探訪「大西洋の壁」と「松代大本営」(その3) (2008年11月23日)

松代象山地下壕鳥瞰図

さて、今回は一転、長野市は松代大本営探訪記である。前々回の連載でも触れた、戦争末期に作られた、中央政府機構を避難させるための巨大な地下壕だが、 松代の町の南方の、象山、舞鶴山、皆神山の3ヶ所に建設された地下壕のうち、現在は象山地下壕の一部が、一般人でも見学可能なようになっている。なお、舞 鶴山地下壕は、気象庁によって地震観測所として活用されている。皆神山地下壕は、落盤が多いため、公開も活用もされていない。

「大西洋の壁」と同様、敗色濃厚になってきたため、防戦のために急遽作られた施設で、1944年11月に着工され、終戦日の8月15日まで工事は続けられたが、進捗率75%で工事は中止され、ついに本来の目的として使用されることはなかった。

松代象山地下壕あんない図

三つの地下壕の中で最も規模の大きい象山地下壕は、総延長延べ5800mで、中央省庁やNHKなどが移転予定だった。戦後、その一部が信州大学の宇宙線 観測室に活用されていた他は、長い間一般公開はされていなかったが、1980年代から活発化した保存運動などによって、現在はその一部の約500mの部分 が一般公開されている。長野市観光課が管理しており、現在のところ入場料は徴収していない。9時から4時の間、入り口横の管理事務所に申し出れば、誰でも 見学することができる。

松代象山地下壕入り口
松代象山地下壕内の様子
松代象山地下壕内の様子
松代象山地下壕内の様子

地下壕の入り口と、内部の様子である。一般見学可能なところは、電灯が灯され、足元はきれいに整備されている。トンネルの幅が広いところでは、天井には 補強がなされており、万一の崩落の危険に備えている。見学可能なコースは、網目状に入り組んで建設された地下壕の、一本道のコースだけで、立ち入り不可の 区域の手前には柵が設置されている。毎日4時の閉壕時間後には、設備に異状はないか、滞留者がいないか見回りを行っているようで、この施設の一般公開には それなりのコストが支払われている。
これだけの規模の設備の維持と公開を、入場無料で行っている長野市の努力には敬服する。史跡指定への申請や、見学有料化などが検討されているという。これだけの史跡をいい状態で保つことができるのなら、有料化も意義のあることだろう。

さて、ここ3回に渡って、アイマウデンと松代の、敗戦国が作った戦争遺跡の探訪記を綴ってきた。保存状態の違いについて論じるつもりはない。両者の位置づけや設置の目的は大きく異なるのだから、状態に違いがあるのは当然だ。

一方で、いずれのケースも、敗色濃厚になった国が、戦争を継続させることを目的に建造したという共通点がある。敗戦という形で終わったあとには、「無駄 な努力」と切り捨てられても仕方のない、労力と資源がつぎ込まれたことになるが、戦後数十年を経た今、その労力と資源を少しでも無駄にしないためにも、こ れらの施設からより多くの教訓を汲み取るのが、現代人に課せられた課題であろう。

日本にせよ、ドイツにせよ、これら東西の敗戦国は、攻勢から劣勢に転じた後、必死になって何かを守ろうとしたのである。なぜそこまで必死にならねばなら なかったのか、何がそこまで彼らを駆り立てたのか。そもそも、戦争の原因の根本には、守るべき何かがあり、追い詰めるに至った何かがあった。戦争を始める ことになったきっかけは、ただ自分の支配領域を増やしたいという、我欲だけだったはずはないのである。

それが何かを深入りして議論する場ではないので、問題提起だけにしておこう。ドイツの場合は、第一次世界大戦の戦後処理に大きな問題があった。日本の場 合は、当時の世界に蔓延する、白人絶対優位主義とキリスト教文明絶対優位主義があった。戦勝国史観によって見逃されがちなこれらの問題は、本来ならもっと 議論されて然るべきものなのだが。

最後に一言。少々脱線気味になるが、もう少しおつきあい願いたい。

松代大本営を取り上げている他のウェブサイトなどでは、言わば突貫工事とも言える建設現場が、少なくない数の命を失わせたことについて批判的なところが 多いが、筆者には少し違和感を覚えさせる。なぜなら、この時代に自らの意思に反して命を失った人々の総体を見ずして、局所的な議論に終始していると思わざ るを得ないからである。

同時代の多くの日本の若者たちは、強制的に戦争の最前線に赴かされ、悲惨な状況で死を迎えている。また、炭鉱や金属資源鉱の採掘現場ーーーこれらもほと んどが突貫工事だったがーーーとは違って、松代では有毒ガスや金属汚染による健康被害の心配が少なかったことを考えれば、この現場への従事はまだ恵まれて いた方、とは言えまいか。

確かに、工事従事者は徴用された朝鮮半島出身者が多かった。しかし、日本政府の庇護を受けたおかげでロシアからの侵略を免れていた彼らにすれば、本土出身の若者が徴兵で戦地に赴かされていたのと同様、徴用による勤労奉仕はやむを得ないことだったのではないか。

この工事における朝鮮半島出身者の犠牲者が多かったことだけを、ことさら取り立てて議論すると、ことの本質を見誤る。悼むのは、ここで亡くなった犠牲者 だけでなく、同じ時代に他の地で散っていった犠牲者にも思いを馳せる、そういう視野の広さを持って、ここの遺跡を見つめて欲しいと思う。

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