●六稜会館物語
六稜会館から旧図書館、現図書館へ
それぞれ十三校舎の何という建物でしょう?(十三校舎はよう知らんとおっしゃる先輩方には申しわけありませんが、どうか続けてお読みくださいますように!)
同じ建物じゃないか、ですって?
よくご覧ください。
「なるほど違う、[1]は知っているけれど[4]はなんだろう」と思われる方と、逆に「[4]は在校中、毎日その前を通ったけど[1]は何かな」と思われる方がいらっしゃるはずです。
答えは[1]こそ、母校が十三の堂々たる新築校舎に移転した1931年に同窓会が記念に建設した六稜会館なのであり、[4]はその六稜会館が1945年6月の大阪大空襲によって焼け落ちた跡に1953年、創立70周年記念図書館として甦った姿なのです。
[4]の70周年記念図書館も、写真[5]の創立80周年記念図書館に機能を引き継ぎ、現在「旧図書館」と呼ばれているのですが、これら3つのいずれの建物にも、同窓会は深く関わってきたのです。来年度、校舎改築工事が始まると工程からみて真っ先に取り壊されるという「旧図書館」に思いを馳せ、さらに失われた六稜会館の在りし日を求めて、校史資料を探ってみましょう。
新校舎移転後、着々校庭の整備も進み、10月10日には校長宅舎の完成をみたが、更に11月5日には六稜会館が竣工した。
「母校の新築を記念するため予て我会が計画を立て居たる記念会館の建築設計図は母校の建築を担当せられたる府の技師の手に由りて1月に出来上り居り実行委員の一覧を乞い少々修正を加へ何時にても建築にかかり得る運びに至り居りたるも新校舎敷地内の地均工事が案外暇取り従って会館の工事が遅れ……7月15日山之内工務所に請負金高一万二百五拾円にて請負はせることとなり設計仕様書及工事費内訳明細書を出した。学校内敷地使用は本会代表者として不二樹氏の名を以て府知事に借用方を願い出でありたるところ7月16日を以て府知事の許可書が出ました即ち体育館北手約50坪であります。工事は雨天続きのため7月28日起工し、11月5日工事が完成した。」(「六稜同窓会報」第9号)
1931(昭和6)年12月15日発行の同会報にはこの記事のあとに「母校新築記念六稜会館建築資金寄付者氏名」として11月1日現在計452名の氏名が挙がっている。
1931年は、4月1日に始まった十三新校舎での生活の中で、生徒職員一同は11月10日の校舎落成式に向けて期待と喜びをこめて準備を進めていたのであった。しかし思わぬ事件で10月下旬から11月上旬、北野は大揺れに揺れることになる。生徒数十人にチフスが発生し、その内8名が亡くなるのである。落成式は翌年4月に延期を余儀なくされた。また日本全体に目をやれば、9月18日に満州事変が勃発し、以後日本が戦争へと突き進んで行く年であった。
『目で見る北野80年史』には珍しい会館内部(2階)の写真[2]も一葉掲載され、次の説明がある。
「校舎新築とともに同窓会の手で建設された六稜同窓会館。階上は集会室・遊戯室などから成り畳敷。階下は生徒食堂に使われた。」
六稜会館がその後どのように使用されたかについては資料として残っているものが少ないので、ご記憶のある方には是非同窓会宛てに情報をお寄せいただきたいものであるが、『北野百年史』の記事を拾っていくと、階上階下とも、学校の要請に応じて様々に変遷を遂げながら利用されていったようである。
たとえば1935(昭和10)年から設置された工作科に対して「当時府下中学校長会の度重なる要請にもかかわらず、工作室建設費が府の予算では計上されず、やむをえず本校では同窓会館の一部を借用して工作室にあて」、翌11年5月工作室が特設されるまで使った。また生徒食堂の方は、皇紀二千六百年記念事業の剣道場の新設・運動場の修理拡張に加えて、生徒保護者会の「栄養方面より生徒の保健向上を図り度」い意向が実現し、1940(昭和15)年2月11日に六稜会館の奥手、既に前年のうちに新築された剣道場の北側に、厨房を備えて建設された別棟に移って行った。同じ昭和15年の校舎諸施設配置図に見ると、六稜会館は「生徒図書館(卒業生記念館)」と記されている。(『北野百年史』pp.1158,1218,1226)
六稜会館がいつから生徒図書室に利用されたかははっきりしないが、昭和15年卒、53期の中江要介さんは『六稜百年―その憶い出』の中で編集委員の問いの一つに答えて「楽しかったことは、片思いのS高女生が阪急梅田のホームを通るであろう時間まで、独りで、母校の図書館で受験勉強をしていた頃のことなど…。」と書いておられる。また1993年6月に図書館が同窓会理事会に合わせて図書館の変遷を知るためのアンケートをお願いしたところ、第2次大戦中の六稜会館についていくらか判明したことがある。2階が図書室であったのは、共通の認識であったが、より詳しい回答を頂いた60期の大岩重雄さん・柿木昭彦さん、お話をお聞かせくださった61期の坂本彬さんによると階下は園芸部やラクビー部等の部室で2階が図書室であった、グラウンド側の階段を上がって手前が自習室で西の奥の壁に作った書棚に千冊ほど生徒用の本があり、その書庫と自習室とは斜め格子の金網で仕切られてオリのようであったとのことだ。階下はクラブの部室が廃止となってからは倉庫として使われ、20年に大空襲で焼けた折は直径1メートルほどに巻いた上質紙が入っていたと言う。
日中戦争から太平洋戦争へと戦争が激化する中で、六稜会館の前では軍事教練の査閲が繰り広げられ、校庭に防空壕が掘られ芋畑やかぼちゃ畑が作られるまでになって、遂に1945(昭和20)年6月7日大阪第3回大空襲で六稜会嶺は全焼する。当日の様子を『北野百年史』は次のように書いている。(p.1320)「ついに淀川右岸・十三一帯も焼夷弾の襲撃をうけ、本校周辺の住宅街も、本校に隣接せる成小路国民学校の校舎もたちまち灰燼と帰した。本校では六稜会館、工作室、剣道場、食堂が全焼し、体育館も柔道場の半ばが焼け落ちたが、本館への類焼をまぬがれることが出来た。」六稜会館は鉄骨の外観だけを残して瓦礫の山となり、3日ほど燻り続けたそうだ。6月12日の学校日誌に「始業時刻、朝礼11時、昼食後12時より授業。焼跡の整理、焼残りの紙を生徒に頒布、ノートを作らせる。」(p.1322)とある。学校防衛中の2名の2年生が戦死したのはこの後6月15日の第4回大空襲によってであった。
北野120年の歴史の中でも最も大きな事件のひとつである「チフス事件」のさ中に誕生し、もうひとつの大きな事件「生徒の殉難」とともに姿を消すまで、六稜会館が眺めたのは、「15年戦争」の中の北野であった。
戦後、新制高等学校として北野も新たな出発をするが、昭和23年11月に着任した林武雄校長は13年4カ月に亘る在任期間にその後の北野高校の発展のさまざまな基礎を築かれた。戦後の荒廃の残る中で、林校長は図書館建設に熱意を抱かれた。創立120周年誌の編集委員が当時のお話を伺うため、図書館の係の中心であられた雫石鉱吉先生をお訪ねしたところ次のようなことをお聞きした。 「林校長は史学者としても有名な方だった。そのせいであろうか、特に図書館に力を入れられた。一面、古武士の風格を備えた先生は、PTAや同窓会にもファンが多かった。大和銀行の寺尾さん、池田銀行の清瀧さん、住友化学の土井さん、京阪副社長の今田さんなどにも力を借りて、昭和25年から毎年図書館のために積み立てをしていった。戦後間もなくのことで、紙不足もあって出版界は全く逼塞していた。古本に頼るしかなかったが、それも高価で手が出ない。図書購入に府費はほんのわずか、PTAの寄附に頼らざるを得ない。24年から普通教室2つを図書館にして、生徒図書部員がいて、最初のカードつくりから活動してくれた。昭和28年の創立70周年(現在の周年の教え方では80周年にあたる)に向けて校長から図書館を作ろうと言う話が出た。建物はどうするか。六稜会館の鉄筋を利用して改装しようということになった。改築の費用は400万円、鉄筋から始めると800万円と言われているが、鴻池さんが随分寄附もしてくれ力を貸してくれたと思う。焼けた高校で別棟に図書館があるというのは、他には無かった。北野が別棟の図書館を作るというのでえらいうらやましがられた。新しく出来たというのでよう見学に来てね。大阪の連中はもちろんのこと、館長会議なども北野で開いた。地方の連中も見学に来るし、注目されたね。とにかくトップ級で校長が予算面で非常にきばって出してくれた。」
設計には40期の高橋慶夫氏が無償奉仕であたり、建築には前同窓会長鴻池藤一氏(43期)の鴻池組の犠牲的奉仕があった。1階は貸し出しカウンターとカード室、司書室、図書部室、奥に書庫があり、2階は手前に新聞閲覧室、グラウンドの騒音遮断用のガラス戸の奥が読書室であった。「ライブラリーニュース」記念特集号で、林校長は「高等学校図書館としては第1級」のものになった事を慶び、今後のよき活用によって尽力くださった方々の期待に応えるよう求めている。生徒の側では、待望の図書館の完成は、「もとよりPTAその他の一方ならぬ御尽力ありとはいえ、実に70年の伝統に栄える諸先輩の非常な御尽力の賜物と心から感謝に堪えません。」と“先輩諸氏に贈る感謝の言葉”で述べ、学校全体の努力で先輩の期待と後援にこたえるべく精励する覚悟を記している。70周年の記念文化祭で“先輩著術展”が開かれ、優れた諸先輩から新たに自著の寄贈があった。(「ライブラリーニュース」については『北野百年史』p.1493)
図書館が各時代の建造物の一つとして価値があるのではなく、その蔵書の中身にこそ大きな存在価値があることを思う時、北野の伝統が息づく場所として大切に考えられて当然である。
同窓会は創立80周年にも記念事業として「母校に図書館を寄贈」を決定する。
「1968年3月 同窓会が[創立80周年]記念事業として取り組んできた新図書館が竣工した。総工費は、同窓会が1963年から6年に亘って募った932万円に、1967年度の府費とPTAの寄付金も合わせて、2500万円であった。鉄筋コンクリート2階建、総面積628.34平方メートル、1階にカード室・閲覧室・書庫・職員室、2階に自習室・小会議室を備え、建物本体及び内部施設にも十分研究がなされて建てられた、当時としては大変斬新な図書館であった。
前庭の整備などを終えて、7月7日、落成式が講堂で、また祝賀の小宴が南庭で開かれた。式典には、府教委その他の来賓・本校教職員・PTAの出席約70名に加えて、「笹部桜」の笹部新太郎(17期)、同窓会理事として50周年・60周年・70周年・80周年(すべて当時の周年の数え方による)に参与し100周年に同窓会功労者表彰を受ける石津作次郎(18期)、「難波の宮」研究の山根徳太郎(23期)ほかの明治30年代・40年代の卒業生を含む230名近い同窓生が列席した。「六稜会館」を改修・増築した「創立70周年」記念図書館の場合と同様に、六稜同窓会の母校図書館への並々ならぬ援助に対して、職員一同、深い感謝の念を捧げた。特に、先の70周年記念図書館建設時に続いて、設計・施工に関して格別の尽力をした高橋慶夫(40期、大阪建築事務所社長)・鴻池藤一(43期、鴻池組社長)に、式典で知事より感謝状が贈呈された。 」(『北野百二十年』p.197より)
新図書館が開館して既に28年が過ぎた。選定会議を経て一冊ずつ購入された書物はスペース不足の書庫を圧迫し続けながら増え、本年3月には65,614冊になっている。旧館には未整理の明治以来の教員図書がこの他に約1万冊ある。現在の状況を知るために「北野図書館報」第34号(1993年7月8日発行)の「本校図書館の昨日、今日、そして明日は?」から一部を引用しよう。
優れた卒業生の著作をできる限り集めている(六稜文庫)。
大阪関係の本の収集。
また本校図書館へは寄贈も多い。70周年先輩著述展に続いて、創立百周年にも同窓の各方面から寄贈を頂き、六稜文庫が充実した…
■歴史的蓄積を生かして
このような先達による蓄積があったからこそこれまでの校史編纂また周年の記念展示が可能となったのである。
■校舎改築を前に、将来の図書館に望むこと
質量ともに府下公立高校随一を誇ってよい図書館の課題は多く、かつ重い。思いつくまま、その二、三を挙げてみる。
校史資料の収集や保管は主に図書館の係で行われているが、常設展示は施設がないためもちろん不可能で同窓生在校生とも閲覧できるのは周年の記念展示の時ぐらいである。北野が持つ史料、資料、芸術作品などの紹介に代えて、これまでの主な記念展示を振り返ってみよう。
●北野百年展
北野百年の歴史を物語る資料展が1973年10月6日から11日まで図書館で開かれた。以後5年毎の周年展示の範となるものであった。
●創立110周年記念展示
卒業生の著作、学校所蔵の佐伯祐三・林重義・吉原治良・手塚治虫をはじめとする卒業生の作品、新たに出品を受けた和田守卑良(74期、陶芸家)・見市泰男(81期、能面作家)などの作品、さらには特別展示として村田校長みずから上京し借り受けた野間宏(45期、作家)の自筆原稿(『暗い絵』・岩波講座『文学』など)が、そして佐伯祐三の未発表作品・書簡などが本校図書館2階を会場として、11月1〜4日の4日間展示された。なお、新たに出展された作品の多くは制作者の厚意により展示後学校に寄贈され、現在本校のかけがえのない財産として、保管されている。(『北野百二十年』p.240より)
●北野120年展〜史料と作品〜
創立120周年には、絵画・写真・建築・書道における同窓会員の作品が、1993年9月30日から10月4日までナビオ美術館で催された「六稜会展」に出品された。
一方、北野の120年の歴史を文化史として辿ろうとする記念展示「北野120年展―史料と作品―」は図書館2階で11月2日から4日まで開かれた。当日用意された冊子(20頁)から一部の題目のみ記すと、普段はなかなか見ることのできない貴重な校内史料の特別展示---浜田耕作(12期に相当)放校処分前後の事実報告(原文コピー)/野間宏(45期)「同人雑誌『三人』の頃」(原文コピー)/佐伯祐三(30期)の書簡類(写真)/性行録 大正2年度 佐伯祐三と佐伯勝の部分/校歌 原譜と関連資料---に加えて、校内保管の重要書類---本校行事年報(大阪府第一尋常中学校)/府下尋常中学校長会議録 第一冊(明治29年起)/大阪府中学校長会議録 第二冊(昭和3年10月以降)---その他「六稜同窓会報」『六稜』『創立50周年』等記念誌、『北野百年史』、クラブ部誌に卒業生・旧職員の著作、昭和24年春の全国選抜野球大会優勝旗などが出品された。
この他にも、図書館2階で105周年、115周年記念小展示も開かれた。
現在、同窓会では、新校舎竣工の2001(平成13)年に合わせて同窓会館(兼資料館)を建設するべく、あらゆる方面からの検討を始めています。会員相互の交流・親睦がはかれる会館であるとともに、北野の所蔵する芸術学術的資産、多くの歴史的教育資料を保管・展示できる資料館、北野文化の発信基地となれる施設を兼ねる形が考えられています。同窓会会員の総力を挙げての取り組みが必要となりますが、その取り組み方については次号で提案させていただきます。同窓会、長年の夢であった同窓会館建設に向けて、今後ご協力を何とぞよろしく。