今まではノルウェーの事実について私の目線で語らせていただいたつもりですが、第7歩の今回は少し様子を変えて、語学の習得について書かせていただきたいと思います。私自身、語学が私の世界と可能性を広げてくれたという思いがありますので、これからのみなさんの輝かしい将来のために参考になればと思っています。
【その1】私と語学
こちらで生活していると、「何語を話すのですか?」という質問をうけることがあるが、それに対する私の答えは、「日本語、英語、イタリア語、ノルウェー語を話します。」である。4か国語を操ると言えば、(私事ながら)なんだか超人の様に響くが、決してそうでなく、必要であれば誰でも実現可能なのではないかと思う。なぜならこれらの言語は私が歩んできた道の時々に必要な言語であって、はじめから4か国語取得という目標を持って進んできたというより、結果的にそうなっただけだからである。
とはいえども、私の語学との出会いは比較的幸運なものであった。日本語は兎も角として、初めて外国語に接したのは小学3年生の時。近所にアメリカ人の女性が日本人の旦那さんと共に越してきて、英会話教室を開いたことがきっかけだ。子供だったので、特に英語に興味があった訳でもなんでもないが、近所の仲良しのお友達が通うことになって、誘われて私も参加することになった。週に一回、お宅に通ってセサミストリートの本を使って単語の発音をしたり、アメリカのお菓子を出してもらったり、アメリカの風習に従って季節ごとに工作してみたり、はっきりいって遊んでいただけだが、それでも日本語をほとんど話さなかったその先生と不思議とコミュニケーションが取れていた。2年ほどのこの経験で私の中で外国語は、なんだか新しくて楽しいものとして定着し、外国人に対する恐れみたいなものも拭い去られた。外国語を学ぶ上での土台のようなものはこの時に出来上がっていたのかもしれないし、英語の発音はこの頃が一番よかったように思う。
▲セサミストリートのキャラクター達~勉強を通り越して、楽しく学べる。 photo(c)セサミストリート・オフィ シャルサイト |
それから中学高校とふつうに英語を勉強し、北野高校時代は成績はふるわず、授業にそれほど情熱も持っていなかったが、個人的には英語は常に好きであった。私は北野高校入学が110期、卒業が111期とあるように、4年かけて卒業したのだが、そういうと留学でもしていたのかなと思われる方もいるかもしれないが、実際は半年ほど学校に行かなかった頃があって留年したのみだ。大学受験のための勉強というものに非常に疑問を感じていたし、中学3年生の時に母を亡くし、また多感な時期とも重なって、夢を追いかけるのに学歴は必要ないと若気の至りで高校を辞める旨主張して長期欠席し、バイトをして演劇のレッスンと英会話教室に通っていた。結局現実を知り、高校卒業はどんなことをするにしても必要だという思いに至り留年を決意するのだが、そのバイト時代にも突然得た収入の多さに高校生としてはとまどって、その使い道の一つに英会話教室を選んでいたのは今となっては興味深い。大手のその英会話教室で、高校に戻ってからも計一年くらい、週に二回カナダ人やオーストラリア人の先生に習っていた。
▲琉球大学時代に訪れた竹富島。友人と砂浜で(2003年3月) |
語学好きのように見える私だが、私の中で常に一貫した語学に対する姿勢はツールとしての語学である。もともと理系の人間で文系に進学することは考えたことがないので、語学を専門にするという道はありえなかった。語学は自分を表現する、また自分の幅を広げてくれる手段であって、最終目標ではない。
一番英語を勉強したのは琉球大学時代であったと思う。
決められたことを勉強する高校時代と異なって、大学は自分の興味に従い専攻を決め、他学部の授業でも興味さえあれば取りにいけるので、そういった自由に学ぶ姿勢が私は大変気に入っていた。結果として、国を変えて3つも大学を渡り歩くことになったのも、大学(University)で専門を持ちつつ、学部を超えて自由に学べる環境が私にはとても居心地良かったからだ。大学の英語の勉強は北野高校時のそれより平易であったが、より実践的で興味深かった。それに加えて、自分なりに目標設定しTOEIC等の資格試験を受けたりしていた。
▲イタリア留学時代に訪れた スペイン・ビルバオグッゲンハイム美術館にて(2004年12月)
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初めての留学先をイタリアに決めた時も、英語がそれなりに出来たとしても英語圏の国での勉強というものにそれほどこだわっていなかった。まず自分の興味ありきで、イタリアの古い歴史をもつ建築と都市計画に惹かれていたので、ではということで、イタリア語学習を開始した。大学3年修了時に休学し、その春から留学準備とイタリア語学習を開始し、その秋にはミラノ工科大に編入していたので、我ながら短時間でよくやったというべきだろう。(学習法については次号)
日常会話は全く問題なくとも、大学で使うイタリア語はもちろん非常に難易である。学び急いだための語学力不足で、授業が思ったように理解できず、結果として目標としていた学位取得はならず、2年でイタリアを去ることとなったが、イタリア語を話せることは、私の世界をより大きくし、様々な彩りを添えていることは間違いない。イタリア映画を原語で見ることができ、イタリア人と会話し、イタリアを旅行してもぼったくられない。そしてなにより、イタリアにおいて人生の伴侶を見つけたことは何ものにも変え難く、感謝すべきことであると認識している。
その人生の伴侶の国、ノルウェーへ進学する可能生を探っていた時、私の専門分野のマスターコースではノルウェー語で学ぶコースと英語で学ぶコースがあったが、ここはイタリアでの経験を踏まえ、より長く関わってきた、英語でのコースで学ぶことを決めた。その英語でもコース開始時は多少の困難がつきまとったが、一年くらいすればそれも慣れてきた。英語圏の国に住んだことがないので、意外に普段の会話(ギャグやスラングを含む)に弱かったりしたが、それもじき慣れた。ノルウェー語は修士の勉強の合間に多少コースに通ったり、独学したりでなんとかそれなりになってきている。まだまだペラペラとは言い難いが、今後の課題としたい。
次回は私なりの語学習得法を具体的に紹介します。お楽しみに。
▲この夏婚約者と共に訪れたチベット・ギヤンセノルウェーの大学院でクラスメイトだったチベット人の友人(写 真左)のおかげで、この旅が実現した。 (2007年7月) |