六稜会報Online No.31(1997.9.15)


    ●想い出の風景
    わが校舎わがグランド(2)

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      鉄棒の思い出

      山田文一(60期)

       終戦、敗戦−表現はどうでもよかった。昭和20年8月15日、この日から私達の本当の青春が始まった。14歳だった。校舎はかろうじて戦災に遭わずにすんだが、校庭は食糧のための畑のまま、体育館にあった鉄棒も供出されたのだろうか、行方不明のままだった。

      taisou-bu  昭和21年の秋、第一回国体が大阪で開催されることとなった。器械体操の種目は今のように6種目ではなく、鉄棒、跳箱(今の跳馬のこと)、徒手体操(今の床)の3種目。跳箱と徒手は何とかできる、しかし鉄棒はどうにもならなかった。器械がなければ練習もできない。国体出場も諦めねばならないか、と思っていたとき、思わぬ助っ人が現われた。55期の藤井博氏である。氏は当時在学中の関西大に使ってない鉄棒があるからと言ってくださったので、同期の吉田、61期の仙波などと取りに行った。

       一寸拝借のつもりがいつのまにか我が物になって、その鉄棒は多分、体育館が焼けるまで、大勢の若者たちに愛され続けたに違いない。何もない廃墟の中から立ち上がった私達の心の支えでもあった鉄棒、青春の思い出が一杯つまっていた鉄棒。

       おかげで、私は第1回国体の器械体操の鉄棒規定で1位となった、あの鉄棒の鬼、小野喬氏をおさえて。何年か後、逆車輪を廻っていて、その鉄棒から飛んでしまい、1ヵ月は首が廻らなかった。その時痛めた頚椎損傷のため、いまもマッサージが欠かせないが、マッサージのたびにあの鉄棒を思い出す。(写真=今はなき旧体育館の屋根の上で)


      いつの頃からか補習科があった

      大谷昌平(69期)

       3年間の高校生活を終えて、大学への合格はおぼつかないと先生に指摘されていても自分では合格するつもりで受験して、やはり落ちたという人はかなりいた。受験に失敗した同級生は、東京や京都や地元大阪の予備校へと散らばっていったが、当時は予備校の数も少なく、もう一つの道として北野の中に補習科というのがあった。

       現役生の時間割で体育などで空になる教室を転々としながら、その時間に手の空いた先生が普段の授業と変わりなく教えてくださるシステムで、1クラスか2クラスあったように思う。このクラスでは現役時代の3年間には、一度も一緒にならなかった人が1つのクラスにまとまったこともあって、また受験という同じ目標に向かっていたこと、一方現役時代の校則にしばられない自由さを満喫できたことなどによって、不思議な連帯感ができて楽しい一年間を過ごした。

       体育の時間はなかったが、こづかいを出し合ってソフトボールとバットを買い、ソフトボールをやったり、大手前高校出身の浪人と対抗試合をしたり、現役学生がやっていたようなことは何でもやっていた。当時の受験生活には偏差値という言葉もなく、北野の模擬試験で何番というのが志望校決定の目安になっていたので、模擬試験の時は予備校に通っていた人も受験しに来ていたように思う。

       大学を卒業し、社会人になっても、この時の連帯感はいまでも残っており、人生における大きな支えになっていることは確かである。


      化学研究部の青春

      梶本興亜(73期)

       「化学研究部」に青春の想い出を重ねる人は多い。化学という学問の持つダイナミックな性格に憧れを感じて入部した人たちもまた、ダイナミックであった。

       化学研究部は昭和24年に、それまでの理科研究会から独立して誕生したと伝えられる。その時に、地学部、物研等もできたらしい。昭和40年頃までに『試験管』という機関誌が2度ほど発刊されたが、ともに数巻の継続で終わっているようである。私は昭和33年から36年まで化研に所属したが、その間に2度目の『試験管創刊号』を部員たちで発刊した。創刊号には京都大学工学部長であった曽我直弘教授(28年卒、当時は助手であった)の特別寄稿があり、諸先輩方からの励ましの言葉がある。ここでは、そのダイナミックさの一端をまず稲森芳博氏(29年卒)と小池浩氏(30年卒)の文章をお借りして紹介しよう。

      ----------化研部の機関誌を発行される由、ご苦労さんです。そもそも化研とは、北野高等学校化学研究部の略で今までに世にも珍しき逸材を世に出しております。山本さん、小島豊さん(27年卒)をはじめとして、吉川竹四郎さん(昭和30年卒、Osaka Contract Bridge Clubの創始者)、山形圭三さん(31年)、壇須寿雄さん(32年)、菅正徳(32年卒、名応援団長)、藤原俊一(33年卒、自称爆弾男。化研特製爆弾で全治20日間の傷を負った)等。
       化研出身者は全く一癖もふた癖もある強者ですが、これらの人達は化研に入る前は「まとも」だったのです。有毒なガスの充満する部屋での3年間、ある時は化研特製の合成酒「化研正宗」の粟井先生、西田先生、北原先生などへの人体に及ぼす反応試験。また、ある時は火薬を作り日頃のうっぷんを晴らしたものです。これでは、まともな人間も変わるのは当然です。  化研特製の煙幕を放り込み校長を煙に巻くような化研部員が出てほしいものです。……こういうことはあまり実行するなよ。----------(稲森氏)

      ----------私たちが化研部員だった頃は最もたちの悪いのばかりが寄っていたように思われる。先輩たちに比して最も活躍したようでもあるが、いたずらをやったことも甚だしく、金森先生等随分我々の存在が迷惑になったことと思う。
       同窓会で北野に参ったとき、拝見すると今日は部室がないようですが、我々の頃は化学教室の約3分の1が我々の部屋に当てられていた。そこに質の悪いのがたむろして雑学研究会を構成していたのである。
       雑学中忘れもしないのはイタズラ学。その内容は、サツマノカミ(枕詞)タダノリ学、キセル学、食器蒐集学(食堂の食器が部室に10余個あった)、清酒合成学(エタノール希釈学)。……大学に入ってからこの単位は取らなかった。
       イタズラもよくやったがホンマに勉強もよくした。数学、物理学、化学、英語などの難問は絶えず我々の間に発生し、我々の文殊の知恵で解かれた。そういった事が我々高校生の最大関心事である大学入試に期せずも糧となったらしい。
       一方、化学研究会としての活躍は、今から考えると随分非理論的であったが、我々が3年の時は、種々のメッキ、銅メッキによる絵画的描写、ポリエステル樹脂の重合、加工、尿素樹脂ベークライト樹脂の重合など随分多岐に渡っていた。従って予算においても、野球部が運動部の横綱である如く化研が最も大きかった。----------(小池氏)

       こういった先輩方の活躍の結果として、我々の時代には「化研の部室」が無くなっていたのではないかと上記の文章を読みながらハタと気付いた。

       さて、このような時代を経て、昭和30年代の高度成長期には化学は技術発展の先導役であった。これを反映して化学の人気は高く、部員の数も増加し、35年度生は16名、36年度生は13名を数えた。荒々しい伝統の化研部にも女性部員が増加したが、イタズラ学は絶えることなく、文化祭の前夜には合成酒が準備され、教員宿直室の前で爆発が起った。 もちろんマトモな研究の方にも力が入り、34年度には「金属イオン全定性分析」、35年度には「淀川への海水の遡上の研究」(水中の塩素イオン濃度の経時変化の測定)、さらに36年度には当時の公害調査の先駆けである「淀川の水質検査」も手がけられた。一方で、化研からのキャンプやハイキングもあり、淡い青春のときめきの場面もあった。化学研究部は受験勉強が大きなウエートを占める高校後半の生活の中で「オアシス」であり「もう一つの教室」であったという事が出来る。


      地学研究部

      壽榮松正信(74期)

      chigaku-bu  地学研究部を語る上で、正面屋上に鎮座していた大望遠鏡をはずすわけにはいかない。口径30cm、京都西村製作所で作られたもので、当時も今でも日本の高校では最高レベルのものであった。戦後まもなく先輩有志の寄贈で、昭和27年8月20日に搬入組み立てられた。集光力は肉眼の2500倍もある。昭和も終わる頃、鏡筒部だけでも活かそうと望遠鏡再建を願って解体されたという。現在は台座のみ元の場所に(写真)、本体は屋上の旧部室で静かに眠っている。北野のシンボル「北中」の透彫りの真下である。

       子供、特に男の子は手に入らないものに夢を持つものである。この望遠鏡が健在だった頃の子供は、月にウサギが居るとは思わなかっただろうが、火星の生物の存在には興味があったものだ。20年前のヴァイキング1号・2号、先日のマーズパスファインダーでその夢も壊されてしまったが。

       望遠鏡については、石川勇さんを忘れるわけにはいかない。71期の石川さんは在学中47cmの主鏡(凹面鏡)から手作りで作り上げ、当時府内でかなり話題になった。昨今の既製品万能の時代では考えられない努力が必要で、2枚のガラスを何十万回も摺り合わさなければならない。この望遠鏡は今も能勢の野外活動センターで、夢多き子供たちに貴重な経験の場を提供している。

       屋上の望遠鏡が健在であった頃、地学部員が中心になって観測会を催した。月食や日食、教科書でしか見られなかった月のクレーターや土星の輪など、空気の状態によって起こる揺れも含めて、ゆらゆらと動いて見えることの感動を今も持ち続けている方も多いことだろう。地上の風物を見て(天体望遠鏡は上下逆さに見える)「スカートはどうなるのかな」という不届きな人もいたが。

       いま、石川さんを中心に望遠鏡の再建の話も持ち上がっている。十三のような明るいところでは、星雲などの暗いものは見えないだろうが、太陽、月、惑星、それに近頃よく話題になる彗星などは観測の対象に充分なりうる。そのうえ、現在の技術ではCCDカメラなどを用いて、多人数の子供たちに見せることも可能である。このような都会の真ん中で、手軽に観測できる絶好の場所に設置する意味は大きいと思わる。校舎改築の折り、ぜひとも屋上にドーム付きの望遠鏡をと頑張っておられる。


      美術部のこと

      岡村隆久(77期)

       私が北野の美術部で指導を受けたのは岡島吉郎先生だった。私が卒業して2、3年で退職されたが、ほぼ40年間北野一本でやってこられた名物先生である。

       私のいた頃は岡島先生の教職生活最晩年で、こわいというより穏やかな印象が強かったが、先輩達には、こわいこわい先生だったとよく聞かされた。北野出身の若い先生が顔をしかめて岡島先生のことをぼやいておられたのが思い出される。その若い先生も今や好々爺である。

       美術準備室を二分して奥の窓のある方が先生の部屋、廊下側が部室だった。部室でのあほなおしゃべりを先生は皆聞いておられたはずだが、そのことを口に出されたことは一度もなかった。

      ayatori  先輩に吉原治良(36期)という画家がおられる。吉原製油の社長でもあった。当時、大阪では具体美術の運動が盛んだった。その中心が吉原治良で、北野では同時代の佐伯祐三の名声に隠れて知名度は低いが、現代美術の世界では今も語られる人である。その吉原さんの描いたあやとりをする少女の絵が、当時は美術教室に掛けてあった。思い出の中では大きな絵だが、実はそう大きくもないことを、120周年記念「六稜会展」で再会して知った。(写真=吉原治良「あやとり」)

       具体美術の運動は、後年「グタイ」として先駆的活動が国際的にも高い関心を呼ぶようになった。美術の世界のそれまでの常識が崩れていった。美術混沌時代の始まり。そんな時代、我々も絵の具の代わりに紙や木を貼りつけたり、少し焦げめをつけてみたり…。流れに取り残されまいと、混沌と戦っていたのかもしれない。

       毎年夏休み、我々美術部員は志摩半島の波切という村に連れて行ってもらった。日照りの中、坂や階段の多い漁村を上へ下へと汗だくになって歩いてたくさんの絵を描いた。今、その頃の絵が出てくれば感動ものなんだが…。民宿のようなところに泊まり、自由に散策し、灯台を見て、太平洋を見て、魚を食って、何から何まで新鮮で感動的だった。日頃の油くさい美術教室や部室からの解放感も加わって、素晴らしい思い出となっている。

       当時軟弱イメージの美術部に、五人の同学年男性がいた。上や下の学年は、ほとんどが女性で、そんな仲間達とは今でも会えば楽しい。


      懐かしさと寂しさと羨ましさと

      加藤 寿(104期)

      P  北野生の一人として、私もPと呼んで親しんだ本館校舎(写真)が解体されるということには、そこで実際に生活した年月に比してあまりに深い郷愁を覚える。しかし、自分の体験からいえば、本当に一刻も早く、一人でも多くの後輩たちによい環境で北野での生活を送ってもらうことを望むならば、その郷愁は自分の胸の中だけで生きていればよいと考えるようになった。

       私は大掃除の度の油引きやら、崩れ落ちる天井やら廊下の軋みやらをむしろ風格ある高校生活の一エピソードとして好意的に受け止めているのだが、同級生の安本健太郎君などは大雨の後の3階の教室での授業のとき、天井から落ちてくる赤錆びまじりの水滴にカッターシャツを真っ赤に染めたこともあるのだから洒落にもならない。

       私たち104期生は元号が変わった年に北野の門をくぐった。講堂で行われた新入生オリエンテーションで、数学科の博本先生が「完璧主義者は北野ではうまくいかない。北野ですべてを完璧にしようと思うのは無理な話だ。だから何か一点でいいから、自分が人に負けないものを持ちなさい」というようなことをおっしゃった。私はそれを宿題考査で思い知らされることになるのだが、それでもきちんと新聞部という存在理由を見い出せたのだから、心の寛い学校だったのだろう(いまいましいとしか思えなかった先生もいらしたかもしれないが、私の鈍感さと相まって、それを感じさせないだけの配慮があった)。

       私は1年のときには第二新館がホームルーム教室であった。この第二新館についてはこれからも残るそうなのであまり悪口はいいたくないが、通常教室の採光というのは黒板に向かったときに左側から入るようになっているのに、第二新館はなぜか光が右側から入るようになっていた(黒板を2面使うのはいつものことだったのでそう違和感はなかったが)。しかも季節を問わず、廊下側の土地が湿っていたために蚊が多く、教室が3つしかなかったこともあって、Pにある風格も、棟続きのプレハブ教室にあるクーラーも、第二新館にはないと特に夏は羨ましく思えた。

       しかし、2年になって「風格」の代償があまりに大きかったことを知らされた。長い廊下は日光が直接教室に当たるのを防いでくれるのだが、私のいた213教室と隣の214教室はグランドから丸見え、つまり日光が直接入るような構造になっていた。しかも、担任が松江生まれで冬でも暑がる国語科の野尻先生であったため、野尻先生の授業の度に暑苦しさをかきたてられた(その割には214に付いたブラインドが、213には付かなかったのはなぜだろうか?)。

       北野を卒業する直前(といっても卒業式は終えていた)に、六稜新聞部主催で近畿圏の高校新聞部を中心とした交流会を開いた。もうすぐ校舎がなくなるという噂が広まりつつあったころで、一人でも多くの同世代の人間に北野の校舎を見せておきたいという意識が働いたのだろうと思うが、この交流会の参加者の感想をみると、分科会の内容などよりも「校舎が立派で羨ましかった」「教壇の高さに驚いた」などという感想が目だっていたし、感想文にでないまでも、校舎・教室の造りの重厚さが好評であった。

       建物の風格は、それそのものの風格でもあるが、中で生活する人間の生きざまの重厚さにも相関があるのではないかと思う。その意味で、荘厳さは北野生の切磋琢磨の象徴であり、結果であったのだろう。そう考えると、新しい校舎においても、その荘厳さに重みを増すのは、そこで生活する次代の北野生の努力にかかっている。人に羨ましがられる素晴しい校舎の完成が待ち遠しい。


      反響「六稜会館物語」

       前号の特集、同窓会館建設にむけての同名の記事について、会員の方々より新たな証言や資料を届けて頂いた。感謝して一部掲載させていただく。

      【六稜会館1階の射撃部銃器庫】
       54期の射撃部員の方より

         私は昭和11年に北中に入学し3年になるやすぐ射撃部に入部しました。入部資格は3年生からで3、4、5年と射撃部に在籍していました。昭和13年以前は関知しませんが13〜15年度は射撃部が会館1階を使用していたことは確かです。入った左側に小部屋(物置様のもの)があって射撃部備品の99式銃がおさめてありました。但し2階が何であったのかはどうしても思い出せません。 [射撃部の標札が掲げられた六稜会館前での昭和13、14年度末の部員写真をお示し頂いた。部長は配属将校。]


      【昭和14年度の図書委員として】
       滝井尚三さん(56期)より

         昭和14年、2年生になりましたとき、担任の先生から図書委員になる者はいないかというお話がありまして、私が手を挙げました。書棚の蔵書から読みたいものを自分で選べるのが魅力でした。委員と名がつけばいくらかカッコイイという気もあったように思います。  放課後週1回、会報に書いてある「オリ」のなかに、多分5時頃まで2人で入っていました。利用者は多くはなく、1日10人位、貸し出しは数件ではなかったかと思います。  どういう本があったかということは覚えていませんが、新しいものの補充は少なくて、古いものが多かったようです。私は専ら大衆文学の類を読んでいました。当時としては柔らかいものも若干ありまして、それを借りて帰ろうとしましたら、上級生にこの棚のここからここまでは貸し出し禁止だと言われたことを覚えております。  一年間委員を務めましたが、それほど魅力がなかったので(私の能力と意欲の問題ですが)、翌年は辞退しました。


      【「六稜会館図書館」についての追加情報】
       生島幹三さん(60期)より

         前号の特集「六稜会館物語」を興味深く拝読しました。曾て「六稜会館」にあった図書館について同期の大岩、柿木両君が閲覧室の側からの的確な情報をお寄せ下さった由ですので、金網で仕切られた反対側の書庫にいた小生として、簡単に追加情報を提供しておきます。

         五つの学年の各学年から六、七名宛の図書部員(ただし、戦中の当時は校友会図書部でなく、報国団図書班と言っていました)がいて、週日の昼休と放課後、(それぞれ自分に割り当てられた当番の折に、)図書館の戸の開閉を始め、図書の出納、貸出等の事務を、金網の向うの書庫の方から、窓口を通して行なうなど、図書館の運営をしていました。私の頃の班長は英語の加藤豊先生で、各学年の担任の中から一人、係の先生がおられたようです。我々は、学年の係の原先生に、昭和17年4月に入学後間もなくスカウトされて部員になりましたが、2年生からなった学年もあるようです。

         本好きの私は、当番の時はゆっくりできないので、非番の時にも、まるで部室のように来て、書庫で本をとり出して読んだものでした。3年生の19年秋から学徒通年勤労動員に出動し、借出していた愛読書を宿泊先へ携行したりもしました。動員で留守中(その間、20年春に自動的に4年生になっていましたが)六稜会館の内部が6月の空襲で全焼したことは、8月15日が過ぎて戦後学校へもどったとき初めて知りました。部も、いわば自動的に消滅しました。

         ただ一言付け加えますと、21年度になって同期生(当時5年生)の萬喜敏一君が、少数の同期生や一年二年後輩の人達と、古本を集めて、いわばサークル活動的な図書部を始めていました。その活動の詳細や、それが後の林校長時代の部とつながってゆくのかどうかなどは、よく知りません。

         なお「六稜会館がいつから図書館に利用されたか」については、現北野高校図書館の御好意で、先日、館蔵の北野中学校校友会誌「六稜」第90号(昭和15年3月発行)を閲覧する機会を与えていただき、その部報欄に、当時4年生(54期)の図書部員、水田喜博氏が書かれた文章を参照させていただきました。すると「最近図書室も現在の補習科B組教室より六稜会館の2階に移転し、種々の修築を施して従来の陰鬱なる雰囲気を一掃し、明朗なる読書室を形造っている。」とあります。この「最近」を、もう少し特定したいのですが、筆者に今うかがっても、御記憶にない由でした。この昭和14年度か、その前あたりと考えてよさそうですが、少なくとも53期の中江さんは、14年に5年生で新しい快適な図書室を愛用されたとみえます。

         又、水田氏の文には、「図書部創設以来五十有余年」という言葉が出てきますが、図書部と結びついて「学生図書館」が、中学校として開学以来(校舎や、校内の設置場所の移転はあったとしても、)存在し続けたと考えてよさそうです。事実、私が入部した当時も、書庫の脇の小部屋の隅に廃棄処分にされた昔の蔵書が積み上げられてあり、それらには、「北野」以前の、明治の古い校名の印が捺されてあったのを記憶しています。

         今回この文に添えて、私の手元に保存してきた(私の1年生の)昭和17年度末、および(私の2年生の)昭和18年度末の部員全員での記念写真を、史料としてこの際同窓会に寄付することにしました。(その氏名の確認その他に関して、59期の清水利孝先輩や、又、昨年度総会の懇親会に出席された56期、57期の諸先輩から給わった御教示に厚く御礼申し上げます。)「部室」のようにといっても、閲覧室の側の書庫のことで、しゃべったりすることはできないわけですが、写真に写る個々の先輩に関しては、自ら思い出があります。毎年学年末には、書庫の中央の長机を囲んで卒業部員の送別の集まりがありました。卒業部員代表の挨拶にはいつも、「天下の北野などといっているが、その図書館の蔵書たるや、まことに貧弱で、碌なものはない。」という苦情がのべられたものです。それに対して部長の加藤先生が、懸命に抗弁されたさまを思い出します。恐らく戦後の北野高校の新しい図書館の充実ぶりを見れば、さぞや昔の先輩たちは羨望することでありましょう。


      《北野高校図書館よりお願い》
      図書館では創立百周年記念として「六稜文庫」を設け、同窓会員諸氏の著作については寄贈を仰ぐほか、図書館としても予算の許す限り購入に努めてきました。しかし近年の大阪府の財政悪化に伴い学校全体の予算が削減され、図書購入費も大幅に圧迫されて「六稜文庫」を継続的に充実させていくのが非常に困難となっている現状です。

       諸先輩のご著書や、卒業生関連の著作を北野高校図書館あてにご寄贈いただければ大変ありがたく、よろしくお願いいたします。


    原典●『六稜會報』No.31 pp.8-13