第2話●
堂島界隈
脇田 修
(62期・大阪大学名誉教授/文学博士)
- 堂島が開けますのは、近世に入ってからです。堂島川に面した土地なので、元禄年間に堂島新地が認められたことによります。徳川幕府は大坂の発展のため に、新地造営を奨励します。曽根崎新地や安治川口新田などがそうです。そして新地の繁栄のために、家役を免除したりしますが、堂島新地にはお茶屋125株 を認め、茶立女・茶汲女という名目で遊女を置かせたのです。幕府は治安管理の上から、遊廓の場所をさだめ、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町などに限り ました。ですから他の場所には遊女はいない建前ですが、新地には別の名目で遊女を置くことを認めたので、近松門左衛門は「新色里」といっています。なお彼 の名作「曽根崎心中」は、梅田新道の近くの露天神社(俗にお初天神)の境内で亡くなったお初・徳兵衛の心中を劇化したものですが、お初は堂島新地の天満屋 の抱え遊女でした。また風呂屋を認め、芝居小屋も二軒許可していました。その後は曽根崎新地と堂島新地は一緒になって発展しています。堂島で忘れることのできないのは、ここに米相場が立ったことです。近世前期では京都と大坂がならび立っていましたが、西廻航路がひらけて、日本海側の物 資が直接に大坂へ送られるようになるとともに、大坂は「天下の台所」といわれました。全国から年間130~40万石の米が入荷して取引きされました。はじ めは淀屋辰五郎で知られた淀屋橋辺で相場がたったといいますが、それが堂島に移りました。堂島川に面して、水運の便に恵まれていたからです。
大坂に、これほど多量の米が入荷したのは、産業都市として経済基盤にすぐれており、また金融業が発達していて、大名が借銀の返済や利息に年貢米を当てた からでした。ここでは延売買といって、現物だけでなく、手形による空米相場も行なわれ、それが全国の米穀取引の基準となりました。享保改革をおこなった八 代将軍徳川吉宗は、領主財政の維持のため、米価操作をおこない米公方といわれましたが、その操作の中心となったのが、この堂島米市場でした。そして近代で も米穀取引所として受け継がれ、旗振り通信で相場を伝えたなどの話を残しています。
さて、堂島付近には各藩の蔵屋敷がおかれ、経済的な事務を取り扱いました。北野中学は旧豊前・中津藩蔵屋敷を修理して移転したのですが、ここは近代の思 想家福沢諭吉が生まれたところとして知られ、現在、生誕の地の碑が建っています。町人の都大坂で生まれ、北浜の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだことが、福沢 の思想形成に意味をもったことは明らかです。そして近代には商工会議所などがあり、近年まで大阪大学医学部付属病院がありました。
Last Update : Oct.23,1997