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2005年のバックナンバー

混沌の被災地を取材して(下)

炎熱列島からの手紙~ジャカルタ特派員報告【第6話】


▲山間部に向かうには鉄骨の上に木の板を渡しただけの危険な橋も渡らねばならない
(西アチェ県で3月)

アチェ州では国軍が03年5月から独立派武装組織「自由アチェ運動」(GAM)への掃討作戦を展開し、GAMは山林にこもってゲリラ戦で対抗している。 津波後も銃撃戦が続き、数百人の死傷者が出ている。その上、海域には海賊も多発する。
同州での被災地取材で最も気を遣っているのは安全対策だ。

1月6日、私たちは乗用車でメダン市からバンダアチェ市に向かっていた。州境に国軍詰め所があり、検問をしていた。私たちはパスポートや記者証の提示と 賄賂を求められた。当時、本当は陸路での入境も自由だったが、手続きをした助手によると、兵士が「外国人は本来、空路でアチェ州に入るべきだ。考慮を求め る」「直前に通過した外国メディアは10万ルピア(約1200円)払った」などと話し、金銭を要求したという。

軍の横暴に抗議したこともある。2月上旬、バンダアチェ市郊外の国軍詰所前で人を待って停車していると、兵士が運転手にガソリンタンクを開けさせ、 チューブを使ってガソリンを抜き取り始めた。車を降りて抗議すると、兵士は激昂して「こっちへ来い!」と叫び、私を仲間の兵士が集まる場所に連れて行っ た。上官が温厚な人物だったため事なきを得たが、兵士はおそらく民間人に逆らわれた経験がないのであろう。これが人気のない場所だったら、あるいは上官が どう猛な性格の人物だったら、と考え、自分の対応を反省した。
アチェ州で配慮すべ危険には、①交戦に巻き込まれる危険②GAMに襲われる危険③国軍に襲われる危険――がある。


▲地盤沈下で満潮時に海水に浸るようになったバライ島の漁村(4月)

2月下旬に国軍幹部の同行でバンダアチェから直線距離で約30㌔の大アチェ県ローン郡の国軍詰所を通過しようとした時、若い兵士があわてて走り寄って窓 をたたき、幹部の車を止めた。「付近で数時間前に(国軍とGAMの)交戦がありました。敵は逃走中です!」と叫ぶ。周辺にいた数人の兵士は皆、緊張で顔が こわばっていた。GAM約30人と国軍7人が交戦し、国軍兵士1人が負傷したという。先の行程は中止になった。
引き返す途中、別の国軍詰所に張ってあった地図には、GAMの潜伏地域や最近の交戦地点に印が付けられていた。現場付近に限った地図だが、印はいずれも 数箇所あった。 また、GAMは国際世論の支持を必要とするため外国人は襲わないと言われているが、GAM内にもいろんな立場のメンバーがおり、保証はない。

一方、国軍が住民を殺害し、GAMの仕業と公言する事例も従来、多数報告されている。国軍にとって同州での紛争は「大企業からの警備料徴収」「密輸など の違法ビジネスによる収入」「国内唯一の実践場」を確保するために重要だ。そのために自作自演の「危険」を演出する可能性があり、私たちがその犠牲になる 可能性もある。このため、人里少ない場所を取材する際は、国軍幹部に事前に話をつけるか、可能であればその同行を得る努力をした。


▲被災者の暮らすテント村
(大アチェ県ループン郡で5月)

また、3月末の2度目の大地震でニアス島に近いバニャック諸島(アチェ州)を訪問した際は、スマトラ島から漁船で片道12時間かかった。ネズミが走り回 る甲板に雑魚寝し、トイレもないという不便さもさることながら、海賊の出没海域だったため、航海の安全が最大課題となった。出発前に海軍と時間をかけて交 渉し、射撃優秀兵士2名に同行してもらった。

深夜、北スマトラ州シボルガの海軍施設を漁船で出航した。兵士らは当初は警戒に目を凝らしている様子だったが、やがて眠ってしまった。ただ、腕は確か だった。2人の兵士のうち1人は夜が明けると、1・5㍑の空のペットボトルを海に投げ捨て、おもむろにライフル銃の銃口を向けると、3発、連射した。波間 に漂うペットボトルが砕け散った。発砲は私の2㍍横で予告なしに行われ、大いにびっくりした。

同諸島で最も人口の多いバライ島(約3000人)には空港がなく、4月上旬に訪ねるまで、情報がほとんどなかった。当初、死者200~300人との情報 もあったが、現地で取材すると、死者はいないことが分かった。一方、地殻変動による1㍍以上の地盤沈下で約700軒のうち約200軒が浸水し、住民らは内 陸や高台の避難所(テント村)で生活していた。これはそれまで報じられていなかった。私たちはひざまで水につかって浸水した漁村を歩き、取材した。

アチェ州ではへき地に行けばいくほど、より慎重な安全配慮が必要だ。安全確保の準備・手続きに時間も労力もかかる。しかし、無事に被災地に行くことができ れば、それまで知られていなかった被災者の苦しみを外部に伝えることができる。これからもへき地を含む被災地取材を続けたい。


▲震災直後のニアス島の市街地 (グヌンシトリで3月)

▲震災直後のニアス島ではガソリンの販売が
制限され、大勢の人がスタンド前で待った
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