▲トーチカ(3) |
まず見てもらいたいのが、前話の航空写真で 言うところの「トーチカ(3)」である。ここに陣取った守備兵は、機関銃を装備していたのであろうか。砂丘を這い上がってくる敵の兵士を、下の隙間から狙 いを定め一網打尽にするよう設計されていたのかもしれない。上の隙間の役割はよくわからない。ヘルメットをかぶった兵士が胸の前に機関銃を構えるには天井 が低すぎるようだ。
それぞれの隙間は人間が出入りするには狭すぎるし、そもそも出入りするには足場が悪すぎる。手前にある正方形の穴に取り付けられた梯子を使って、出入りができるようになっているようだ。現在は砂がぎっしり詰まっていて、通行することはできない。
このトーチカがどの程度の大きさかを示したのが、右の写真である。自分の写真をこのページに掲載するのは、実は恥ずかしくてたまらないのだが(笑)、手 頃な比較の対象品がみつからなかったので、上記の正方形の出入り口の縁にカメラを置いて、セルフタイマーにて撮影した。シャッターを押してくれる道連れも いない、孤独な取材である(苦笑)。
身長163センチの筆者がこの程度だから、トーチカの規模がわかってもらえたと思う。その他のトーチカも、ほぼ同じぐらいの規模である。
▲トーチカ前面 | ▲トーチカ後面 |
このトーチカを前方から見ると、こんな感じである。こんなものを攻め落とそうと思ったら、中の兵士が弾切れになるのを待つぐらいしか手はなさそうだ。外からはどんな強力な兵器で攻撃しても落ちそうにない。
後姿にも興味のある人はいるだろうか。大して立派な後姿ではないが、左下に掘られている穴はなんだろう。もしかすると、うずめている砂を取り除けば、出入り口になっているのかもしれない。
▲トーチカ(5) |
次に、トーチカ(5)を見てみよう。誰が描いたか知らない落書きにはとりあえず目を背けるとして、先ほどのトーチカとは違って、前面が広く開いていることに気づくだろう。
この、広く開いた部分を写したのが、次の写真だ。地面には極太のボルトが円状に並んでおり、天井には吊り下げ用のフックが6つ並んでいる。開口部が海を 向いていることを考えると、海上の船舶にむかって砲撃を行う大砲が設置されていたのであろう。正面からの攻撃には弱かったかもしれないが、天井と左右後の 壁は、分厚いコンクリートで守られている。
このスペースに収納できる大砲が、どの程度の射程距離でどの程度の破壊力なのかは皆目見当がつかないが、「大西洋の壁」の主役として、近づく敵の艦船を 撃退する役割を担っていたはずだから、よほど強力な大砲が装備されていたに違いない。冗長なので写真は示さないが、トーチカ(1)(2)(4)もほぼ同じ 構造を取っており、敵の艦船を跳ね返す役を持つこのタイプが、重要な役割を担っていたことを想像させる。
トーチカ(5)の内部構造は右の写真を見てもらおう。結構な奥行きがあって、この通路の両サイドにはちょっとした小部屋がある。弾薬庫か何かなのかも知れないが、単純に大砲を覆っているというわけではなさそうだ。
それにしても、ヒドい落書きである。落書きされるがまま放置、というのもなんだか悲しいものがあるが、それほど何の管理もされていないということだろ う。落書きを描いているのは、どこにでもいる撥ねっ返りの若者だろう。ネオナチのような政治的内容はあまり見られないが、いずれにせよ日が暮れてからはあ まり近寄らないほうがよさそうだ。
さて、今回はいつもの執筆スタイルとは違った形態で、写真を多用して「現地ルポ」的なものをお届けした。先の戦争で、ドイツ軍がどのように頑丈な建造物 を作ったのか、読者諸氏にも実感していただきたかったためである。「大西洋の壁」というぐらいだから、これだけの設備が何百キロの長さに渡って並べられ た。そして、ほとんどの設備は実際に使用されることはなく、戦場になったのはノルマンディー周辺の数キロの範囲だけ。
戦争というものは、破壊と秩序崩壊がある一方で、無駄な投資による建築物と、終わってみれば省みられない奇妙な秩序とが残る。この投資に向けられた資 金や労働力は、もっと建設的な方向に利用できる機会もあったはずなのに、このようにして利用されず失われるのは残念なことだ。
そして、一方で想像していただきたかったのは、もはや無用の長物とはいえ、取り壊すにもそれなりのコストがかかりそうなことである。現状はまさに「放 置」の状態であり、保存するでもなく、管理するでもなく、かつ、若者の溜まり場になろうが、迷い込んで負傷者が出ようが関知せず、といった状態であること も、実感してもらいたかった。ただ、なぜ放置しているのか、本当の理由は、アイマウデン市議会の議事録でも繰ってみないとわからない。
それにしても、この地の守備に配備されたドイツ軍兵士達は、いったいどんな気持ちで毎日を送っていたのだろう。松尾芭蕉は平泉の地で「兵(つわもの)どもの夢」に思いを馳せたというが、筆者も好天の初夏の日に、当時の兵士達の境遇に思いを馳せたのであった。