76年夏。
仮眠からさめるとパンナム機が傾いて目の下に海が広がっていた。
広大なLA平野に入り、空港が見えてくる、平野を区切ってそれぞれ木立とプールと車寄せの小道を備えた家々もみえる。プールは空を映して青かった。
ホームステイを予定していた家の婦人が空港に迎えに来てくれていた。
初対面のアメリカ人に僕の英語が通じるだろうか、僕の日本人の顔は、もの珍しいだろうか、そんな不安が「ハーイ、マサノブ」高いトーンと暖かいハグで消えていく。僕の手を取ってリンカーンに導き、マリナデルレイの自宅に連れて行ってくれた。ヨットハーバーのウオーターフロントの家だ。そこで夫のロジャーが昼食の支度をして待っていてくれた。
9月の新学期からUCSB(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)のコンピュータサイエンス学科で学ぶのに先立って、英語の研修を受けるため、バークレーに飛んだ。3ヶ月の英語研修、そのあとようやくサンタバーバラの学生用アパートに引っ越して、妻逸美と1歳の娘を迎える準備をはじめた。
家具も車も、卒業した学生から買う。もちろん中古で揃える。ベッドが$8、タンスが50c、車も$400と、格安のようだが壱ドル=360円の時代でしかも、アメリカに持ち込めるのが2000ドルの時代に、僕は留学生、高い学費を払わなくてはならないから、決してぜいたくはゆるされない。
9月はじめに妻と娘が大張り切りでLAにやってきた。
その学生用住宅で出会った美術部の大学院生、Yoshi Ikedaの家族とは、今も交流が続く。陶芸作品を作る彼と、最先端のソフトを作る私とは、なぜが、話があった。私は、彼の、土をこねて、絵を描いて、焼き上げるオブジェに魅惑され、目に見えない想像のソフトを作る私を、新鮮な目で尊敬してくれた。