端午の節句

2013年10月18日

端午の節句=柏餅=粽=3つのお尻  2つ違いの3人の子供たちが幼い頃、「おやつですよ」と、 いくら呼んでも返事がない。子供たちを和室に見つけたときのこと、床の間いっぱいの武者人形や鎧兜の前で剥いた柏餅や粽もどきの皮を元通りにしようと相談中だった。 開けたふすまをそっと閉めて慌ててカメラを取ってきて、3つのお尻を撮った。 こっそり、どきどきが伝わってきて、ニマニマしたのを思い出す。偽物とわかっているけど確かめずにはいられない。だめよ!と言われていることをしてみたかった三人の共犯者は元通りにするためおやつも忘れるほどたんまり時間がかかってしまってとうとうチビが泣き出して発覚。チャンチャン。

 

 

 

中国の端午節は、春秋戦国時代にはじまり2000年の歴史のある習俗で端午の端は開端で初の意、旧暦5月5日は毒日とも呼ばれた。この時季、蚊や蝿などの媒介による発病が多くこれを予防するため薬草を摘み健康を祈願した。

 

 

 

 

 

 

 

特に蓬や菖蒲は邪気を払う力があるとされ菖蒲酒にしたり蓬人形を飾ったりした。中国に於ける最も早期の衛生防疫節であろう。 蓬はキク科の植物で揮発性の芳香によって駆虫、空気清浄に効果があるので家々の軒に吊るして魔よけと健康を祈願する。(灸のもぐさとして利用されることはよく知られている。)  奈良時代に無病息災を願う行事として日本に伝わり、鎌倉時代以降、菖蒲は尚武に通じる、葉の形が刀に似ていることなどから、武士として大切な武芸で名を挙げ(家名を守るべく立派な後継者を育てていくといった社会の願いが反映され 武家の男子のお祝いとして定着していった。

 

 

 

無病息災を願って風呂に菖蒲の葉を入れる菖蒲湯に入り、武芸を尊ぶため兜や鎧、武者人形を飾り、立身出世の象徴として鯉幟を建てる習慣などが加わり、現在に至っている。が、柏餅は日本のオリジナルで、柏の樹は「新芽が出ないと古い葉が落ちない」と言う特徴があり、そこから家が断絶しないという縁起に結び付けて「柏の葉=子孫繁栄」と言うイメージから徳川十代将軍家治の頃、お菓子として登場、こどもの日に欠かせぬ祝い餅となったようだ。 一方 行事とセットで渡来した粽子に付いてまわる故事来歴は: 司馬遷の≪史記≫によれば 楚の貴族出身で王位継承者の一人である屈原は裕福に育ち若くして高位高官につき法律の制定から王の代理として他国の賓客に接見したりまで着実に仕事をこなす秀才且つ詩人である。このように非凡ゆえ凡人である楚王の王子の嫉妬による誹謗中傷と王の寵妃鄭袖の甘言に苛まれた。秦と友好条約を結ぶことにあくまでも反対した屈原は漢北へとばされた。王の死後、王子があとを継いだ。人気も実力も兼ね備えた屈原を恐れるあまり再度遠方へ追いやる命令を下す。屈原は二度と再び戻らなかった。 紀元前278年、楚は秦に敗れた。これを伝え聞いた屈原は自分の理想とする政治理念の実現の可能性を儚んで“寧ろ、魚の餌食になろうとも屈辱に耐えて生きながらえたくない”と、ベキラ河へ石を抱えて入水自殺する。この日5月5日。人々は屈原を偲んで竹筒に米を入れたものを流して霊を弔った。漢代になって屈原の幽霊が現れ“供物はありがたいが手元に届く前に悪霊にとられるので苦手とするレンジュの葉で包み五色の糸で縛ってほしい。”と頼む。これが粽子の始まりといわれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

粽子(ちまき)は米を竹等の葉で包み蒸したりゆでたりすることで植物から出る灰汁が防腐剤の役割を果たす保存食で各地方や民族独特の工夫が凝らされ進化した。 中国保健協会食物栄養と安全委員会は 粽子の大部分の成分は炭水化物でカロリーが高いから食べ過ぎないように。一日の穀物摂取量の3分の一を超さないこと。もち米ばかりでなくアワ、小豆、緑豆、はと麦、山芋、里芋などを加えて繊維質を増やし胃腸の負担を抑え消化を助け栄養の均衡を保つように。また、緑黄色野菜や果物を一緒にとりできれば就寝2~3時間前に食べること。朝やお昼に食べるのが最良だと紹介しているので注意しようと思った。

“こんばんは”とんとん戸を叩く音。 隣人が湯気のたつできたての粽子を持って立っている。しあわせ~~~~。 今夜は1個だけ戴くことにしよう。

1991年歴史学者 朱大可によって反説がとなえられた。いわく 政治闘争による謀殺である。 ①王位継承権をもつ人望厚い屈原の“リベンジ”を恐れ ②太后 鄭袖は屈原の政敵と言われてきたけれど実際は屈原が恋い慕ってきた女性であり 先代の死後 彼女の政治力は失われておらず屈原と手を結ぶ可能性を恐れた。 無能な楚の頃襄王は秦の大将白起に敗れた時、災いの根を早急に絶たんがため一群の刺客を差し向けた。屈原はベキラ河で追手にとらわれ縄で縛った麻袋に入れられ投げ捨てられた。民衆はこれを目の当たりにし怒りを抑えて舟を出し屈原の死体を引き揚げた。今に伝わる賽龍舟(ドラゴンレース)は、」このときの激烈な場面を再現したといわれ、粽の中身の米は肉体を、葉は麻袋を、ぐるぐる縛るのはそのときの縄を象徴するとされる。この謀殺劇こそ 出色の政治家、才気溢れる詩人屈原を葬り去っただけでなく楚の国の命運をも壊滅するに至ったといえる。ベキラ河の近くの山上にある12基の墓は11基は偽物で頃襄王によって壊されることを避けようとしたと言われるが 事ほどさように恐れたのだろう。