水鳥喜平
【みずとり・きへい】明治36年3月生。大正15年より昭和24年まで本校に在職。
私は男ばかりの兄弟五人の末っ子で、いつも母のお尻にくっついていたので、母が時々愚痴をこぼすのを聞いただけであった。ほんとうに知ったのはずっと後、私が小学校高等科二年の時、父が「これを宝財屋へ持って行け」といって金十八円を渡した時であった(大正五年)。
宝財屋へ行ってお金を渡すと番頭は半ば独り言のように、また半ば私に聞こえるように、「もう五百七十六円になったなあ」と言った。それで私は大体想像した。父の身代限りの時、田舎であるので、全財産を売ったのであるが、家と屋敷だけは残してくれ、不足の金額は全部宝財屋にまとめ、父は盆、暮に十八円ずつ払うということ、そしてその金額がやっと五百円台になったこと。十八円は今では問題にならない金額であるが、父は盆、暮に十八円払うのに大変苦しんでいたようだ。母と密談していたのは、この金のことであったのだ、何とか父を楽にしてあげたいと思った。
父は破産後、代書人をしていた。そして司法書士の制度ができるとすぐ司法書士になった。村に二人しかいなかったのだから、村では一寸した知識階級であったが、現在と違い土地、家屋の売買はほとんど無い。従って収入も少なかった。
身内の自慢はすべきでないことはよく知っているが、私の父も悪いことばかりでなく、良いことも少しはあった。一つだけ書かせていただく。
私が小学四年の時、父の机上で厚い書類を発見した。美濃紙の罫紙に算用数字が墨で丁寧に全面に書いてある。何であるかさっぱり分らない。父に聞く。「村の白浜の海岸線の工事の監督に県庁から二人の技師が来られた。数字の表を出して計算しておられた。すぐ答が出る。大変便利だ。それで使っておられない時、借りてうつし書いた。時々使っている。とても便利だ。」私は「ふうん」と言っただけでさっぱり分らなかった。それから何年か経って中学五年になり「三角」を教わった時、それが「三角関数表」であることを知った。あの関数表を筆でよく書いたその根気に感心した。
後を継いでいる兄に「これは家宝だ。大切にしてくれ」と頼んでおいたが、昭和二十年二月十三日の三ケ根山地震(大地震だが戦争中のため殆んど報道されなかった)で家もろとも津波に攫われてしまった。残念である。
長兄、次兄は小学校を卒業すると(当時は義務教育は四年)すぐ年季奉公に、三兄は郵便局へ、四兄は海軍志願兵にという具合で衣食だけは何とか済ますことができたが、父母にお金を持って来ることはできなかった。そんな時であったが、父は私を高等科へ行かせてくれた。尋常六年の時に愛知県全部の六年生に読み方と算術の同一問題の試験があった。試験の監督は他の学校の先生がされた。ニカ月位後、先生が授業時間中に「喜平が算術は郡中一番であった」とだけ言われた。また尋常科の卒業式では私が総代であったから、父も無理をしたのかも知れない。或いは先生が父に頼んで下さったのかも知れない。
高等科へ行くと新聞配達の仕事があった。前年までは名古屋にあるニつの新聞(新愛知と名古屋新聞)の配達は私の住む吉田村から十キロばかりの西尾町(現西尾市)から配っていたが、こんど吉田村に配達所ができた。西尾町から配達する時は、新聞の配達は大体正午以後であった。配達夫は常に私の家で弁当を食べていた。吉田村になると午前七時着の一番の軽便鉄道の汽車で到着する。それを配達所まで持って来て、配達夫は自分の分だけ受取り、もう一度数え、折だたみ、配達に出発する。私の区域は大字富好新田で、戸数は百戸余であるが購読者は三十戸位しか無かった。それでも富好新田の端から端まで行かなければならない。汽車の着くのは七時、学校の始まるのは八時、夏も冬も同じである。私は毎日遅刻する。それでも先生は叱らなかった。その上高等科の卒業の時も卒業生総代にしてくださった。今でも感謝している。
前にも書いたが兄は四人とも、年季奉公或いはそれに準ずる仕事をしているので、父を助けることはできない。私は何か良い方法は無いか考えた。
世の中には下には下があるものだ。父がこんなに生活に苦しんでいるのに、父の従妹が夫と共に、数年前のことであるが、転がり込んで来た。物置き小屋を改造して世話をしていた。二、三年後再び東京へ行き鉄道院大井工場で工夫になり、どうにか生活しているのを思い出した。私はその工場に私を職工見習に傭うよう頼んでくれと手紙を出した。戸籍謄本を送ったりしてやっと許可が出た。
大正六年十一月十五日、衣類や弁当のはいった信玄袋を担ぎ十五分歩いて軽便鉄道の吉良吉田駅へ行った。母は送って来て、東京の品川駅までの切符(三円三銭)を買ってくれ、金一円をくれ「もっとやるといいが東京で辛い時、帰りの汽車賃があると逃げて来るといけないから渡すことはできない」と言った。私は自分の金を五十七銭持っていたから、金一円五十七銭持って、午前七時五分発の軽便汽車に乗り母に送られて故郷を立った。岡崎駅で東京行きの大きな汽車に乗換え、午後七時少し前品川駅に着いた。途中富士山が実に美しかった。プラットホームには父の従妹の夫が来てくれていた。
翌朝、父の従妹に鉄道院大井工場へ案内して貰った。身体検査が済んでもなかなか呼び出しが来ない。駄目かと心配になった。しばらくすると係の人が来て「お前は身体検査は通ったが、年が足らない。本当は傭うことはできないが折角愛知県から来たのだから傭ってやる。来年の三月十一日(私の誕生日)まで怪我をしたらいかんぞ」と言うて辞令を渡された。それには「日給三十六銭」と書いてあった。午前七時から午後五時まで働いて三十六銭である。これでは生活はできない。もう二時間、午後七時まで働くと七銭二厘貰える。それで毎日残業をした。
もう一つの給与体系があった。それは請負制で、熟練工になると仕事一つひとつに値が付いていて、それを早くやればそれだけお金が貰える。換言すれば、前のは「最低賃金制」である。それで私は熟練工に早くなろうと励んだ。また熱海の丹那山トンネルの落盤事故の時(大正七年四月一日)には八日間不眠不休で働き、トンネル側の信用を得、数カ月招かれて働いた。これは出張費が付くので大いに儲かった。その上第一次世界大戦後のインフレーションに助けられたので、父の借金は全部私が支払った。母は涙を流して「喜平、有難う」と何回も言った。父は自分の借金を二十歳にならない末っ子に払わせたことを残念に思ったのであろう、何とも言わなかった。
その頃、労働運動が始まった。仙台の酒造家の御曹子で東大法学部出身の鈴木文治氏が友愛会(後の日本労働総同盟)を造った。私も会員になった。大正九年五月二日、日本最初のメーデーを上野公園で行なった。メーデーは五月一日に行なうのであるが、我が国初めてのメーデーであるから失敗を恐れて二日の日曜日に行なった。私も参加した。上野公園へ行くと巡査が一杯いるのに驚いた。ここで演説会を開いた。演壇の下に二人巡査が立っていた。だが「弁士中止」は一人も無かった。
それから日比谷公園までデモ行進に移った。私の部隊は最後尾であった。上野公園を出るとすぐ警官隊と衝突。四つ辻ごとに衝突を繰りかえすので遅々として進まない。万世橋まで来た時、私は疲れたので、院線電車(後の国電)に乗って帰った。翌日の新聞には上野公園に集ったのは約五千名、日比谷公園へ着いたのは約百五十名と書かれていたように憶えている。
そのころの労働者は新聞も殆んど読まない。暇があれば博打をうつ、金があれば酒をのむ、暇と金があれば女郎をかいに行く、いわゆる「のむ」「うつ」「かう」であって、家庭争議は絶えない。給料日には工場の門前に飲み家の女将や金貸しなどが列をなして、工員の出て来るのをきつい目をして待っているのが常であった。
これでは労働組合の要求する「八時間労働」「最低賃金」も役に立たない。教育、少くとも新聞を毎日読む習慣をつける教育が必要だ。それで私は学校の先生になりたい、できれば英語の先生になりたいと思った。当時私には西洋人は人間と神様との中間に居るもののように思われたから、英語を学び彼等の生活に近づいた生活を労働者もするようにしたいと思った。
学校の先生になるには、先ず中学校を出なければならない。私は夜学に通っていたが、夜学は各種学校で、夜学の中学校は一つもなかった。昼の学校へ行かねばならない。調べて見ると、東京に中学校は五十余校あるが五学年へ入れてくれる学校は一校もない。四学年三学期に入れてくれる学校もない。後で知ったのだが各学年とも三学期には入れないことにしている。現在もそうだ。それで最も短く中学を卒業するには四学年の二学期に編入することであった。調べると三校だけあった。私は通学の便から水道橋駅に近い大成中学校を選んだ。
編入試験は一年から四年一学期までの全科目で、例えば博物の試験では一年の植物、二年の動物、三年の生理衛生、四年の鉱物、全部勉強しなければならなかった。体操もあったが、音楽は無かった。試験は二日間であった。受験生は百名位で合格者は二名だけ、幸運にも私はその中にいた。一週間後、補欠でもう二人入って来た。その時私は十九才であった。
四年の二学期三学期は無事に済み五年になり、その一学期も楽しく済み、上級学校への進学もぼつぼつ考えようとしている九月一日(大正十二年)、あの関東大地震が起きた。学校は残念ながら影も形もなくなってしまった。焼け残ったよその学校の校舎を午後借りて授業を受けたり、校舎を一部建て二部授業をしたりしているうちに十三年三月が来た。そして中学校卒業証書を貰った。
文部省は中等学校教員が不足したので、東京及び大阪の外語その他の学校に教員養成所を付設した(大正十二年)。授業料無し、その上二年で中等教員の免許証が貰える。私は先に書いたように英語の教員が夢の中の希望であったし、工場で働いて貯えた貯金もだんだん少なくなって来たから、これに決めた。東京外語にしようか、大阪外語にしようか、大変迷うた。受験雑誌によると、大阪外語の校長中目先生は十カ国語に通じ、大変新しい考えの方のようであったので、大阪にきめた。中学教育は四年の二、三学期と五年の一学期しかまともな授業を受けていなかったから、心配したが、幸運にも合格した。自分で考えてもビリであったと思う。
大阪外語の教員養成所は面白い学校でクラスの最年長は三十六歳の陸軍大尉、陸軍少尉は四名、海軍兵学校で高松宮殿下と同期であった者、三高や七高の中退者等種々様々であった。私はこれ等の級友に追い付き追い抜くため一所懸命勉強した。
卒業の時、主幹の先生は私を呼んで、「北野中学へ行け。北野中学は東京府立一中、府立四中と日本一を競う中学だ。よく勉強しておかないと生徒から相手にされなくなる」と言われた。
大正十五年四月、北野中学の教壇に立った。外語の主幹先生が言われた通り、生徒の質問はとても厳しい。その厳しい質問に答えるために随分勉強もし、丸善書店へ通った。戦後大学を出ていない私が光華女子大学文学部で英語学の講義を多年続けることができたのは、全く北野の生徒諸子の厳しい質問のお蔭と、今も感謝している(平成七年五月二十四日)。