第4話●
北野
脇田 修
(62期・大阪大学名誉教授/文学博士)
- 校名の元になった地名は、明治35年(1902)4月、堂島から北野に移ったことです。もともと北野というのは、大坂の北部一帯を広くさしており、現在 大阪市北区や大淀区の相当部分がそれにあたります。室町時代の寛正2年(1461)の崇禅寺領目録に北野村が見えますから、早くからの地名であったと思わ れます。崇禅寺というのは、阪急京都線の駅もありますが、当時は大坂北部に多くの所領をもっていた寺院でした。また北野圧という荘園もあり、京都の賀茂神 社の摂社である河合神社が知行していました。近世では大坂三郷の外で、曾根崎村のまだ北になるため、ほとんど民家もなく、三番・下三番・光立寺などの村や梅田三昧と呼ばれた墓地があるだけでした。 溝川の多い湿地帯で、田圃が広がり、春には菜種が咲いていました。今は賑やかになりました茶屋町は、菜種の花見のために鶴の茶屋・萩の茶屋などがあったと ころから、町名がついています。
明治7年に大阪駅ができ、明治22年には新橋ー神戸間が開通するなかで、駅付近は開けはじめ、梅田東小学校のあるところには凌雲閣という九層の遊楽場ま でできました。さらに明治38年には阪神電鉄、明治43年には箕面有馬電鉄(阪急電鉄)が開通し、梅田は大阪の北のターミナルとなりました。そして阪急電 鉄のすぐ西側は民家ができていましたが、さらに西の湿地であった大深町は貨物駅となっていました。ちなみに敗戦時は北野中学二年生でした私たちは勤労動員 で、ここで大豆を袋に詰める作業をしていました。
北野中学があったのは、現在の芝田町2丁目です。阪急電車で梅田を出て十三へ向かうと、中津駅の手前の西側に済生会中津病院が見えますが、ここが北野中 学の旧地です。明治44年の地図で見ますと、北野中学の校地は、寺院をはさんで、阪急電鉄にほぼ接するようにあります。やがて阪神北大阪線ができて、北側 が削り取られ、現在の景観に近くなったようです。
済生会病院は北野中学が十三に移転したのち、その跡地に建てたものです。済生会は明治天皇の下賜金150万円を基にして、貧しい人たちのために医療をお こなう目的でできた財団です。そして大阪紡織物株式会社などを創業した嘉門長蔵・コト夫妻が、私財100万円を財団に寄贈して中津病院を建設したのでし た。院内には、今も夫妻の胸像が立っています。
なお当時の中津には梅花女学校や萩の寺があり、なによりも北野中学出身の天才画家佐伯祐三が生まれた浄土真宗光徳寺がありました。
Last Update : Dec.23,1997