第十一回 ミャンマーと日本との繋がり (4)泰緬鉄道とインパール作戦

2018年9月2日

 今回は、太平洋戦争のビルマ戦線における、悪名高い、二つの大きな惨劇について、申し述べます。

一つは、日本軍鉄道隊が1942年6月から1年4か月の突貫工事にて、タイ(泰)とミャンマー(当時のビルマ:緬)の国境地帯415キロにわたって建設した、「死の」泰緬鉄道です。左の写真は、吉川利治著「泰緬鉄道」(雄山閣発行)という、私が読んだ同鉄道関係の本の中で最も詳しく、比較的公平かつ冷静な観点で書かれた書籍の、表紙です。(なお、この鉄道は、現在では、タイ側の約130キロのみが残っています。)

当時既に、海上輸送でビルマに物資と兵員を安全に補給することが困難になっていた為の、日本軍としては止むを得ない建設だった訳ですが、約6万2千人の連合軍捕虜と、ビルマ人10万人を含む東南アジアからの強制労働者約20万人が、極めて過酷かつ危険な労働を強いられて、1万2千人の捕虜と、少なくとも4万人以上(10万人以上との説も)の東南アジア人(その内ビルマ人が約3万人以上)が死亡した(一方、日本人の犠牲者は1千人程度)と伝えられています。当然、連合国側に深い恨みを抱かせましたし、1957年公開のイギリス映画「戦場にかける橋」によって、戦後生まれの欧米人達にまでも広く知られることとなりました。

もう一つの悲劇は、1944年3月から4か月間にわたって行われ、長年、無謀な作戦の代表例と伝えられてきた「インパール作戦」です。昨2017年8月にNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」が放送されて、大きな反響を呼びましたし、今年7月には岩波書店からNHKの取材班による同名の書籍が出版されましたので、目にされた方々もおられるでしょう。前回申しました「援蒋ルート」を完全に遮断し、かつ、太平洋戦争全体としての不利な局面を打開することを目的とし、そして、インドのイギリスからの独立を助ける、という「大義」をも掲げて、インド北東部のインパールの占領を図る作戦でした。(1943年10月、インドの独立運動家チャンドラ・ボースが、それまでに日本軍に帰順していたインド人兵士を中心に「インド国民軍」を結成、日本占領下のシンガポールで「自由インド仮政府」の樹立を宣言し、米英に宣戦布告していました。)しかしこの作戦は徹底的に失敗。作戦に参加した将兵約9万人の内、3万人が死亡。しかも、その6割程度が、戦闘ではなく、飢餓や疫病等で亡くなった、と伝えられています。

ビルマの中央部平野からインパールに行く為には、チンドウィンという大河と、険しいアラカン山脈という悪路を越えることになります。その為、武器や弾薬の殆どを兵士が背負っていかねばならず、食糧は僅か3週間分しか携行できませんでした。物資を運搬させ、後に食糧とする為に連れていった牛も、大河で溺れたり山道で転落したりで、戦場には殆ど到達できませんでした。ミャンマーでは(タイ・カンボジア、ベトナム南部も同様ですが)5月の後半に雨季が始まり、時として滝のように降ります。3週間の内に、つまり雨季になる前に成功させ、その先の食料はインド側の占領地で調達という心づもりだったのが、物資豊富な英軍の猛攻に阻まれ、食糧が途絶えた中で、4か月間も奮戦の後、作戦中止。飢餓に苦しめられながら奮戦の後、大雨降る中を撤退していった道は、後に「白骨街道」と呼ばれることとなりました。

太平洋戦争中、日本からビルマに、32万人もの将兵が送り込まれて、その内、日本に戻れたのは、僅か13万人でした。現在でも、亡くなられた方々の遺骨収集の努力が続けられています。もちろんビルマの人々も、英国軍の空襲による施設破壊や、日本兵による家畜の徴発、労働力の徴用等により、食糧生産力の激減に苦しめられました。それにも拘らず、前回少し触れましたが、独立翌年の1949年には7万トンの、1950年には17万トンの米を、日本に優先的に輸出してくれました。その後も、日本とビルマ/ミャンマーは、一度も大きな外交問題を起こすことなく、しっかりと友好関係を深めてきています。日本が、外交上の様々な問題に直面している今、皆様にも、このミャンマーという国と日本との深い繋がりをしっかりとご理解頂き、まずは、この国に更なるご興味を抱いて頂きたいと思う次第です。