第四回 上座部仏教(3)

2018年7月14日

 今回の写真は、第二回でご覧いただきましたシュウェダゴンパゴダの、遠景です。パゴダの周りは殆ど緑で覆われているように見えますが、写真の左下からパゴダに向けて、参道が通っていて、その屋根が見えています。この写真だと、パゴダの100Mという高さをよくお分かり戴けるでしょう。

さて、前回は、上座部仏教の浸透により、「輪廻転生」を固く信じ、それ故に、人を悲しい気持ちにさせたくない、その為に「Noと言えない」ミャンマー人、というお話をしました。今回は、同じく「輪廻転生」を信じるが故の、国民性の大きな特徴、それが別の角度からミャンマーの人達の優しい性格を形作っていることを、ご説明します。

前回、現世の行いにより、来世に人間に生まれ変われるかどうかが決まる、と申しましたが、それは、現世に人間であるということは、前世において、現世人間に生まれ変われるだけのレベルで人間らしい行いをしていた、ということも意味します。しかし、それが決して簡単ではなかったであろうこと(人間は、ついつい悪いことをしてしまうこと)は日々実感していますので、よくぞ人間に生まれ変わることができたなあ、それだけでも嬉しいことだなあ、と感じることができます。そして、現世で、多少辛いこと、悲しいことがあっても、「まあ、これは前世で犯した悪行の報いである。これくらいのことは仕方が無い。」と、素直に我慢できる訳です。人間ですから、例えば他人から侮辱されたりしたその瞬間は怒りますが、少なくとも、落ち着いて冷静に考えられるようになった時は、相手に対する怒りや復讐心というものも収まります。その人が悪意でやったことであれば、来世で必ずその報いを受けますから、自分で復讐する必要は全くありません。

一つの歴史上有名な例を挙げます。第二次世界大戦の折、日本軍の占領と、それに対する英軍からの空襲等で、ミャンマーの国土も資源も、甚大な被害を受けました。ここでその詳細には立ち入りませんが、是非はともかくとして、日本軍は、様々な形で、ミャンマーの人達に恨まれても仕方の無いことをしました。しかし、日本軍が敗れて、逃走しながらも力尽きた日本兵達を、ミャンマーの人達は懸命に匿ってくれたのです。(これは、私の友人でミャンマー経済の研究者の著書に書かれていたことですが、)もし、日本を占領していた軍隊が、敗れて逃走中に倒れた際に、我々日本人は、自宅に彼等を匿うでしょうか?時代は更に遡るとはいえ、大河ドラマ等でしばしば見るのは、むしろ非情な「落ち武者狩り」でしょう。更に戦後、ミャンマー政府は、いち早く米の生産を回復し、いくらでも高く売ることができた時代に、その米を、食糧不足に苦しむ日本に、優先的に輸出してくれました。戦後賠償金の交渉においても、他国の要求よりも遥かに低レベルの金額で、真っ先に妥結してくれました。これらは皆、恨みは残さず、今、目の前で困っている人を助けることによって善行を積もうという、ミャンマーの上座部仏教の精神によるものなのです。

仏教に偏った、かなり固いお話が、3回続いてしまいましたが。次回は、日常生活や暦の上でのミャンマーの仏教が、日本のそれとどう違うかについて、私の経験談を中心に、ご説明致したいと思います。