突然ですが、左の写真は、ミャンマーの民族服であるロンジー(腰巻)とシャツ、上着(タイポン)を着ている私です。(背景は、私が最後の駐在中の2015年に勤務していた首都ネピドーのオフィスです。)正に暑いミャンマーの気候に適した服装で、素足に草履で、このロンジーを穿いていると、意外に涼しく感じます。日本人がこの服装をしていると、客先や官庁のミャンマー人の方々が、それだけで、とても喜んで下さるということもあり、私は日常、こういう姿をしていました。
さて、今回から暫らくは、太平洋戦争の前後を含めた1940年代の、ミャンマーと日本の深い繋がりについてお話します。
ミャンマー(当時の英領ビルマ)は、日本軍にとって、戦略上、極めて重要な場所でした。蒋介石率いる中国との泥沼の戦いを打開していくためには、連合軍がビルマ北部を通じて中国に援助物資を続々と運び入れている、いわゆる「援蒋ルート」を遮断することが必須でした。日本軍は1941年12月末にビルマ侵攻を開始。その準備の一環として、ビルマ独立運動のリーダーであったアウン・サン(現政権の事実上のトップであるアウン・サン・スー・チー女史の実父)を筆頭とした「30人の志士」を占領中の海南島で訓練し、彼等がビルマ独立軍を設立して、日本軍と共に戦ってイギリス軍を追い出し、それが現在のミャンマー国軍に繋がっています。その証拠に、ミャンマー国軍では、今でも、「軍艦マーチ」が頻繁に演奏されているのです。
後に、日本軍の敗戦が決定的となり、タイ国境に向けて逃走していく最中の1945年3月27日、その独立軍は、対イギリスとの関係上いわばぎりぎりのタイミングで日本軍に反旗を翻しましたが、一方で、多くのビルマ人達が、敗走中に倒れた日本兵士達を匿ってくれました。その3月27日が、現在のミャンマーで「国軍記念日」の祝日とされていて、ミャンマーの歴史の教科書にも、侵略者「ファシスト日本」と書かれていることは事実ですが、それは仕方の無いことでしょう。実際には、その後の様々な不幸な出来事を知りながらも、上述のビルマ独立軍誕生の経緯が、日本とビルマ(ミャンマー)の繋がり・友好の始まりとして、ミャンマーの人達に長く記憶され、現在の極めて親日的な国民性に繋がってきているのです。
その親日性が発揮された例として、まず、1948年の独立直後から、食糧不足に苦しむ日本の米の買い付けに好意的に応じ、また、1952年に始まった戦後賠償の交渉においては、真っ先に妥結して、その後の他国との賠償交渉上「低め」の相場を作ってくれました。1962年以降、「ビルマ式社会主義」を掲げて、かなり鎖国的な外交・経済政策を進めてきた時期においても、日本に対しては決して外交を閉ざさず、そして、日本が急速に発展しビルマが貧困化していった時期においては、日本からのODAを常に積極的に受け入れてきたのです。
次回は、戦争中のことに話を戻して、ご説明します。