けました。 (現在はロックをガンガン聴いている私ですが)この胎教に効果があったかどうかは分かりませんが、一つだけ確かなことは、長女ジェシカは非常に育てやす く、赤ん坊の頃からむやみに泣いたりしない、感情の安定した子でした。 (次女リサの妊娠中は、折角作ったカードに触れもせず、全く胎教を施しませんでしたが・・・ジェシカよりやんちゃでハラハラさせられることが多いのはその せいでしょうか?)


▲生後3日目のジェシカ
帝王切開の手術中、心配だったパパ。
母子の無事を確認した後、
ボロボロ泣いたそうです。
(見たかったな~)

妊娠後期、「逆子」が直らないと言われ、帝王切開を勧められました。夫婦で通っていた出産教室で学んだ「逆子反転運動」なるものを試みましたが苦しくなる だけ。そんなわけで手術日は94年12月7日に決まりました。 ところが、6日の早朝のことです。破水で目が覚め、夫の運転する車で病院に直行。いきなり物凄い陣痛が始まりましたが、やはり予定通り帝王切開になりまし た。全身麻酔で出産しましたが、この時の不思議な感覚は今も忘れません。 麻酔がかかっていても、重苦しい、内臓が引き出されているような痛みが途切れ途切れに続いていました。ふいに、「女の子だ!」という声。その後、記憶はテ レビでも消したように「ブチッ」と途切れました。

「ふぎゃふぎゃ」という頼りない声に目が覚めました。既に私は病室の中。傍にいた夫がジェシカを手渡してくれた瞬間、涙がどっと溢れ出ました。

運転免許取得物語

大阪のほぼ中心、分かりやすく言えば北野高校から徒歩三分という便利な団地で育った私には、ジュラ州での暮らしはかなり不便に思えました。 電車もバスも一時間に一本。しかも電車は各村々を網羅している訳ではありません。必然的に、住民は運転免許の取得に気持ちが向かうわけです。

これから、93年から94年にかけて免許獲得に奮闘したお話をします。日本で車のハンドルに触ったことも無かった私は、夫に横に乗ってもらって練習開始で す。 3年以上運転免許のある23歳以上の人に同乗してもらい、かつ車の後ろに青地に大きな黄色の「L」の字を貼れば路上で練習出来ると夫が言うので、 当時彼が勤めていた会社の広大な駐車場で、休日にレッスンを始めました。10年物の日本車で、よくエンストして困りました。 (スイスの人はオートマティックよりマニュアル車を好みます)それから段々と車道に出て行きました。


▲最初のオンボロ日本車
練習用にこき使われた為か?二年でお陀仏。
結婚式後の伝統的パレードに使う為、お色直し中。(93年7月撮影)

おっかなびっくりの路上訓練と並行し、公式にこなさなければならない試験があります。 まず、「運転感覚コース」呼ばれ、内容的には人命救助の講座を数回受けます。 事故を目撃した場合、どのような適切な行動を取れば良いのか、等。 人工呼吸の仕方も怪しげな人形で学びました。簡単な試験を受けて誰もがパス。 次は教習所に行って筆記の勉強です。(2004年現在では、筆記試験に合格しなければ路上運転は出来ないことになったそうです) 私の通った学校は古い建物の一室。開いている時間に行って好きなだけ黙々と勉強し、分からないところは先生に聞きに行きます。 受験は仏・独・英・伊・スペイン語・ユーゴスラビア語(セルビア語?)等の外国語でも出来ます。行く度に20フラン(当時2000円ぐらい)払います。 試験はまた別の場所で、私は日本人らしく真面目に勉強し、ほぼ全問正解で合格。しかし、それからが苦難の道でした。

94年4月に妊娠が発覚。それからはひどい悪阻と闘いながらの実技レッスンでした。当時ポラントリュイ地方に4人いた指導員のうち、 夫の同僚がお勧めの、ジュラ州唯一の女性指導員を選びました。厳しいながらもさっぱりとしていて、かっこいい人でした。教習料は毎回終了後に払います。 指導員によって違いますが私の場合は50分授業で75フランほど(7000~8000円ぐらい)でした。十数回の教習後、6月に最初の受験。 (既に自信のある人はほんの数回の教習後、受験に望むそうですが)この時は、縦列駐車が出来なかったことと、発進しようとしたら別の車が死角から現われ、 試験官に先にブレーキを踏まれたことで不合格。受験料金は運転免許申請料金に入っていたのですが、ここからは再受験の度に追加料金を払わなければなりませ ん。 約一ヵ月後にやっと合格しました。(実は大通りの真ん中で一回エンストしたのですが、「重大じゃないから大丈夫」と言われて見逃して貰えました。 終始渋い顔をしていた一回目の試験官よりも優しめのおじさん・・・だったかな。試験中、日本について質問してきたので運転を誤らないかと少々焦りました が。)


▲買い替えた日本車
スポーツ仕様なので夫が喜ぶこと喜ぶこと。
マルキ明子@第一子妊娠中だが果敢に運転していた頃

今となっては指導員さんに注意されて落ち込んだことも、 教習時間が終わって車から出た途端に我慢出来なくて道端に吐いてしまったことも、 実技試験の失敗も、懐かしい思い出になりました。
ただ、残念なことに、最近車を買い替えてから全くのペーパードライバー状態になり、 夫や夫の家族に渋い顔をされています。 新車をぶつけるのが恐いと他人の前では冗談めかして言っていますが、 実は余りにも長く運転しなかった為、考え過ぎて恐くなってしまったのです。 ジュラ州は飛ばすドライバーが多く、事故も多発しています。

元々それほど運転が好きでなかった私の気持ちを決定付けた事件がありました。 去年、すぐ傍の道路で知っている男の子が車にはねられて亡くなったのです。 その時の急ブレーキやぶつかる音を聞き、今でも耳に残っています。運転手に特に過失が有るわけではなく、 男の子は対向車同士の死角で、走ってくる車が見えないまま、自転車に乗って道路を渡ろうとしたのです。 あと数秒ずれていたら、彼は間一髪無事だったのに・・・。享年9歳。 公園でよく見掛け、一際眼を引く活発な美少年でした。家に写真を飾っています。 この場を借り、その子のご冥福をお祈り申し上げます。

一年がかりの結婚式 その3

披露宴会場は実家近くの村のレストランでした。当時の控えを取り出してみると、以下のメニューが書かれていました。  ハーブ入りコンソメスープ、アントレ : ねぎ入り生鮭のパイ、メインコース : 豚ヒレ肉のモリーユ(キノコの一種)ソース掛け、クロケット(和風に訳すとコロッケですが、じゃがいもをすり潰して小さく固めたものを衣をつけて揚げた 物)、季節の野菜。デザート : 自家製ヴァシュラン(メレンゲのアイスケーキ)  このメニュー選択で小さな失敗がありました。生鮭のパイが思った以上に大きくて中身もぎっしり。お蔭で折角のメインコースのヒレ肉の時には満腹感と戦い ながら食するという羽目に。(お代わりが出来るのですが、ほとんどの人がしていなかった・・・)


▲スイス名物ラクレット・ロゼワインで乾杯
溶かしたチーズをゆでたじゃがいもに付けて食べる。我が家では干し肉とピクルス、小玉ねぎの酢漬けを添えて。

披露宴中、現在ではPOWER POINTというCD-ROMを駆使した映画上映が盛んですが、当時の私達は昔ながらの「スライド」。機械をレンタルし、二人の赤ん坊の頃からの写真を司 会者(夫の伯父)の解説付きで公開しました。(ネガが無ければスライドは作れないとスイスの店では言われ、わざわざ日本まで写真を送って作りました・・・ 裏話です)

スイスの結婚式でお決まりの催しとしてダンスは欠かせません。一人でキーボードを弾いて歌うボーカリスト、ドラムスやギターが入ったポップスバンド、昔な がらのアコーディオンなど、様々なタイプの出張ミュージシャンがいますが、好みに応じて選び、直接本人に連絡を取って条件を話し合います。これまで数々の イベントに参加して思ったのですが、どんなタイプのミュージシャンであっても幅広いレパートリーを持ち、必ず昔ながらの民謡を演奏し、歌い、あらゆる世代 を見事に楽しませてくれます。客の方も、ダンスを通じて一体となると言っても良いでしょう。

日本のホテルでは普通、数時間で披露宴は切り上げられ、次の新郎新婦が同じ会場を使用するという慌しさもありますが、スイスの披露宴は夜8時ぐらいから開 始し、料理が全部終わっても飲み続け、歌い、バンド演奏に合わせて踊ります。社交ダンスから始まり、盛り上がってくると、「ア・ラ・ク・ル・ル」(一列に なって)と歌いながら、肩に手を置いて参加者全員が繋がってレストランの内外を駆け回るという騒ぎが一晩中続きます。伯母は途中でダウンしてレストランの 階上にあるホテルの一室で仮眠を取らせてもらっていましたが、他の人達は全員元気で、老いも若きも踊り狂い、帰宅は明け方5時頃でした。  主に日本とスイスの違いをクローズアップしながら紹介いたしましたが、スイスの伝統的な結婚式が垣間見えたでしょうか?


▲新婚旅行・ベネチアにて
父母と伯母も一緒に楽しんでくれました

▲ルツェルンの観光名所、カペル橋前にて
1333年に建築された木造の橋は1994年に大半が焼失。現在は修復済ですが、その火災前の貴重な写真となってしまいました。 左から父・伯母・母・私。

この夏の結婚式で嬉しかったことは、何と言っても、父母が揃ってスイスの地を踏み、楽しんでくれたこと、夫の家族と対面し、言葉が通じないながらも真摯に 交流してくれたこと、式後、スイス国内やイタリア(ベネチア)を一緒に旅したことでした。また、日本でも滅多に会えない伯母と寝食を共にしたこの三週間の 滞在をきっかけに、以前よりもずっと親しくお付き合いさせていただくことになりました。

結婚の行事はこれで終わったわけではなく、年明けの1994年1月2日、親しい身内と友人だけで、大阪市内のレストランで披露宴を行いました。この時も失 敗話があり、基本コースとして申し込んだ二時間の宴は余りにも短か過ぎ、バイキング形式の料理がまだ大量に残っているのにお開きにしなければならず、特に はるばる遠方から駆けつけてくれた方には本当に申し訳なかったです。「超過料金を払って三時間にすれば良かったね」と後で家族で反省会。それでも今となっ てはどの宴も美しい思い出です。
こうして、夢のような「結婚式の年」は無事、終了しました。

一年がかりの結婚式 その2

教会での式が終わると、アペリティヴ(本来の意味は食前酒)と呼ぶ、酒と軽食を出すパーティに参列者全員を招待します。参加者が移動しやすいように教会の すぐ近くにある小学校の屋根裏部屋(と言ってもかなり広い)を確保した上で、パン屋さんに、人数とこちらの予算に合わせた軽食を作ってもらうように予約し ました。スイスのパン屋さんは結婚式や誕生日などの行事用に軽食を作って出前をしてくれるところが多いです。ケーキやお菓子類は勿論、カナッペ(パンの上 にピクルスやゆで卵のスライス、スモークサーモンなど冷たいお惣菜を載せたもの)も色とりどりで見た目にも美しい、芸術作品のような食べ物が一杯。一番目 立つものは、「驚きパン」。巨大なパンの中身が綺麗に繰り抜かれ、数種類のサンドイッチがぎっしり詰まっています。


▲アペリティヴにて
様々な種類のカナッペはあっという間に無くなりました。

私達は直接印刷屋さんに行って、カードや封筒、文章のレイアウトを選び、結婚式招待状を作りました。招待状発送時に特に気を使うことと言えば、アペリティ ヴのみに招待する客と、アペリティヴ後、レストランでの披露宴にも招待する客とを区別すること。例えば、招待状には「式後、アペリティヴがあります」とあ らかじめ印刷しておき、披露宴招待客だけに「貴方を○○レストランでの披露宴にご招待します」という小さなカードを差し入れたりする方法があります。

結婚祝いについては、日本の慣習通りに考えてはいけないといささか驚きました。スイスでは参列の意思を伝えてきた人々に、「お祝いは何が欲しい」とはっき り伝えても良いからです。私達はあるデパートに行って欲しい物をどんどん選び、専用の棚に保管しておいてもらいました。店の名前を参列者に教えておき、店 員に新郎新婦の名を言えば倉庫に案内して商品を見せてもらえるという段取りにします。贈りたい物を選んで支払いが済めば、後日、私達が品物を取りに行くだ けです。「お店に行き損ねたので」と、披露宴の最中に現金の入った封筒を渡しに来てくれた人もいました。夫のいとこが結婚する時、オーストラリアへの新婚 旅行の資金作りに協力してくれと、「貴方が私達に贈りたいだけのお金をこの銀行口座に振り込んで下さい」という案内を送ってきました。何とも合理的かつ、 率直で裏表の無い伸びやかさを感じませんか?


▲式を控えてのツーショット
州都にあるドレモン城・庭園内にて

日本のホテルでの挙式のようにパックになっている訳ではないので、衣装も花も全て個別注文。私は、挙式にも参列してくれた伯母(母の姉)の手作りで、既に いとこが二人袖を通しているウェディングドレスを日本から持ってきてもらうことになりました。元々は伯母が自分の娘の挙式用に縫ったものですが、レンタル ショップで借りるよりも暖かく心の籠もったドレスだと、細かいレースのフレアなどをつくづく眺めたものです。

披露宴参加者は結局40名ほど。日本側からは父母と伯母、ヨーロッパ旅行中の友人母娘の5名のみ。かなり少人数ですが、心から私達の結婚を祝ってくれる、 ごく親しい人だけに参加していただければ良いと考えました。何と夫は会社の人間を一人も招待しませんでした。夫曰く、「仕事とプライベートは分けていた い」のだそうです。私が住んでいた頃の日本では考えられませんでしたが、現在はどうなのでしょうか?

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