『昭和の遺書』 角川書店 辺見じゅん編
戦争を知らない世代が人工の6割以上を占める様になって久しい。
昭和61年夏、読売新聞と角川書店によって共同企画。 母真理子が応募 900点の中より選ばれた373点。525頁に載っているのが叔父の遺書である。
野村三男 群馬県出身海軍技手。昭和18年4月28日マニラ沖で戦死。30歳。
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母上様
慈愛の温顔を拝すも今日を於いて再びありやとの念切なり。三男三十年の今日在りて些かなりとも祖国のお役に立ち得ると思うと、光栄に感激に胸の震へるを覚えます。
筆紙に尽きせざる母上の苦難、荊棘のご養育のご辛苦、ご恩報じの万分の一も報ぜざりし三男慙愧の至りに耐えず、本日を於いて慈愛の温顔を拝する日なきを思えば。万感胸に迫り、海山の御恩を思い、唯々合掌いたす次第です。唯、建設戦の礎石として命を致したときゝ、皇恩の万分の一に報じたりと思し召し孝養の一端と思ひ下さりませ。三男決して母上の子として愧ちゞざる働きを致します。朝な夕なのご教訓、わけて新田公のおはなし肝に銘じて居ります。祖先の光栄に愧じざる様奮闘いたします。
三男死せなば、良くやった、我に未だ二男有り、と瓜生保の母の如く屹度仰せ下さると信じます。三男亡き後いや長き天寿を祖国の光栄と共に完うされん事を征くに際し祈ります。未だ二兄弟健在なり、賢明にして孝心厚き方々お心強く思し召し、されど多少気にかゝるまり子の佳き生涯の送れる途を考へてやってください。三男内地在住の折は自分が一生共に暮らさんと思ひ籍も入れ、他兄弟以上に思う心切なり(こんな事を言ふと二兄弟に叱られるかも)宜敷くお願い申します。
飯田正熊様に数々の御恩、死すとも三男は忘れじと、そして陰乍らご繁栄を祈って居ったとお伝えしてください。
長兄浩殿
今一度お会いいたしたき念、切なるものがあります。
一枝さん、明代、幸代と和やかな団欒に今宵過ごしてゐられるを想像して、あのお声、あの顔、耳に眼にはっきり残ってゐます。明代も一目見たかったの心強し。野村家一門の重鎮として泰山の如き存在、如何に我々弟妹として心丈夫で在りし事か。安んじて三男は南進いたすことが出来ます。老ひ先短き慈母、幸うすき妹の事、呉れ々もお二人にお願ひ申し上げます。
一、 嫂上様、至らぬ自分に過分の御心尽くし、有り難く征くに当たりしみじみと思ひ出して居ります。幸代、明代共々お健やかに野村家の副将として宜しくお願ひ申し上げます。
一、 愛弟克己
今に及んで何を云はんとするか記さんとするや言葉なし。余りにも私の心克己
のよく知悉する処、言はざるは言ふに優る。征くに臨み唯唯宜敷く頼むの一言に尽きる。されど思い出に記すもよし。
二十余年の交じはり短しと嘆くなかれ。お神酒徳利の如く陰に陽なたに二人在りし事、思ひ出しても見給へよ。シン虫カン虫のあの水車の懐かしき山崎の家、真夏ともなれば雨の日を好んで出掛けし渓川の、今にして思へば如何に小さきぞ。
背丈より大きと思ひし冨中の枳穀の垣根、碁石の野球、如何に巧みなりし人形芝居、自分亡き後しみじみと思ひ出しても見給へよ。
惜しき事一つ、愛弟の妻となる人の定まらなき事、されど賢明純情の克己さん、佳き人の娶あはされん事を思ひます。
共々母への孝養を専一として野村家の繁栄を致されん事を。
自分に関する一切の整理はお願ひする。生保は妹のよりよき生涯をおくれる些かな資にもと思ひます。
軍よりの御下賜金は母上の老後の少しでも安らかなる様と、もう一つのお願ひ。
此の世の縁にしは薄くともよしや形式に結ばれずとも、二世を誓ひしよし子、南海に散る男と心の交渉を持ちし不憫さ。
心の痛手癒え再生の日の一日も早からん事を祈る。生前の兄の相思だった人だと思ひ、自分に替わり親身の努力をお願ひする。
逞しき弟よ
健やかにあれ
昭和十八年 月 日 夜
母、兄弟に宛てた巻紙の遺言状。
「弟は昭和十八年四月二十八日、マニラ沖の鎌倉丸轟沈でセレベス飛行場設営の夢も無残に戦没したんだっけナーと思い浮かべて四十年余りー先年、マニラ沖から弟の冥福を祈願して花束を捧げたこともあるがー身近にこんな昔を偲ぶ遺言状が有ったことは懐かしくもあり悔しくも有り、年月の隔たりに涙の滂沱たるを止め得なかった」と、書いてきたのは、長兄の野村周史(遺言状では浩)さん。
周史さんも、満鉄、牡丹江鉄道局の満蒙開拓に従事していたが、弟の三男さんに一年遅れて召集、移比して九死に一生を得て帰還した。
戦後も四十一年目に、初めて三男さんの遺言状を見たという。三男さんの部下であった奥田壽恵一さんと言う方が、四十年余り、雨の日もかぜの日も毎月二十八日の命日に欠かさず尾つ段位合掌してくれていることも記している。
なお、遺言状にまり子とあるのは遺言状の保管をしている妹の野村一子さん。
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4つ違いの妹は一歳に満たずして、はしかに罹り病死牡丹江の土に。2歳下の妹は引き揚げ途中の無蓋車から転落、錦州の土に。
叔父の戦死で傷心を癒すため渡満してきた祖母に連れられ内地に渡ってきた私。妹たちの事は記憶がないに等しい。今生の別れとも露知らず再見再見とひたすら手を振ったらしい。戦後生まれの兄弟からもう二人姉がいたんだってと問われるぐらいで祖母、両親も亡くなり今は私の胸だけにいる妹たちを忘れないようにと毎年のように牡丹江=ウスリー河(松花江)支流に献花をする。
休日にはいろんな催しがあって賑わう南公園に記念写真のバックになってる13~23歳の8人の乙女たちの像がある。黒竜江省付近の貧しい家の娘たちが共産党に入り抗日活動に従事した。1938年牡丹江を渡っているとき旧日本軍と遭遇最後まで抵抗したといわれる。
身近にいる戦争の犠牲者たち二人の妹や叔父に思いを馳せ乙女の像に合掌した。叔父は私の初節句に京都まで出かけて御殿におわす内裏様、三人官女、五人囃子、御殿の外に左右大臣、三人の下僕(名前が思い出せな~い)そろった立派なものを贈ってくれた。
大阪府土木課柴島出張所勤務。野球が盛んで大会に出場した時の仲間と優勝旗を前にした笑顔が素敵。とうとう写真でしか会えなかった叔父さん。婚約者に“必ず生きて帰る。しかし、もしもの時はある。あなたの幸せを祈ってるよ”と、告げて海軍技(術)手として出征、魚雷に艦は轟沈されかえらぬ人となりました。毎月28日の月命日に必ずあえた丹羽のお姉さん(きれいな方でした)。
ある月から来なくなり不思議に思って祖母に尋ねると“あなたの幸せを祈ってる息子のために”という祖母の説得に負けてとうとう嫁がれたと知りました。冷静でウィットに富む好青年であったらしい三男叔父。USBにとりこんでいつまでも忘れません。
おじさん
あなたがいってしまったから
わたしがいます。
いもうとたち
二人の分も生きてます。
いまのところ
平和ですから。