六稜会報Online No.30(1996.9.15)


    ●六稜外史
    フラグメンテ
    『北野図書館報』40号より


      それからの厨川白村
      〜白村、漱石、ヘルンの奇しき縁〜

      野尻和正(国語科)

       英文学者、文芸評論家として明治、大正期に名を馳せた厨川白村(本名辰夫)は、明治26年に北野中学に入学、在学中から校友会誌『六稜』に作品を発表し続けた(『北野百年史』に詳説)。明治30年、京都府立一中に転校、三高から東京帝国大学英文科に入学した。

       当時、英文科では、小泉八雲(ラフカディオ・ヘルン)が講師として教鞭をとり、学生の人気を集めていた。

       「みな能く聴者の胸底に詩の霊興を伝ふるに足るものがあった」、「これほど立派な講義を為された先生、学生の尊崇敬慕を一身に集めて居られた先生、此の人あるがために当時私たちの母校が世界に知られる程の此先生」(「小泉先生」)というのが白村のヘルンに対する評価である。明治36年1月15日、ヘルンは大学から、3月限りで解雇する旨の通知を受け取った。大学の方針が、外国人教師にかえて日本人の講師、助教授を置くことに変更される煽りを食らったのである。(ヘルンの月俸は200円で日本人の2倍ほどであった。)

       その後任の教師こそが、同年1月23日にロンドンより帰国したばかりの夏目金之助(号漱石)その人であった。2月末ヘルン辞職の報を知った学生たちは、3月2日、ヘルンの英文学史の講義の後教室に残って留任運動を始めた。小山内薫、川田順(1年生)らが急先鋒となり、総退学覚悟で運動に取り組む決意を表明した。当時2年生であった白村は、これに反対の態度をとったために、学友から嫌われることになり、学生の間にしこりを残すことになった。運動は結局奏効せず、ヘルンは憤りのうちに東大を去っていった。

       このようなトラブルのあとをうけて4月20日から教壇に立った漱石に対して、学生の対応は冷淡であった。世界的名声を得たへルンに比べて、新参の夏目某はたかが五高教授あがりの一介の教師に過ぎないのではないか、というのが学生たちの言い分であった。また、ヘルンの文学的香気の漂う講義に比べて、漱石の講義は、語学的に徹底して学生を絞り上げるというものであり、英語力の欠如を思い知らされ高慢の鼻を折られた学生たちは、屈辱の余り、漱石への反感を募らせたのである。

       ついに小山内薫、川田順は教室に出て来なくなった。漱石もまた「自分は第二の小泉にはなれそうもない」と苦悩したのであった。

       上田敏とともにへルンの秀才学生であった白村が、なぜおおかたの英文科学生と行動を共にしなかったか。おそらく白村には、夏目講師の圧倒的に恐るべき英語力、英文学の造詣の深さが分かり過ぎるほど分かっていたのではなかろうか。へルン先生も偉い、しかし夏目講師も端倪すべからざる逸材である、と。漱石も、白村にはなにくれとなく気を配ってやったようである。明治37年7月の成績会議で、漱石は白村を優等生に推薦している。また、大学院では、漱石のもとで、「詩文に現れた恋愛の研究」という論文を書いた。後に、白村が、漱石の『虞美人草』の「小野さん」のモデルの噂が立った時、漱石は「定めし御迷惑の事と存候。」(明治40年1月2日付書簡)と書き送った。また、白村の文章の掲載を出版社に斡旋したり、『それから』を読んだ白村に感謝の返事(明治43三年1月14日付書簡)を送ったりしている(『漱石全集』所載の書簡は5通)。「君子の交わりは淡きこと水の如し」といった趣の両者であったようである。

       白村の最後は痛ましい。大正12年9月1日鎌倉で関東大震災の大津波にさらわれて、2日に亡くなった。時に、上田敏の後を継いで、京都帝国大学教授であった。


      厨川白村と『六稜』

      柏尾洋介

       「白村の文芸的活動は明治31年京都府立一中の5年生のとき『学友会誌』に「E. A. Poe」をかいたのが最初である」と日本近代文学館編『日本近代文学大事典』はのべるが、彼は本校3年生のとき『六稜』第1号(明29.2)に「トーマスケーメル詩 厨川辰夫訳 征夫の夢」の訳詩と短歌1首を寄せている。(『北野百年史』pp.387〜388に再録)その後も白村は『六稜』寄稿者の常連で、第3号(明29.12)には「病床漫筆」(一連の随想で「日本文学の中心と畿内文学」「大坂付近の文学者の墓碑」「青年の活気と熱情」などからなる)と短歌2首、第4号(明30.5)に「青年と熱心」と短歌1首などをのせ、京都に移って以後も第6号(明30.10)には「『六稜』第五号を読む」と題する長文の批評、第8号(明31.5)に「京都だより」を寄せている。これらの文は後年の、『近代文学十講』『象牙の塔を出て』『近代の恋愛観』さらに『十字街道を往く』『苦悶の象徴」などにみられる、洛陽の紙価を高からしめた自由主義的で些か情緒的、個人主義的ながら社会の動向に敏感な文明批評的、そして多分に啓蒙的な彼の特徴をもちろん未だしめしてはいないが、精力的かつ批判的で、たとえば「『六稜』第五号を読む」では「奇警斬新、豪放雄快なる新意見」のないのを嘆き、教室での国語漢文英語の授業が「単に字句の解釈を与へらるるに止まり、ベルレターとして其心髄たる趣味乃至修辞の点に於ては殆むど得る所なし」と批判したりしている。
      (『創立百十周年』柏尾洋介「六稜の人びと」より)


    原典●『六稜會報』No.30 p.11