六稜会報Online No.30(1996.9.15)


    ●想い出の風景
    わが校舎わがグランド(1)

    bld.


      十三校舎新築のころ

      森島重勝(45期)

       45期生は、十三校舎の最初の五年生、つまりは現校舎の第一回の卒業生である。その校舎も早60余年を経て、建て替えとは…。私ども45期生の手で、第一の爆破のスイッチを押してみたい気もする。

       昭和6年(1931)3月末、全校生徒は手に手に、博物標本、地図など小物類をさげ、大八車に机椅子を積み、長い行列を連ね、ガタガタ揺れるボロ十三橋を渡り、たもとの「十三やきもち」をほおばり、引越しを手伝う。

       芝田の校舎は明治35年(1902)建設のしろものだけに、床板も腰板も継ぎはぎだらけだった。そんな校舎で4年間暮らした私どもには、十三の新校舎は見るものすべてが新品、しかもその華麗さに目をみはるばかり。

       第一に度胆を抜かれたのが講堂だった。正面の壇上の立派なこと。上を見ればシャンデリア。それに広いこと。「これなら全校生徒みな入るでえ」と感嘆。その筈、4年間の芝田校舎では全校生が一堂に会しての式があった記憶がないのだ。校舎の外壁がクリーム色のタイル張り、全校内にスチーム暖房がついているときた。3階教室は明るく、外に目をやれば淀川の堤防、対岸には梅田のビル、阪急電車の鉄橋が見え、日当たりがよく暖房もきいていて、のせている弁当のお菜のほのかな香りに、こっくり組が頻発する。

       同級生塩浜文雄君がうたう。「北大阪線からは、剣道場の破れガラスがよくみえた。一日雨が降れば、二、三日朝礼なしの運動場。式は二部に分かれての講堂、しまいには講堂の中に教室もできた。狭くて、夏は汗臭く、冬は寒風入り。唯一のストーブに全先生が集まる職員室。今度はうちの学校、鉄筋だぞ。クリーム色のビルディング。ボロからのがれた我々に『きたの! きたの!』と淀川が迎えてくれた。うれしいな。」

       11月に落成式がある。校友会誌『六稜』第74号はその記念誌とするので投稿大募集と発表された。我こそはと大勢の少年文士が名乗りをあげた。しかし、この落成式は、校内チブス事件のため延期となり、我々が去ったあとの4月に挙行された。

       記念式の歌の歌詞は5年生塩浜文雄君が当選、佳作に同じ仲間の5年生、後の大文士 野間宏君のが入る。

       野間君の作品をご紹介しよう。

        水にときわのしるき 淀川べりにそそり立つ
        若きほこりの殿堂は 今こそ成れり 今ぞ成る
        山にみどりの影仰ぐ 学びの園は風光り
        百花匂ふ常春ぞ 祝へ祝はん今日の日を

       また彼は「野間令一郎」のペンネームで、「落成式 俳句で祝ふ」と二十数句を発表している。その内の五句を記す。

        落成式 黄金造りの 太刀はかん
        鳳凰の 飛び来るらん 落成式
        あらたふと 北野を包む 紫雲かな
        祝ひせん おくりものせん 雁の涙を
        落成や 身は幽遠の楽土かな


      柔道部試胆会の思い出

      新原知廣(72期)

       昭和32年、当時柔道部は春、夏ともに1週間の合宿を校内でやっていたが、夏合宿最後の夜に1年生の肝を試すことを恒例にしていた。入学して3カ月余りでは広大な北野には未だ不案内で、月明かりだけの校舎校庭を歩くだけでも結構怖ろしい。加えて先輩達が、なぜかウイスキーなどを持参して泊まり込んでは、北野にまつわるおそろしいお話をする。あることないことを。

       実は小生、平成6年4月より六稜同窓会の事務局長職を拝命し、ために北野の資料に接する機会もでき、いまさらこの校舎にまつわる事件の多さに驚いている。

       昭和6年現校舎落成の年、10月に原因不明の腸チフスが生徒間に発生、発病者45名中8名が死亡するという大惨事に見舞われた。学校が祈祷師に依頼しお祈りしたところ、宿直室の地下に地蔵の首が埋もれているとのこと、早速掘ったところ不動明王の首が出てきたりして、改めて地蔵祭をとりおこなったとか。もちろん犠牲となった生徒の慰霊祭もおこなわれた。

       昭和20年の大空襲では校内で校舎防衛中の生徒2名が直撃をうけて死亡、また動員先の工場で2名が死亡するという悲劇があった。  昭和26年に起きた定時制女生徒殺害事件はあまりに悲惨であった。9月10日の昼休み、清掃用具を取り出そうとした女生徒が教壇の下で仰向けになっている死体を発見、一週間後に犯人が他校の野球部員であった事が分かり、学内のものでなかったものの、ショックは尾を引いたという。

       私は昭和32年の夏、肝を試された。まずは暗い廊下を抜けて301号教室へ。手を合わせて、清掃道具入れの蓋の裏にサインをし、つぎに屋上に抜ける階段を上がる。死の直前に引き開けたであろう鉄扉に一礼しサインをする。グラウンドに出て、校長官舎の裏手から玄関へ、墓場跡と伝えられている音楽室裏を通り、弾痕の残る西壁の下を通って校舎に戻り、生物準備室、玄関、講堂前から宿舎にしていた307号室に帰る。途中予想していた先輩の悪戯も受けず、憂欝な気分のまま床についたと記憶している。40年経った今、校舎は当時のままそっくり残されている。十三花火大会は校舎の真南の河川敷でおこなわれる。今年も校舎の頭上に鎮魂の花火を降らせてくれることだろう。


    原典●『六稜會報』No.30 p.8