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第十四回 ミャンマーの混迷

 お久し振りです。2018年にミャンマーについて11回投稿させて頂き、しばらく休憩の後、2020年3月に再開した途端に  コロナでミャンマーへの旅行が殆ど不可能となり、4月10日に「一日も早く新型コロナ騒ぎが落ち着いて、再び投稿再開できる日が遠くないことを祈っております」と申したまま、現在(2022年4月)に至ってしまいました。ご存知の方々も多いでしょうが、ミャンマーの場合は、昨年2月1日に国軍によるクーデターが起こり、その後民衆による抗議デモが続く中で遂に国軍側が発砲して多くの死傷者が発生して、現在に至っても対立(戦闘やテロ行為を含む)が続いています。国軍側は、来年の8月に総選挙を行って政権移譲すると明言しているのですが、抵抗勢力側がそれをボイコット、或いは積極的に妨害することも予想されます。つまり、仮にコロナ感染が収束しても、少なくとも来年夏までは政治的混乱が継続する見込みで、日本から普通に観光旅行に行けるような状態になるのは、更にその先でしょう。本当に残念です。

実は、2年も投稿が途絶えていたこともあり、今年の1月に、六稜同窓会のかたから継続の意思につきお問い合わせを受けました。ミャンマーとの強い縁が出来て36年、こよなくミャンマー及び国民の人達を愛する私は、何とか来年末までには皆さんにミャンマー旅行をお薦めできる日が来ることを信じて、取り敢えず(大変失礼ですが)まずは繋ぎの投稿をさせて頂きたい、と御返事した次第です。

そして、暫く、どのようなことを申し上げようかと考えていたところに、御高承のウクライナ侵攻が始まりました。ミャンマーの悲劇とウクライナを重ね合わせて考える方達も多いのですが、もちろん性質は大きく異なります。ミャンマーの場合、実際に戦闘やテロ行為が行われているとはいえ、あくまで一つの国家の中での権力闘争なのですから、話し合いの努力を行うべきです。ところが、ウクライナでさえロシアと停戦交渉の努力を続けているというのに、ミャンマーでは、抵抗勢力側も国軍側も相手を全面的に否定し、決して話し合おうとしません。それどころか、もし、欧米や日本での公の席で国軍と抵抗勢力側の話し合いの必要性を主張すると、在外ミャンマー人のみならず、マスコミや多くのミャンマー関連の研究者の方々からの非難轟々となる、いわゆる「炎上」する状況が続いています。

もちろん、国軍側には正当性は一切ありません。昨年のクーデターは余りにも愚かでした。国軍の発砲で家族の命を失った人達を含め、抵抗勢力側が、国軍との一切の話し合いを拒否する気持ちは重々良く判ります。しかし、例は悪いかもしれませんが、自分の子供を誘拐した犯人から身代金要求の電話があった時に、「お前がやっていることは極悪犯罪だ。身代金は一切払わない。今すぐ人質を解放しろ!」と叫んで電話を切る親がいるでしょうか?人質をとって立て籠っている銀行強盗に対して、もし警察が「悪いのはお前だ!今すぐ武器を捨てて出てこい!」と繰り返すだけで、強盗側の要求には一切耳を貸さないとしたら、家族が人質になっている人はそれを支持できるでしょうか?私は、以前の投稿で申した通りミャンマーとの歴史的友好関係を維持してきた日本の政府こそ、両者の話し合いを実現するために積極的に動いて貰いたい、と心から願っています。

久し振りの投稿なのに、随分と暗い話になってしまいましたが、今ミャンマーについて語るとすれば仕方ないでしょうね。もう一日も早い平和を祈るばかりです。

なお、日本の一部のマスコミの報道だけを読んで、まるでミャンマー全土で戦闘やテロ行為が行われているかのように誤解される方々もおられるかも知れませんが、決してそうではありません。国境周辺等、もともと1948年の独立後、少数民族武装勢力と国軍との戦闘が続いてきた地域は今でも同様なのですが、少なくとも都市部での治安はクーデター以前と同様のレベルで保たれています。現地の日系企業の殆どは、クーデター以前とほぼ変わりなく活動を続けています。在留邦人は、コロナ以前の約5千人から、今は約1千人に減少していますが、これはコロナさえ収束すれば、次第に回復していくでしょう。もちろん例外はあり、例えば、国軍系企業との合弁でトップシェアでビールを生産してきた日本の某ビール会社は、撤退を決めましたが、私はその決断はやむを得ないと思いますが、詳細は控えておきます。私個人としては、そのビールのあっさりした味が大好きで、その会社の協力無しで国軍系企業があの美味しいビールを生産し続けられるとは思えず、とても残念ですが。

それでは、現地の事情が大きく好転するか、そうでなければ今年の年末くらいを目途に、改めて投稿させて頂きたいと思います。

最後になりましたが、上の写真は、北部マンダレー近郊の「ピンウールウィン」という避暑地の植物園で育った、桜の木です。戦時中に日本人が植えたものと推察されます。今回の話題に相応しい写真が見当たらず、間に合わせのようで恐縮ですが、またこれを観に行きたいです。

 

 

 

 

 

 

第十三回 来日ミャンマー人憧れの地とは

   先月、1年半ぶりに投稿を再開しましたが、それは、いつかミャンマーを訪れて頂きたい、そのために面白いお話をご紹介してまずは関心を持って頂きたい、という思いからでした。しかしながら、その後の新型コロナウィルスの感染拡大で、患者さんや亡くなられる方々も急増し、様々な行事も中止になっている状況下、そういう呑気な文章を作成している場合ではないなあ、と思うようになりました。よって、再開して僅か2回目なのに身勝手で恐縮ですが、今回の後、現在の騒ぎが落ち着いて、六稜関係の集まりも再開できるようになるまで、再び、お休みさせて頂きたいと思います。

そうは申しても、そういう暗いご挨拶だけでは折角読み始めて頂いた方々に失礼ですので、ビジネスにしろ観光にしろ、来日したミャンマー人が最も訪問したがるところについてのお話を致しましょう。まあ、この写真をご覧頂ければ一目瞭然なのですが、それは、高徳院阿弥陀如来坐像、つまり鎌倉の大仏様で、もう圧倒的人気、正に憧れの対象です。今年の1月に、私が商社の駐在員であった頃に一緒に頑張ってくれたミャンマー人男性が、研修で東京に来た際に、一緒に訪れた時の写真です。彼が右側で、左は、同様にミャンマーで一緒に働いて、今は日本人と結婚して東京で暮らしているミャンマー人女性です。

大仏なら奈良の方が大きいぞ、と言いたくなるところですが。短期間の旅行者にとって、奈良まで足を延ばすのは難しいという事情もあるでしょうが、日本在住のミャンマー人の人達も奈良の大仏は余り知らないみたいです。それと、ミャンマーでは殆どの仏像がレンガや石造りの大きなパゴダや寺院の中に安置されているので、鎌倉の大仏様が雨晒になりながら頑張っておられるお姿を見て、とても感動するようです。 牛久の大仏も一時期多くのミャンマー人が訪れたみたいですが、最近は人気が無いみたいですね。実は、ああいう雰囲気のコンクリート造りの超特大の仏像は、現代になってからですが、ミャンマーにもいくつか出来ています。
大きいと言えば、私は、高崎観音様の優しいお姿にかなり感服しているのですが、実は、ミャンマーの上座部仏教においては、教義上、お釈迦様以外の仏様というのは存在しないので、高崎観音様を見ても仏様だと感じないのです。それを言うなら、鎌倉の大仏だって、お釈迦様(釈迦如来)ではなくて阿弥陀如来じゃあないか!?というお話になるのですが、お姿はお釈迦様と特に変わりませんし、ミャンマー人は大乗仏教のことを殆ど知らないので、そんなことは追及しません。高徳院では、千円くらいから、ごく小さな仏像を買えますが、これも人気です。

それでは、誠に勝手な物言いながら、一日も早く新型コロナ騒ぎが落ち着いて、再び投稿再開できる日が遠くないことを祈っております。

第十二回 再開のご挨拶 x ミャンマーのスマホ普及と送金利用

我が愛する国、第二の故郷ミャンマーについて、一昨年の6月から9月までに計11回の投稿をさせて頂き、沢山の方々から有難いご感想も頂いていたのですが、息切れして、1年半も中断していました。面目ありません。その後、二度現地に行く機会があり、色々な変化を見てきました。昨年の6月には、東京六稜倶楽部で「もっと幸せに生きるヒントをミャンマーから学ぼう」と題して、お話させて頂きました。また、あるNPO経由の仕事で、三つの大学で学生達にミャンマーの魅力を語る機会も貰い、ミャンマーという国が若者には殆ど知られていないのだな、ということを痛感しました。そういった中で、新たに感じたことも多々ありますので、突然ですが、今度はスローペースで、投稿を再開させて頂きたいと思います。六稜同窓会の幅広い世代の皆様に、ミャンマーについて少しでも興味を持って頂いて、その中から、「面白そうだから、一度行ってみようかな」と思って下さる方々が沢山でてこられることを、心から願っております。

さて前回(第十三回)は「ミャンマーと日本との繋がり(4)泰緬鉄道とインパール作戦」、つまり戦時中のお話でしたので、本来であれば、戦後の日本とミャンマーの関係についてご説明するべきなのでしょうが、今回はその主題は休憩して、掲題のお話をしたいと思います。

実は、まだ年間の一人当たり国民所得が千ドル強というミャンマーで、固定電話の普及率はいまだ僅か1%程度なのですが、携帯電話は、今や、国民の人口と同じ数くらいが使用され、つまり単純計算では10割の普及率に達していて、しかもその大半はスマホです。電化されていない、つまり自家発電機がないとテレビも見られない地方の農村でも、スマホが使われています。その直接のきっかけは、2013年、ミャンマー政府の英断で通信事業への外国企業参入権利の入札を行い、ノルウェーとカタールの会社が落札して、やがて営業を開始したこと、そして、長年通信事業を独占していた国営の郵便電話公社に、日本の通信会社と総合商社が協力して、その三者で激しい競争を始めたからなのですが、ほんの5,6年前は1割を切る普及率で、あくまでお金持ちや官庁・企業の幹部のためのものでした。固定電話が普及していれば、このような速度でスマホが出回ることもなかったでしょう。この余りにも急速な普及は、今、世界から、「開発途上国が、正しい選択と適切な方法を使えば、先進国が過去に行ってきた過程の多くをすっ飛ばして、遥かに早いスピードで最新技術を獲得・普及し、経済発展に結びつけることができる」ということ(これを、経済用語で「リープ・フロッグ(蛙跳び)」といいます)の最高の実例として注目されているのです。もちろん、なんでも外資を導入して競争させれば上手くいく、などとは申しませんが、これから、他の面でも同様の「蛙跳び」が起きることが、大いに期待されます。

一旦話が逸れますが。ミャンマーでは、両親をとことん敬い、家族を極めて大切にしますので、特に親を田舎に残して若者が都会に出るということ自体が想像し難かったのですが、21世紀になって、農業の急速な機械化と、都会での労働集約型製造業(縫製業等)の成長により、若者や壮年男性が、両親や妻や子供を農村に残して都会に出稼ぎにくることが増えています。今の日本では、子供が地方にいる両親に仕送りするというケースは、率的にはごく少ないでしょうが、ミャンマーではごく自然なことです。一方で、農村には銀行など殆ど無いですから、銀行口座を持つ人の率全国zベースでせいぜい3割程度、田舎では1割未満です。よって家族への送金は、現金を、専門の業者経由で、長距離バスの運転手さんに預ける等、とても不便で、もちろんトラブルもありました。しかし今は、スマホを利用して簡単に送金できるようになっているのです。(人口5千万人強の国で、そういった送金が既に年間2千万件くらい行われているようです。)大都市の送金サービスの受付のお店に現金を持参し、田舎のお父さんのスマホの番号をインプットすれば、お父さんが、いわゆる「よろず屋」のようなお店で即刻現金を受け取れるという仕組みで、だからこそ、田舎の親もスマホを持つ訳ですね。

そして、そのスマホによる送金サービスの普及の影響もあって、都会の大きなスーパーマーケットから、小さな「よろず屋」的なお店まで、スマホによるキャッシュレス決済の可能なお店が増えています。聞くところによると、中国はキャッシュレス決済比率が6割を超えているものの、日本とドイツはまだ2割程度で、他の先進国と比べても圧倒的に低いレベルに留まっている由ですが。日本がミャンマーに追い越される日も近いかもしれません。

それでは次回は、再び日本とミャンマーとの繋がりのお話に戻りましょう。

 

 

第十一回 ミャンマーと日本との繋がり (4)泰緬鉄道とインパール作戦

 今回は、太平洋戦争のビルマ戦線における、悪名高い、二つの大きな惨劇について、申し述べます。

一つは、日本軍鉄道隊が1942年6月から1年4か月の突貫工事にて、タイ(泰)とミャンマー(当時のビルマ:緬)の国境地帯415キロにわたって建設した、「死の」泰緬鉄道です。左の写真は、吉川利治著「泰緬鉄道」(雄山閣発行)という、私が読んだ同鉄道関係の本の中で最も詳しく、比較的公平かつ冷静な観点で書かれた書籍の、表紙です。(なお、この鉄道は、現在では、タイ側の約130キロのみが残っています。)

当時既に、海上輸送でビルマに物資と兵員を安全に補給することが困難になっていた為の、日本軍としては止むを得ない建設だった訳ですが、約6万2千人の連合軍捕虜と、ビルマ人10万人を含む東南アジアからの強制労働者約20万人が、極めて過酷かつ危険な労働を強いられて、1万2千人の捕虜と、少なくとも4万人以上(10万人以上との説も)の東南アジア人(その内ビルマ人が約3万人以上)が死亡した(一方、日本人の犠牲者は1千人程度)と伝えられています。当然、連合国側に深い恨みを抱かせましたし、1957年公開のイギリス映画「戦場にかける橋」によって、戦後生まれの欧米人達にまでも広く知られることとなりました。

もう一つの悲劇は、1944年3月から4か月間にわたって行われ、長年、無謀な作戦の代表例と伝えられてきた「インパール作戦」です。昨2017年8月にNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」が放送されて、大きな反響を呼びましたし、今年7月には岩波書店からNHKの取材班による同名の書籍が出版されましたので、目にされた方々もおられるでしょう。前回申しました「援蒋ルート」を完全に遮断し、かつ、太平洋戦争全体としての不利な局面を打開することを目的とし、そして、インドのイギリスからの独立を助ける、という「大義」をも掲げて、インド北東部のインパールの占領を図る作戦でした。(1943年10月、インドの独立運動家チャンドラ・ボースが、それまでに日本軍に帰順していたインド人兵士を中心に「インド国民軍」を結成、日本占領下のシンガポールで「自由インド仮政府」の樹立を宣言し、米英に宣戦布告していました。)しかしこの作戦は徹底的に失敗。作戦に参加した将兵約9万人の内、3万人が死亡。しかも、その6割程度が、戦闘ではなく、飢餓や疫病等で亡くなった、と伝えられています。

ビルマの中央部平野からインパールに行く為には、チンドウィンという大河と、険しいアラカン山脈という悪路を越えることになります。その為、武器や弾薬の殆どを兵士が背負っていかねばならず、食糧は僅か3週間分しか携行できませんでした。物資を運搬させ、後に食糧とする為に連れていった牛も、大河で溺れたり山道で転落したりで、戦場には殆ど到達できませんでした。ミャンマーでは(タイ・カンボジア、ベトナム南部も同様ですが)5月の後半に雨季が始まり、時として滝のように降ります。3週間の内に、つまり雨季になる前に成功させ、その先の食料はインド側の占領地で調達という心づもりだったのが、物資豊富な英軍の猛攻に阻まれ、食糧が途絶えた中で、4か月間も奮戦の後、作戦中止。飢餓に苦しめられながら奮戦の後、大雨降る中を撤退していった道は、後に「白骨街道」と呼ばれることとなりました。

太平洋戦争中、日本からビルマに、32万人もの将兵が送り込まれて、その内、日本に戻れたのは、僅か13万人でした。現在でも、亡くなられた方々の遺骨収集の努力が続けられています。もちろんビルマの人々も、英国軍の空襲による施設破壊や、日本兵による家畜の徴発、労働力の徴用等により、食糧生産力の激減に苦しめられました。それにも拘らず、前回少し触れましたが、独立翌年の1949年には7万トンの、1950年には17万トンの米を、日本に優先的に輸出してくれました。その後も、日本とビルマ/ミャンマーは、一度も大きな外交問題を起こすことなく、しっかりと友好関係を深めてきています。日本が、外交上の様々な問題に直面している今、皆様にも、このミャンマーという国と日本との深い繋がりをしっかりとご理解頂き、まずは、この国に更なるご興味を抱いて頂きたいと思う次第です。

 

第十回 ミャンマーと日本との繋がり (3) ビルマ占領

 突然ですが、左の写真は、ミャンマーの民族服であるロンジー(腰巻)とシャツ、上着(タイポン)を着ている私です。(背景は、私が最後の駐在中の2015年に勤務していた首都ネピドーのオフィスです。)正に暑いミャンマーの気候に適した服装で、素足に草履で、このロンジーを穿いていると、意外に涼しく感じます。日本人がこの服装をしていると、客先や官庁のミャンマー人の方々が、それだけで、とても喜んで下さるということもあり、私は日常、こういう姿をしていました。

さて、今回から暫らくは、太平洋戦争の前後を含めた1940年代の、ミャンマーと日本の深い繋がりについてお話します。

ミャンマー(当時の英領ビルマ)は、日本軍にとって、戦略上、極めて重要な場所でした。蒋介石率いる中国との泥沼の戦いを打開していくためには、連合軍がビルマ北部を通じて中国に援助物資を続々と運び入れている、いわゆる「援蒋ルート」を遮断することが必須でした。日本軍は1941年12月末にビルマ侵攻を開始。その準備の一環として、ビルマ独立運動のリーダーであったアウン・サン(現政権の事実上のトップであるアウン・サン・スー・チー女史の実父)を筆頭とした「30人の志士」を占領中の海南島で訓練し、彼等がビルマ独立軍を設立して、日本軍と共に戦ってイギリス軍を追い出し、それが現在のミャンマー国軍に繋がっています。その証拠に、ミャンマー国軍では、今でも、「軍艦マーチ」が頻繁に演奏されているのです。

後に、日本軍の敗戦が決定的となり、タイ国境に向けて逃走していく最中の1945年3月27日、その独立軍は、対イギリスとの関係上いわばぎりぎりのタイミングで日本軍に反旗を翻しましたが、一方で、多くのビルマ人達が、敗走中に倒れた日本兵士達を匿ってくれました。その3月27日が、現在のミャンマーで「国軍記念日」の祝日とされていて、ミャンマーの歴史の教科書にも、侵略者「ファシスト日本」と書かれていることは事実ですが、それは仕方の無いことでしょう。実際には、その後の様々な不幸な出来事を知りながらも、上述のビルマ独立軍誕生の経緯が、日本とビルマ(ミャンマー)の繋がり・友好の始まりとして、ミャンマーの人達に長く記憶され、現在の極めて親日的な国民性に繋がってきているのです。

その親日性が発揮された例として、まず、1948年の独立直後から、食糧不足に苦しむ日本の米の買い付けに好意的に応じ、また、1952年に始まった戦後賠償の交渉においては、真っ先に妥結して、その後の他国との賠償交渉上「低め」の相場を作ってくれました。1962年以降、「ビルマ式社会主義」を掲げて、かなり鎖国的な外交・経済政策を進めてきた時期においても、日本に対しては決して外交を閉ざさず、そして、日本が急速に発展しビルマが貧困化していった時期においては、日本からのODAを常に積極的に受け入れてきたのです。

次回は、戦争中のことに話を戻して、ご説明します。

 

 

 

第九回 ミャンマーと日本との繋がり (2)蒙古襲来

今回の写真は、現在のミャンマーの国土の大半を支配したという意味での最初の王朝であるパガン王国(1044~1287年)が残した、仏塔遺跡群です。この遺跡は、2015年に、NHKスペシャル「アジア巨大遺跡」にて詳細に紹介されましたが、王侯貴族だけではなく、民衆も含めて財を投げ打って建造したパゴダ(仏塔)が、現在でも約3千も残っています。そして、10年間に亘る激戦の後に、遂にこのパガン王朝を滅ぼしたのが、元のフビライハンが派遣した軍隊でした。

私は、2007~2008年にも、当時駐在していたベトナムのホーチミンから、「ホーチミンの街角から」と題して、この六稜ワールドアイに投稿しており、その中で、元の10万人の大軍を三度撃退したチャン・フン・ダオ将軍のお話をしました。その中で、「もし将軍が途中で負けていたら、元軍は、(文永・弘安の役だけでなく)もう一度日本にやってきて、ついに日本を占領していたかもしれない。そういう意味で、我々日本人は、ベトナムに感謝しなくてはならない」という趣旨のことを申しました。そして実は、それとほぼ同じことが、このパガン王国についても言えるのです。1277年、最初に元軍が攻め込んできた際から、1287年に、遂に都であるパガンを陥落させられるまで、足掛け10年に亘り、パガン軍は、象に乗って大いに奮戦しました。(なお、最後に折角征服した元の軍隊は、パガン地域の余りの暑さに音を上げて、占領軍を駐留させることなく、中国に戻っていってしまうのですが。)いずれにせよ、フビライハンは、亡くなる直前まで日本に対して怒り心頭であった由ですから、もしパガンの場合が、10年持ちこたえずに、もっとあっさり滅ぼされていたら、元軍が、作戦を練り直して(例えば、台風の無い時期を選んで)もう一度日本にやってきた可能性は大いにあったのです。

ベトナムでは、米国とのベトナム戦争の生々しい経験からでしょうが、今、かなり若い人達でも、「ベトナム人は世界一戦争に強い」という誇りを抱いていたりしますが、ミャンマーでは、イギリスに植民地にされたトラウマが消えていないので、そういう意識はありません。とはいえ、ミャンマーとタイは歴史上20回以上交戦して、ミャンマー人は「一度も負けていない」と理解していますし、現に、かのアユタヤ王朝を滅ぼしたのはミャンマーです。(逆にタイ側では、16世紀に、病気の夫に代わって象に乗ってミャンマー軍と奮戦し戦死した、アユタヤ朝のスリヨータイ王妃が、国民の「悲劇のヒロイン」として、今も大人気。つまり、ミャンマーが敵役です。)そして、1765~1769年においては、清の歴史の中でも最強と謳われた乾隆帝の派遣した軍隊を、撃退し続けています。ミャンマー人との雑談の中で、その辺りのことを讃えると、結構喜んで貰えます。

次回は、太平洋戦争における日本とミャンマーの関わりについて、申し述べます。

 

 

 

 

第八回 ミャンマーと日本との繋がり (1)言葉の類似性

それでは、今回から、ミャンマーと日本の様々面での繋がり(歴史上の深い関係や、国民性の類似点等)について、少しずつご説明してまいります。まずは、言葉の類似性です。

左の写真が、見難いかもしれませんが、ミャンマー文字です。左側の表の33個の文字は、夫々、特定の子音(最終行右端の文字は母音)を表しています。例えば1行目の左端の文字は、それだけだと「カ」と発音しますが、右側の手書きの通り、それに小さな記号を加えることによって「キ」、「ク」、「ケ」、「コ」になります。(高平、低平、下降の3通りの声調があるのですが、ここではその説明は省略します。)こういった文字の仕組みは、南インド起源で、現在、ミャンマー・タイ・ラオス・カンボジアの4か国(つまりは、上座部仏教の国ぐに)で使われています。

しかし、文法においては、ミャンマー語は、タイ・ラオス・カンボジアの言葉とは大いに異なっており、実は、特に語順と、助詞が重要な機能を持つことにおいて、日本語にとても良く似ています。英語では I  love  you.という文の語順を換える余地はありませんが、日本語では、「私はあなたを愛する」と「あなたを私が愛する」のどちらでも意味が通じますね。ミャンマー語も同じです。もっと大きな類似点は、英語で言えばNOTに相当する、否定を示す語が、文の最後近くになって現れる(つまり、何かをするのか、しないのかは、文の終盤にならないと判らないことが多い)ということです。

そして、重要なことは、ミャンマー人の場合、ともすれば、言い難いことは、はっきりと言わずに済ませようとするのです。例えば、「風邪でつらいので、早退したい」の内、前半の「風邪で辛い」の部分しか言わない。(この傾向は、ミャンマー人が英語で外国人と会話する時にも、明確に現れます。)第一回で、「とにかく断るということが苦手な人達なので」と申しましたのをご記憶でしょうか。要は、言わなくても察して欲しい人達なのです。我々日本人にも、ある程度そういうところがあるなあ、と思って頂ける方々も多いでしょう。だからこそ、日本人は、そういったミャンマー人の心情、ひいては国民性を、比較的早く理解できる訳です。

敢えて申しますと、大半のミャンマー人は、言い難いことを言わずに済ませようとする時にも、微笑みを絶やしません。日本人は、それを、「笑ってごまかそうとしている」と受け取り、表情が険しくなり、そのミャンマー人が益々本音を言えなくしてしまいがちです。或いは、往々にして、「自分の依頼を快く了解してくれたのだな」と、誤解してしまいます。

以前にも申しました通り、ミャンマーの人達は、もともとNoと言うのが苦手です。彼等が、上述の通り、重要なことでも、なるべくなら明確に言わずに済ませようとするミャンマー語で話す内容を、ミャンマー人の通訳に直接日本語に訳して貰うのを聞いているだけでは、相手の真意を誤解してしまいがちです。これは、ミャンマー在住期間の長い人達の中でも意見の分かれるところですが、私は、ミャンマー人と重要かつ複雑な「交渉事」を行う際は、直接英語で会話するべきである、という信念を持っています。外国人との交渉の当事者となるようなミャンマー人は、高校・大学で大半の教科を、英語の教科書を使って勉強してきていますので、たとえ英語を話すことは苦手でも、聞き取ることと読むことは、ほぼ大丈夫です。ミャンマーの場合、国際的な契約を英語で行うことが常識になっていますので、その為の交渉も英語で行うのが、むしろ自然なことなのです。日本側の交渉当事者が英語が苦手な場合でも、日本人のミャンマー語の達人に日本語をミャンマー語に訳して貰うよりは、英語の達人に英語に訳して貰うことの方をお薦めします。くどいようですが、「交渉事」に、ミャンマー人の通訳を起用してはならない、というのが私の考えです。

次回は、ミャンマーと日本の、歴史上の深い繋がりについて、ご説明しましょう。

 

 

 

 

第七回 長幼の序

今回の写真も、前回と同様、ポプラ社の「世界の国ぐに20 ミャンマー」から抜き出したもので、ミャンマーの小学生達です。素晴らしい笑顔でしょう。南国ですので、全体として肌の色が日本よりも濃いですが、顔つきは、日本人と良く似ている人が多いです。頬っぺたにぬっているのは、「タナッカー」と言って、ある柑橘類の木を削って粉にしたもので、おしゃれの一種ですが、肌を守り、ひんやり感じるようです。

さて。私が実際に二度体験したことですが。ミャンマーでは、今でも、お年寄りの運転手が、交通ルールの違反で、若い警官につかまっても、大抵の場合、「気をつけて下さいね」の一言で済んでしまうようです。今回は、何故そうなるのかについて、ご説明します。

日本では、会話している相手への敬称として、普通、改まった状況では「様」を、普通の状況で敬意を表すべき人や、自分より若くても女性には「さん」を、自分より年下で立場も下の男性には「君」をつけますね。親しい友人同士や、職場の仲間で気の置けない人には、敬称をつけずに呼び捨てすることも多いですし、かえって、そうしないと、なにかよそよそしい感じを与えてしまうこともあります。また、例えば、オーナー企業の社長さんが、年上の専務さん(いわゆる、番頭さん)を、敬称をつけずに呼ぶことがあっても、そう嫌な感じはしないでしょう。

ミャンマーでは、敬称無しで人の名前を呼ぶということは、まずあり得ません。男性相手であれば、自分より立場が上か、或いは、立場がかなり下でも1歳でも年上の人に対しては、敬称として、U(ウ)をつけます。例えば。私がミャンマー駐在時代に最もよく通った客先は、ミャンマー国鉄だったのですが、陸軍大佐から天下りした50歳の国鉄総裁が、現場で油塗れになって作業をしている人に声をかける時でも、自分より年上かもしれないと判断すれば、必ず相手の名前の前に「ウ」を付けます。立場が下で、年齢も下の男性に対しては、名前に「KO(コ)」をつけて呼びます。(なお、親が子を呼ぶ場合、或いは、親しくて、かつ、親子ほど年が離れている場合には、「MAUNG(マウン)」を付けて呼ぶこともあります。「○○太郎ちゃん」といった感じです。)

女性相手の場合は、年上か立場が上(立場が上の人の奥さんも含めて)であれば「DAW(ド)」、立場が下で、年齢も下なら「MA(マ)」を付けて呼びます。女性の場合、「若く見られたい」という思いから、「ド」を付けられるのを嫌がる人が時々いますが、呼びかける方としては、年齢が判らなければやはり「ド」をつけておくのが無難。例えば、子供の(或いは、孫の)通っている小学校の先生なら、いくら若くても、敬意を表して「ド」を付けます。

これらは、ミャンマーの社会で最も重要な礼儀であり、これが出来ない人は、とても軽蔑されます。(30年前は、外国人は、このルールを破っても許される雰囲気でしたが、今はそうではなくなってきました。もし将来ミャンマーにいらっしゃることがあったら、重々ご注意下さい。)

そういった事情から、ミャンマーの人達は、自分の周りの人達、特に自分との年齢差が少なそうな人達の年を正確に知ろうとします。第三回で、「積極的に人を幸せな気分にするように努力する」というお話をしましたが、自分より年上の人に対しては、そういった気持ちが更に強まる訳で、例えば職場で、年長の先輩からのアドバイスは、内心では従うつもりがなくても、その場では丁寧に感謝します。まして、お年寄りが相手だと、理由はどうあれ、その人を困らせるようなことは絶対したくない、と思っていますので、冒頭の、お年寄りの運転手のようなことになる訳です。当然のことながら、バスや鉄道の客車の中で、お年寄りが立っていることは滅多に無いですし、街中を歩いていても、お年寄りに敬意払われていることを度々実感できます。働けなくなったけれども、面倒を見てくれる子供も親戚もいないお年寄りは、お寺で面倒を見てくれます。(縁もゆかりもないお年寄りでさえ、大切にするのですから、前回ご説明しましたように、自分の両親をこよなく敬うのは、当然ですね。)お年寄り達も、自分なりにお釈迦様の教えに従ってきた人生を振り返り、来世にまた人間に生まれ変われることを信じていますから、寺院や仏塔でお祈りしている姿が、本当に安らかです。

それでは、次回からは、このミャンマーと日本の、歴史上の深い繋がりと親和性について、一つひとつご説明してまいります。

 

 

 

 

第六回 両親への敬慕

前回の最後に、「次回は敬老精神について」と申しましたが、まずは、その中でも最重要の、両親への敬慕について、ご説明します。この写真は、少女が、就寝前に、両親を拝んでいるところです。ポプラ社の「体験取材!世界の国ぐに20 ミャンマー」からの抜粋ですが、私自身、ミャンマー人の自宅に夕食に招かれた際に、このような光景を2度目撃しており、正に厳粛な雰囲気で行われていたのを、良く覚えています。子供達は、本当に、心から両親を敬い、慕っています。

親による子供の躾が日本と比べて特に厳しいというようなことはなく、むしろ親はいつもニコニコしていています。それが可能な家庭では子供の教育に惜しげなくお金をつぎ込みますが、とはいえ、「教育ママ」的なこと、つまりは、遊び盛りの子供が嫌々勉強させられるといったことも極めて少ないようです。第一回でご紹介した、ミャンマー人男性が家族と夕食を共にすることを重視する等の様子からも、とても家庭的で子供を愛する人達であることが判ります。しかし、何らかの理由で、一旦、親が子を叱り始めると、子はあっと言う間に、素直に親の言うことに従います。それは、大人になっても変わりません。私が仕事上知り合った様々な人達と雑談していた際にも、それを度々窺い知ることが出来ました。

(出家や国軍入隊は別として)子が結婚前に親と別居することは殆ど考えられません。子が選んだ結婚相手に対して親が反対することは、現代では殆ど無いようですが、とはいえ、いわゆる「最終決定権」は、いまだに親にあります。そして、結婚しても、子の中の誰か一人が同居、或いは同じ敷地内に住んで、親の老後の面倒を見るのが、ミャンマー人社会における常識です。

前回までに申した通り、ミャンマー人の名前には名字(family name)が無くて、「家系」という発想も無く、息子が引き継いでいくべき仏壇も位牌もお墓も無いですし、財産分与も、分けられるものについては、男女・長幼の差別をしないのが大原則です。例えば農家において、土地や牛を分割してしまったら、夫々の規模が小さ過ぎてやっていけない場合は、長男が相続するのが慣例ですが、そういう場合、土地相続者が両親の面倒を見ます。しかし、財産分割にそのような不公平が無い場合は、誰が両親と同居するかについてのルールはなく、たまたま都合が良い子供が同居する、というふうに決まります。

義理の父母との関係も、普通日本で一般的と理解されているようなレベルよりも遥かに親密度が高く。私の友人の一人はミャンマー人女性と結婚して、19年間ミャンマーで働き続けているのですが、10年ほど前に、愛媛県で一人暮らしをしている、彼の母上が病気になった時に、そのミャンマー人の奥さんが、夫と二人の小さな子供をミャンマーに残して、半年間愛媛県で、義母の看病をされていました。夫と子供が、彼女の実家の隣に住んでいるから可能であったにしろ、そういったことをさして美談とも思わないのが、ミャンマーの人達なのです。(ミャンマーにおける夫婦の間の力関係については、一言で申すと、妻の力が実に強いのですが、これについては、別途じっくりご説明します。)

この両親への強い尊敬の念は、ミャンマー文化の歴史的伝統であり、前回までご説明した上座部仏教の教えとは、直接の関係はない、と言われています。上座部仏教においては、出家者は当然家族との縁を切りますし、在家についても、特に「親を敬え」といった教えは見受けられません。大乗仏教には、「父母恩重教」という、父母への報恩を強調するお経がありますが、これは、儒教の教えを踏まえて、中国で新たに作られたものです。とはいえ、第三回で申した通り、上座部仏教の説く輪廻転生に基づき「自分の周りの人達を悲しませることは大きな罪である」と固く信じている訳ですから、周りの人達の中でも最も身近である両親のことを大切にすることも、上座部仏教の影響だと言えるかもしれません。

結局今回も理屈っぽくなってしまい、すみません。次回は、ミャンマーの人達が、周りの人達の年齢を常に意識して、一歳でも上の人は年長者として重々敬うということ、ましてお年寄りに対する敬老精神は著しいことを、ご説明します。

 

第五回 上座部仏教 (4) 日本の仏教との比較

 今回も、ミャンマーの上座部仏教についてですが。第二回から第四回まで、かなり理屈っぽいお話が続きましたので、今回は、日本の仏教との大きな違いを、別の角度から、私が実際にミャンマーで経験した、具体的な行事を例に挙げながら、ご説明します。

この写真は、後ほどご説明しますが、11月の満月の祝日に、私が職場の仲間のミャンマー人の人達と一緒に、事務所の近くのお寺に寄付したものです。判り難いですが、左側の三角形は、板にお札を張り付けたもので、右側は食料品です。

さて、ミャンマーでも、キリスト教徒の人達は土葬していますが、仏教徒、特に都会では、殆どが火葬です。日本との大きな違いは、お骨を拾うということが無く、焼いたらそのまま、つまり、灰が風に吹かれて飛んでいくままにすることです。ミャンマーでは、例えば父親が亡くなった時、その父親は生前十分に善行を積んでいたので、お葬式の頃には、もうどこかの幸せな家庭の赤ちゃんとしてオギャーと生まれ変わっている、と信じていますので、遺骨と灰には、特段の思いは抱かないのです。日本のような、四十九日の間、閻魔大王達に生前の行いを裁かれている、というような考えもありませんし、大王の「浄頗梨(じょうはり)の鏡」に生前の悪事が映しだされてしまい、地獄に落ちることになった人を助けるためにお祈りする、ということもありません。大抵の家庭に仏壇はありますが、それはお釈迦様に対してお祈りする為のものであり、亡くなった方々の戒名を記した位牌というものも全くありません。

少し話が逸れるようですが、実は、ミャンマーでは、名字(Family Name)というものが無くて、夫々の人の名前は、全て、両親が考えて決めたGiven Name なのです。(今、日本で最も有名なミャンマー人といえば、現政権の事実上のトップであるアウン・サン・ス―・チー女史でしょう。彼女の父親が、独立の父アウン・サン将軍であることから、「アウン・サン」がFamily Nameであると誤解する方々も多いのですが、実は、アウン・サン将軍が、娘の名前の中に自分の名前を残したいと考えたからに過ぎません。「アウン・サン・ス―・チー」全体が日本人で言えば花子にあたるような名前なのです。)Family Nameが無いということは、代々守り続ける「家」、「家系」という概念が無い訳です。(過去の王朝における王家の血統は例外ですが、ここでは、そのことには立ち入りません。)この影響で、普通のミャンマーの人達は、自分が直接お世話になった祖父・祖母は大いに尊敬し永遠に忘れませんが、それ以前の、自分が会ったことも無い遠い祖先については特段の思いはありません。(従い、女性は、歴史的にも、結婚して夫の「家」に嫁ぐのではないし、結婚しても名前は全く変わりません。)

仏教の話に戻ります。10月の満月の日、ほぼ雨季が終わりに近づいた頃に、「灯明祭り」という仏教の重要な行事(祝日)があり、この時、パゴダ(仏塔)や寺院等に沢山の灯りをともします。

実は、お釈迦様が布教したインド東部の地域と、ミャンマー・タイ・カンボジアの平地の気候は似通っていて、5月終わりくらいから10月くらいまで降水量が多いのですが、お釈迦様は、その間の特に激しい3か月間を「雨安居(うあんご)」と定めて、彼の教団は原則一か所に留まって集団で修行に専念することとしました。外出に不便だというだけでなく、その頃に外を歩き回ると、草木の若芽を踏んだり、地を行く昆虫を踏み潰したりするリスクが高いことが理由であった、と伝えられています。ミャンマーでは、在家の人達も、この期間は、なるべく慎み深い生活を心がけます。

その分、上述の「灯明祭り」は、暦の上での「雨安居」明けの、いわば3か月ぶりの「晴れ晴れした気分」を味わう日です。踊りこそ無いものの、日本人がそのお祭りの様子を見たら、「これは、お盆祭りだろう」と推察するのですが、それは大きな誤り。日本のお盆とは、ご存じの通り、ご先祖様達が家に帰ってくる機会であり、ご先祖様のために灯明を掲げて家に案内するものですが、ミャンマーでは、上述の通りご先祖様はとっくにどこかに生まれ変わっていますので、この祭りにも全く関係ありません。実は、数多くの灯明は、雨安居の間に、天上でお休みになっていたお釈迦様が、地上の様子を見に降りていらっしゃる際に、判り易いように、との目的で掲げているのです。ちなみに、この灯明祭りから一か月の間に、人々は、普段お世話になっているお寺のお坊さん達に、様々なものを寄進します。(伝統的には袈裟が主でしたが、現代では、お坊さん達の生活に必要な様々なものが利用されています。上の写真を参照下さい。)11月の満月も祝日となり、多くの寺院や仏塔が、寄進に訪れた人達で賑わいます。

ミャンマーでは、国民の祝日が、20日前後ありますが(振替休日の制度が無い等いくつかの事情で、年によって少し増減。)日本でいう年末年始にあたる長めのお休みが、ビルマ歴(太陰暦)の正月(西暦の4月の満月の前後)ですが、それ以外にも、3・5・7月と上述の10月・11月の満月が、仏教起源の祝日となっています。それと、在家の人達も、新月と満月、人によっては、その中間日(つまり、8日目と22日目)は、好きな人もお酒を控える等、なるべく慎み深く振る舞います。ミャンマーで売られているカレンダーには、必ず、新月から次の新月での間に番号が振られているのですが、多くの人々は、それを見るまでもなく、今日の月は何日目なのかということを意識しているのです。

次回は、ミャンマーの人達の敬老精神についてご説明しましょう。