炎熱列島からの手紙~ジャカルタ特派員報告【第1話】
北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさん一家がインドネシアで再会することが2004年7月1日、インドネシアの首都ジャカルタで行われた日朝外相会談で 決まった。会談は、同月2日の東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)閣僚会議に出席のため当地に来ていた白南淳(ペク・ナム・ス ン)・北朝鮮外相と川口順子外相の間で行われ、この段階では再会の日程は固定せず、まずは場所だけを決めた。
場所がインドネシアになったことで、ジャカルタ駐在の邦人記者ら(朝日新聞、共同通信、時事通信、日経新聞、NHK、読売新聞、弊社=毎日新聞など)は 困った。
しかし、記者らの疲労がピークに達していた6月、曽我さんがインドネシアに来る可能性は日に日に高まり、7月1日、とうとう確定した。こうなったら仕方が ない。観念して曽我さん一家再会問題に取り組む決心をした。再会場所がインドネシアに決まった以上、次の報道の焦点は「インドネシアのどこか」「日程はい つか」「再会後、どうするのか」――などだ。 インドネシアでは取材の際の主な言語はインドネシア語だ。だから、各メディアとも現地の記者を助手として雇い、取材の通訳をしてもらうほか、助手が自分へ の情報提供者を政府や議員、捜査当局、国軍などに開拓して情報収集し、特派員に報告する。特派員が自分で取材するケースもあるが、勝負の分かれ目の多くは 助手の情報収集力と特派員から助手への取材指示の的確性だ。 さて、曽我さん一家再会問題の場合、大統領官邸や外務省、治安当局などがインドネシア側の取材先だった。再会場所の提供者としてインドネシア外務省は日 本、北朝鮮の各外務省と常に連絡を取り合ってきた。また、重要事項は官邸に報告される。警察などの治安当局は、例えば、曽我さんや夫のジェンキンスさんが ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に到着してからホテルまでの移送、ホテルでの滞在などに際し、警護を担当するため、やはり事前に情報を知りうる立場 にある。
彼らへの取材でまず明らかになったのは、1日の日朝外相会議で、川口順子外相が「7月11日までにバリ島で」との希望を白南淳外相に伝え、白外相が受諾し ていたことだ。「参院選投開票日の11日までにお願いします」と川口外相がお願いしていたという話だ。参院選で自民党を有利にしようとの思惑だ。これは7 月2日夕刊で報道した。 ところが、意外な抵抗があった。「場所はバリ」と報道してきた従来記事とそぐわないということで他の部(特派員は外信部所属。曽我さん問題はほかに政治部 などが担当)が難色を示し、ベタ記事になってしまったのだ。 しかし、事態は翌朝、一変する。情報の不一致を解消すべく、政府筋、外務省筋に取材攻勢をかけた政治部が「場所はやはりジャカルタ。日程は8日に曽我さん が先に来イ、9日に家族が合流」との大情報をつかんできた。私と助手もジャカルタで裏取り取材をし、「8日、9日」の各日程を確認した。これは5日夕刊1 面トップの特ダネとなった。 その後、日本から大挙して報道陣が押し寄せ、ジャカルタの情景が連日、日本のテレビに映し出されることになった。◆ ◆ ◆ その後、曽我ひとみさんは7月8日に、夫のジェンキンスさんら家族はその翌日に ジャカルタに着き、1年9カ月ぶりの再会を果たした。当初は数カ月から最長1年前 後のインドネシア滞在が予想されたが、ジェンキンスさんの病状が予想以上に悪く、 本人と家族が日本での早期治療を望んだことなどから、同月18日に日本に渡った。イ ンドネシアには家族で10日間滞在しただけで、外務省が想定していたバリなどの観光 地旅行・滞在はなかった。 |