ここでは、阪田寛夫氏の談を『どれみそら―書いて創って歌って聴いて』(河出書房新社、1995.1)から紹介しよう(一部要約)。因みに阪田氏は「椰子の実」の作曲者大中寅二(本校28期)の甥に当たり、自身も童謡「さっちゃん」の作詞者でもある。
明治の末、彼は東京音楽学校の助教授になり、小学唱歌教科書の編集委員に任じられ、高野辰之らと組んで、大正初めまでに、少なくとも12曲は作曲しています。「故郷」「朧月夜」「春の小川」「紅葉」「春が来た」など。彼は賛美歌育ちですから、メロディにはファもシも入っています。『日本の唱歌』(講談社文庫)の前書きで、金田一春彦氏が、日本の唱歌は賛美歌が手本になっていると書いていますが、岡野貞一の曲がまさにそれです。(略)岡野貞一は物静かな寡黙な方だったようです。クリスチャンですから、東京音楽学校を卒業すると、教鞭をとる一方で、本郷中央会堂という大きな教会のオルガン奏者を務め、聖歌隊を指導していました。
以来、42年間にわたって、昭和16年に63歳で亡くなるまで、オルガン奏者としての人生を過ごされたのです。ほんとに無口な方だったようで、近所に講道館の三船十段がおられて、二人で碁や将棋をよく指していたそうですが、三船十段も実に無口な人なので、向合って、しーんとしたまま延々と指していたとか。
わが校歌の誕生の経緯は『北野図書館報』第9号(1985.2)「六稜外史フラグメンテ(5)」に「『校歌』誕生七十年―作曲者岡野貞一のことなど―」と題して柏尾先生が書いておられるので次に転載する。
前年の11月に大正天皇の即位式があり、校歌はその記念行事の一環として制定されたことがわかる。『学校日誌』によれば、当日午後2時より講堂で祝賀式を挙げ、その最後―3時半すぎ―に校歌を歌っている。但し、おそらく合唱ではなく斉唱であろう。梶山延太郎校長着任3年目のことである。
作詞者の土井教授とは、いうまでもなく『荒城の月』の詩人土井晩翠(1871〜1952)であるが、作曲者の岡野貞一(1878〜1941)につき簡単に紹介しておこう。戦前の文部省唱歌「故郷(兎追いし彼の山)」「春の小川(はさらさら流る)」「朧月夜(菜の花畠に)」「紅葉(秋の夕日に)」や「水師営の会見(旅順開城約成りて)」「橘中佐(かばねは積りて)」「児島高徳(船坂山や)」、さらに「春が来た」「桃太郎」「日の丸の旗」などは彼の手になる。NHKテレビの名曲アルバム(故郷)で知った人もあろうが、鳥取藩士の家に生まれた岡野は岡山に遊学中、米人宣教師に楽才を認められた謹直な新教徒で、40年以上も本郷中央教会のオルガニストとして毎日曜日、礼拝の奏楽を担当した。
岡野は神奈川大、旧制長崎中学校、函館中部高校などの旧校歌を作曲したが、いまも「現役」で歌われているのは、本校のみであるようだ。
註)秋田県立能代高校の校歌も岡野貞一の「現役」のようです(卒業生の方から御指摘いただきました)。この場を借りて御礼申し上げますとともに訂正させて戴きたいと思います(Jan.20,2000)。