松浦育代
【まつうら・いくよ】昭和15年生れ、清水谷高校、東京教育大学(現筑波大学)卒、昭和38年港高校、昭和40年北野高校、平成8年4月高槻北高校へ転勤。
北野へ赴任してきました時は24歳(もちろん独身)で、大前先生の後任として体育科(平石、稲葉、野々村、須原、田中秀先生)ただ一人の女性教員でした。
私の母校清水谷も、始めて勤めた港も昔の女学校で、校舎の窓はアーチを描き、におやかな風情でした(もちろん両校とも校舎改築後は昔の面影はありません)。北野の校舎の角ばった堂々たる男性的イメージへの第一印象は、「こんな殺風景な学校で教えなければならないのか」と涙が出そうになったことです。しかし、その後の30年の間に、広い落ちついた教室、生徒の動きや顔がよくみえる高い教壇、重厚な講堂、理知的な玄関ホール等やはり北野は「学ぶところ」「教育現場としてふさわしいところ」を強烈にアピールしている学校であるという確信と愛着を持つようになりました。
元府立一中ということで、学校の中は圧倒的に男性が多く、生徒は1クラス50人中、女子は15名程度が平均的でしたし、教員の方も、女子教員は昭和50年までの10年間は、高田、乗岡、阿部、西川先生と私の5人でした。先生方の平均年令も高く、個性的な、独特のこわさ、近よりがたい印象の先生方ばかりのように思えましたが、懐にとびこんで相談すれば、親身になって、あらゆる角度から見た方針や方向づけ、私の取るべき態度など、素晴らしい解答や考え方を教えていただきました。
これらの御指導は、その後の私の教師としての大きな財産になっています。この時代の教員間は、若い先生はのびのびやれ、行き詰まったりミスをした時はいつでも相談にのるよといった大らかな雰囲気であったように思います。諸先生方からいただいた御指導に、感謝の気持で一杯です。
もう一つの印象は、行事にしろ何にしろ「男尊女卑」「男子優先」が徹底していることでした。竹筋コンクリート製にしろ古い50mプールがあったのですが、水泳大会(その頃は短水路)では、リレー種目でも、個人種目でも、何でも男子の競技が先に行われていました。これはおかしいと思いました。女子が男子に劣っているとは思いませんが、走る・飛ぶ・投げる・泳ぐなどの基本的運動能力の差は、生物学的な差であって、近年、その差は縮まりつつありますが、この筋力等の男女差は、いかんともしがたい面があって、同じ種目を男子の後に女子が泳げば、間が抜けるというか、見劣りするのはあたり前です。当時の体育科主任は「ピンタ」のニックネームで知られている明治生れの平石先生でしたが、先生に「メーンの試合を先にやってしまったら、誰も前座試合を観ません。水泳大会を盛り上げるためにも、女子を先に泳がせて下さい」と申し上げたのですが、「女子は集合が遅い。水泳大会の進行が遅れる」とはねつけられました。悔しかったですが、女子が男子に劣らず、いえ男子を上回る行動の機敏さを身につければ、女子を先にして下さるにちがいないと考え、それからの授業では、集合(体育始業時、授業中に集合がかかればかけ足で集まる等)を特に厳しく言うようになりました。始業の鐘が鳴ったのに全員並んでいないと言っては、制服に着替え直して集まり、次は3分間で体操服に着替えさせられた経験のある人は大勢いるはずです。女子の協力も実り、野々村先生を始め体育料の先生方の強力なアピールもあって、昭和50年前後に、やっと平石先生から「今年は女子を先に泳がせてみよう。あまり進行が遅れると元に戻す」といわれ、ずいぶん気を揉みましたが、終ってみれば、例年と大差なく、その後の水泳大会は、今の形に定着しました。女生徒は、授業が厳しくて、つらい思いをした人が大勢いたことと思いますが、黙々と努力することによって、出来なかったことがいつの間にか出来るようになった「成せば成る」という喜びや自信が、卒業してから得られた人も数多くあったのではないかと思っています。北野は、この日々努力する、努力を積み重ねて将来のための実力を地道に築きあげていくというタイプの生徒が多かったからこそ、北野を高めてきたと思います。
努力といえば、女子の縄とびがあります。これは、当時の体育の授業が、週男子4時間、女子2時間だったことで、高校を卒業すれば、体育というものにほとんど縁がなくなる女子にとって2時間ではあまりにも少なすぎる、この少ない2時間で体力のつくものをとり入れたいと考えて始めました。準備運動として、心肺機能を高めるし、脚力、バランス感覚、リズム感なども同時に養える縄とびは、一石二鳥の運動だと思いました。始めた頃は、一回旋一跳躍と前回しの二重跳びだけだったのですが、バスケットボール部の女生徒がある放課後に、「先生こんな跳び方できる?」と後ろ回りの二重跳をとんでみせてくれました。さっそく挑戦してみましたが、すぐには続きません。それから3〜4日秘かに練習してどうにか連続10〜20回は跳べるようになりました。馬力だけはあったけれど、技術取得に時間がかかる(つまり器用でない、どんくさい)私が、練習すれば跳べるようになった。これは生徒も必ず跳べるようになると確信して、その後の授業にとり入れました。
恨みの縄跳び、跳べるまで追試をする鬼の松浦とかいろいろ言われましたが、女子の体力や根性をつけるためと粘り続けました。特に恨まれたのは、女子だけに縄跳びが課せられたからだろうと思います。今でこそ、男女共に縄跳びをしていますが、始めてから15年間位は、女子だけで、おまけにテストまであったので、勉強、特に大学入試を真剣に考えている生徒からは、ずいぶんと非難されました。いくら女子生徒の体力作りのためという大義名分があっても、「何で女子だけ?」「跳べない者のつらさが分ってない」などの恨みのまなざしに耐えきれるほど強い私ではなくて、5年に1度は「やめてしまえば、この恨みの重圧からのがれられる」と弱気になりましたが、野々村先生はじめ体操の先生方から、「女子が縄跳びに挑戦してがんばっている姿は素晴しい、頭が下がる思いだ。がんばって続けなさい」と励まされたり、又恨んでいるはずの追試常連の生徒が、卒業してからたずねてきて、「縄跳びを跳ばされている時は、恨めしく思ったけれど、3年間で跳べるようになった自分が信じられない気持ち、跳べた自分をいとおしく思う、自分に自信ができた。先生、続けて下さい」といってくれたりした事が、ぐらつきながら、縄跳びをひっぱってきた私への励ましとなって、北野の縄跳びとして定着するようになりました。時々弱気の虫が出る私を、どうにか続けさせてくれた多くの先生方や卒業生の皆さんに「励ましありがとう」と大きな声で申し上げたい気持で一杯です。
最後に、北野生についてまとめとしたいと思います。担任の時以外は、女子生徒ばかり教えてきましたが、始めにものべたように、昭和40年代は、少ない女子、行動の遅い女子と常に男性優位の立場に置かれていた女子に、女子は劣っていない、男子を上回る美点がある、男尊女卑の風潮を、打ちやぶる女子を育てていこうというのが私の気概でした。この頃の生徒は、寡黙で、回りの情況をよく把握して、適切な行動がとれる「大人」が多かったように思います。女生徒も、世間の目から見れば、野暮ったくみえるほど、よく勉強していましたし、一見、愛想悪いようなよそよそしい態度でいながら、ちゃんと自分なりに先生や友達を把握しているなあと感じた出来事があります。それは、妊娠6ケ月頃の走高跳の授業(もちろんその頃は砂場で)で、ベリーロールのフォームの説明をした後、1クラスに2回だけしか跳んでみせられないから、よく見ておくようにと言って跳ぼうとした時に、「先生が口で言って下さったら、私達は一生懸命その通りやります。先生は座って指示して下さい」といって椅子をもってきてくれました。妊娠中の跳躍は身体によくないという大人の配慮ができる生徒達だったといまでも思い出すたびに、ホロッとしてしまいます。とにかく、長期見学の余儀ない病気の生徒、身体に障害をもち、体育に参加できない生徒も、それぞれの立場で、自分の出来ることは参加しよう、やってみようという気構えをもっていて、若い先生であった私に、多くの感動を与えてくれました。またこの感動は、私に体育とは何だろう、実技を行うことだけが体育なのか、よき体育教師たるにはどうすればよいのかなど、自分を問いつめるものでもあり、能力の最大限を引き出せる授業をと、私を発奮させてくれるものでありました。
北野は、生徒に最高のものを与え、教えるというところだけではなくて、生徒にも数多く教えられるところであると思います。感動をうければ、人間はやる気が湧きでてくるものです。その感動を数多く与えてくれた、北野と生徒の皆さん、31年間、本当にありがとう。