一 ポプラの並木六稜の
セメント塀に囲まれて
恋のシザー説きいだす
赤鼻戴く500名以下、十番まで不詳
「大正時代」
高橋貞郎(34期)「半世紀の回想」より日清日露戦捷の結果の産物の軍国調も大正期に入り次第に色褪せ始めた頃、わが北中校舎の北側に当時の青少年少女を魅了した宝塚少女歌劇のスターNO.1の雲井浪子が転居して来た。学校当局は夙にこの宝塚歌劇と男女の出入する大阪中之島図書館を気にしていた折柄とて遂に次の如き禁止令を生徒控室に掲示した。
「本校生徒にして宝塚少女歌劇及び中之島図書館へ行った者は1週間の停学処分に処す」
但しこの禁止令は却って生徒の好奇心を煽り被罰者が増えて学校の期待は裏目に出た。
又その後の或る夜.新築教室の板張りの上に墨痕鮮やかな左記の如き落書が大書された。「宝塚に行く可し、図書館に行く可し」勿論大変な騒ぎになったが、犯人不明の儘事件はいつの間にか板塀の修理と共に消えて行った。
続いて作者不詳の校内流行歌即ち敬愛せる先生方の綽名を名文句にした校歌が突然流行して来た。この歌を合唱する生徒達を追いかけ廻られる先生方の姿を拝見すると喚声をあげ乍ら校舎から校舎へと裏庭を逃げ廻ったものである。
さもあらばあれ当時の恩師方は今は殆んど歿せられ紅顔の子弟等も白髪の老紳士となって了ったが懐しい追憶を今も大切にして胸の奥深く温めていることであろう。