六稜会報Online No.29(1995.9.15)


    訃報


      田上泰昭先生ご逝去
       平成7年5月8日、田上泰昭先生が亡くなられた。先生は、昭和30年に北野に着任、平成2年退職、その後も講師として北野の教壇に立ち、熱意と愛情を込めて漢文の世界を語ってこられた。先生の授業に魅せられて、中国学の専門家になった卒業生も多い。先生は文学を愛し、水泳を愛された。水泳部はもとより、夏の水泳講習でお世話になった人も多いはず。野球やラグビーの試合には必ず応援に行き、花園出場の時は「北野そのものが美酒である」と語られた。

       かつて「私は72歳で死ぬことにしている」と書いておられた。72歳というのは孔子の亡くなった歳。還暦の時、だれより長く泳がれたという元気な先生のこと、80、90までもと確信していたのに、2年足らずの闘病のかいなく、65歳で旅立たれた。心よりご冥福をお祈りする。

       なお、ご蔵書の一部を先生のご遺志により北野高校及び六稜同窓会にご寄贈いただくことになっている。

       また、中国学研究者として、永遠の文学青年として、北野を愛する教師として、先生は多くの優れた論文やエッセイを残された。それらをまとめて著作集を発刊しようという計画が現在進められている。


      バカリキさん逝く
       バカリキこと六稜同窓会名物男の岡田喜雄氏(40期)が平成7年1月2日に亡くなられた。享年85歳。同窓会行事には必ず制帽、ハッピ姿で現われる岡田氏をご存知の方は多いであろう。北野を愛し、六稜魂を愛することでは決して人後に落ちないと、自他ともに認める人物であった。中津の北野中学跡に六稜の碑を建立するに尽力し、また近年は大阪城梅林の梅見の会の世話などもされていた。彼と親しい人達の間では、彼の思い出を語る集いを、との声も上がっている。

      「岡田君が、亡くなられる前に、1月1日にわしの家に20人か30人集まってくれないかと言ってきたのです。何分にも正月のことですから、もう少し先にしては、と言っておいたのですが、1月2日に死去されてしまいました。あんなことになるのなら5人でも10人でも集めてあげるべきだったと後悔しています。」(41期北橋忠男さん談)


    原典●『六稜會報』No.29 pp.16-17