六稜同窓会 副会長
山本次郎
さて六稜同窓会は、会員数30,000人を越える大きな会ですが、皆さんは今日からその六稜同窓会の一員になられました。心から歓迎します。今年の総会にも是非参加して下さい。皆さんは総会参加費無料です。同窓会も最近はインターネットを使った試みもなされ、どんどん新しいものへと変化しています。どうぞ大いに利用していただきたいと考えています。
ここで北野のスピリットなるものを話してくれ…とのことなのですが、祝辞というのは難しい。私は実は弔辞のほうが得意なんです(笑)。北野の名物教師と言われた恩師を、私の弔辞で随分お送りしました。昨年は、選抜甲子園でバッテリーを組んだ名捕手の広瀬繁雄君を送りました。さて今日は…青春の真っ直中におられる諸君にどういう祝辞を送るか。これはなかなか難しい。
私は昭和19年に旧制北野中学に入学して、昭和25年に新制北野高校を卒業しました。落第せずに6年間、在籍したわけです(笑)。いよいよ取り壊すこの校舎…昭和6年に建てられたのですが、私もその年に生まれました。ですから私もそろそろ取り壊される年になったかな、と…(笑)。
北野の6年間で日本の敗戦をはさんで歴史の廻り舞台を見て来ました。戦局まさに苛烈で勉強したのは1年の1学期だけです。2学期からは勤労動員、十三の木造家屋の取り壊し、貯水池掘り、服部農園の農作業などです。当時の軍国校長は朝礼3時間、直立不動で立ったままでした。炎天下ですから卒倒するものが出るんです。「うん、今日の卒倒者12名。前回よりもよろしい」てな調子でした(笑)。
少し長くなりますが、アト10分くらいいいですか。
諸君には受験もあるでしょうが、これはもう勝負は決まっています。だいたい試験などというものは当日、参考書を見ていたりする者は落ちるんです。私も落ちました。2年目は、何にも持たずに行きましたが、それでも通った。そんなもんです。
もうちょっと我慢して聞いて下さい(えぇっと、ドコまで話しましたかね)。
昭和20年に入ると爆撃が始まった。北野もこの年は空襲のために入学試験がなく無試験だった。300人ぐらいの定員に400人ぐらい取った。私たち2年生は学校防衛ということで北野にいたのですが、6月17日の空襲では同級生2名が焼夷弾で爆死しました。そのうちの一人、中島君が私と同じ箕面村でしたので校長から「中島君が本日、学校防衛中に戦死されましたと家族に伝えるように」との指示を受けました。その時そばにおられた教頭の小松先生が「戦死はないでしょう。不幸焼夷弾を受けてお亡くなりになられましたとお伝えしなさい」と言われました。私は北野から箕面まで歩いてそれを知らせに行ったのですが、今でもあの小松先生の言葉が耳に残っています。教え子を一人の大人として考えるという立場ですね。
この先生は偉かった。当時、進駐軍ではジョンソンという人が教育関係で絶大な権力を持っていて「旧制中学の名前を全部変えてしまえ」という方針でした。浜田先生はジョンソン氏を訪ねてこう言われた。「焼け野原の大阪にあって若者の心のふるさとは母校である。その母校の名前を貴方は変えよと言われるのか。」それで北野の名前は残りました。大阪だけですよ。戦後、新制高校になっても校名が変わらなかったのは。
その後に林武雄校長です。ローマ史の林といわれほどの歴史学者でしたが「教育は、教師と生徒と、机と椅子があればできる。」と言われた。昭和24年に北野は選抜高校野球で優勝するのですが、出場に先立つ壮行会で言われた言葉は「諸君は負けても泣かないように」でした。ところが当時のわれわれは、関東屈指の日川高校、優勝候補ナンバーワンの和歌山桐蔭、前年度準優勝の岐阜商業と…あれよあれよという間に勝ってしまい決勝で芦屋高校を打ち破って優勝してしまった。当時の新聞の評をここに持って来ていますので読んで見ましょう。
「北野は歴代優勝校にくらべると小型チームに類するもので、力強さはもう一つだが、その水も漏らさぬチームワークと動きの機敏さ、各人がその責をはたす責任感など…実に技と精神力を調和させた好チームとして賞賛の的であった。」
チームワークと責任感…これが北野のスピリットかも知れません。おめでたい席で長話を致しました。本当に今日はおめでとう。