座談会 昭和20年 そのとき北野は…
出席者
■水鳥喜平先生(S1〜24在職)
■西村一男(60期)
■坂本 彬(61期)
■内藤壽一(61期)
■山本次郎(62期)
■脇田 修(62期)
■徳永行平(63期)
坂本■校長で区別すると非常によくその特徴を捉らえられるんですよ。というのは、昭和18年4月末で、ずーっと病欠されていた長坂校長が正式に辞められたでしょう。その後にあの有名な田村校長、ギョロが来たでしょう。そういう点で18年が北野の大きな転機になったと思います。
山本■今、18年ということをおっしゃったけれども、連合艦隊司令長官の山本五十六が死んだのが18年4月なんですよね。だから、これは日米の戦史の上でも一つの転機で、あのときから負け戦さに変わるんですね。
水鳥■戦争が始まったのが16年ですけど、その前から勤労動員が多かったです。私の親父が死んだのが14年ですが、そのときに淀川の堤へ勤労動員で行く計画を私がしておったものですから、親父が死にかけていると言われても、よう行けなかったですからね。ですから、勤労動員は昭和も13年くらいからぼつぼつ始まってはおりましたね。それで、長柄橋のところへ勤労動員で行ったのが割合に多かったです。それから、池掘りというやつですね。
脇田■貯水池ですね。
水鳥■そう、貯水池掘りも大分前から行っていました。
西村■120周年をやったときに言っていたことだけど、ちょうど僕ら60期というと昭和4年、5年生まれなんですよね。その世代というのは、生まれたときに満州事変があり、小学校に入ったときに支那事変が始まり、中学校へ入る直前に大東亜戦争が始まり、終わって大学へ行ったという、何か戦争とともに歩んだ生活のようなところがありましたね。それと、61期から後とは画期的に違って、名前が北野高校というのに変わる、しかも女性が入ってくるというようなことは想像もできない、60期、いま65、6になっている男連中の北野中学というのがあってね。18年頃というのは、ともかく北野へ入って、何か勤労奉仕で木銃を持って学校に通わされていた。その中で、よく逸話として言われるけれども、北野は軍人を作る学校とは違う、ジェントルマンをつくる学校だと、先輩からも先生からも常に言われていたような思い出がありますね。だから、田村校長が来られて、確かに急に軍事色みたいになって、被っている帽子でも僕らの年代から確か国防色の戦闘帽になりましたね。
内藤■それは田村校長の前から。
西村■前からです。だから、その辺から時代が変わったなという感じがしますね。
山本■僕らが北野に憧れたのは、あの白線帽と海軍式白ゲートルだったんですね。それに憧れて行ったんだけれども、確かに西村さんの60期、僕の2年先輩の方々は菜っ葉服に巻脚絆、戦闘帽というので、大分むさ苦しいイメージに変わっておりました。我々ももちろんそうでした。
西村■だから、62期の連中は、戦後、思春期になってから、白線を付けた黒い帽子を被ってた時代があるけれども、僕らそれがないのですよ。
脇田■敗戦後に、巻脚絆、巻ゲートルを我々はやめたんですね。今度はいいだろうと言って、あの白のゲートルに戻したんです。そのあと四ッ橋の電気科学館に行きましたら、MPが血相を変えてやって来て、水鳥先生が出て行かれてMPとやりとりをされたんです。そして、その次の日ぐらいにやめろということになったんです。どうもね、こちらにしてみたら元へ戻ったつもりだったのが、アメリカ軍から見たらマリンじゃないかということでね。
水鳥■ゲートルの話が出たから一つ言わせてください。北野の学生の特徴は、海軍の白いやつでした。陸戦隊のね。それでやっていたのですが、巻ゲートルに皆さん変えました。あれは結局、配属将校その他の方からきつく言うて来て、それで変えたんですが、それは割合に簡単に決まりました。ところが、今度、ついでに先生も巻ゲートルをせよと言う。しかし、大部分の先生はやらない。それは19年だと思います。それで私が校長室に呼ばれました。校長が「水鳥さん」、校長はいつも私を水鳥さんと言っていました。「あんたな、巻ゲートルにしてくれんか」と言う。僕はゲートルが本当に嫌いなんです。「いやあ、どうもあんまり好みませんな」と言ったんです。そしたら「あんたが巻ゲートルにしたら、先生たちもみんなしてくれる。だから、あんた、してくれ。これは校長が頼むんだ」と言うのです。僕は仕方ないから、職員室に帰りまして「いま校長からゲートルを巻けと頼まれたから、頼まれれば仕方がない。明日からおれはゲートルするぞ」とみんなに言うて、それで翌日から先生たちも皆巻ゲートルをしたのです。それをして、ずっとそのまま授業をしておりました。戦争が終わってもまだゲートルをしておりました。校長も浜田校長に替わりました。ですけど、まだ世間全体はゲートルを巻いてました。そこへ、クリステンセンという教育課長が学校視察に来ました。僕は、そのときクリステンセンに質問したのです。北野は白いゲートルをやっておった。その白いゲートルをやったのはなぜかというと、日露戦争の頃、生徒が軍事教練をやっておった。先生が足りないから5年生が助手になってやっておった。ところが、ズボンが破れてきたから、それを隠すためにハンカチだったか、手拭いだったかで縛った。それがスマートに見えた(笑)。みんなでそれのまねをやったが、そんなのをずっとやるのだったら、陸戦隊のあれをやろうじゃないかということになって決まったんだと、僕は聞いているのです。体操の先生で音楽の先生でもあった森田という人が日露戦争の頃からおりましたので、その先生から話を聞いたのです。それで、僕は戦争が終わったんだから、もう一回、北野の昔からの象徴であるところの白のゲートルにしたいとおもうけれども、どうかと僕は言ったのです。そしたらクリステンセンが「伝統は大事にすべきであるが、その時世にあまり合わないこともあるんだ。だから私はアドバイスとして言うが、ゲートルのような軍事色のものはやめた方がいいと思う」と言ったんです。彼が帰った後、会議室で校長が、先生たちにそのことを言って、校長の意見としてはゲートルはやめたいと言ったのです。それで他の先生も賛成して、すぐにやめるということになったのです。それで、私がそれに次いで「もうじき制服が夏服に変わる。いっそのこと半袖のシャツにしたらいいじゃないか」と言ったら、校長が「それがいい」と言うたんです。それで半袖のシャツが決まったんです。その時、平石さんが「わしが一つ作ってくる」と言うて、奥さんに見本を作らせて持って来ました。シャツに変えて1週間ばかり経ったら、大阪中の学校がほとんどシャツになりましたね。
水鳥■始まりはそうだったんです。あの頃、私が動員主任だったのです。なんで私を主任にしたか知らんですよ。
西村■その指示は大阪府か教育委員会みたいなところから来るわけですか。
水鳥■そうなんです。主任は各学校で決めたらいいのですが、私は正直なところ、まだ偉くなかったのです。だけど私が動員主任と企画係かね。
西村■僕らの記憶では、今日は中崎町、今日は何々町いうて疎開の家を潰しに行って、貯水池を掘らされて…。
坂本■あれは19年か。
西村■19年です。桜島の何やら倉庫へカンパンを干しに行かされたり。その日、学校へ行ったら「おまえ、どこへ行け」というような企画というか計画がありましたね。あれは先生がお決めになったんですか。
水鳥■そうです。府から「動員主任、ちょっと来い」、それで私が行くと、府の方はちゃんと何月何日はどこに何名ぐらいという大きな表を作って持っているのです。それで、北野はどこ行け、どこ行けと向こうが言うのです。ところがね、こんなことは今だから言ってもかまわないと思うのだけど、その時の教学課督学長は浜田先生(後の浜田校長)だった。私はそこで浜田先生と初めて会ったんだけれども、こう言うたんです。この戦争が終わったときに、今度必要なのは何かというたらば頭の問題です。だから北野などはやっぱりできるだけ勉強をさせなければいかんと思うんですけど、と。それに対して浜田先生は返事をしなかった。返事したら後で問題になる。その下の人にも僕は「いやあ、北野の生徒を勉強させておかなかったら、いよいよ戦争が済んでからあきませんがな」と言うたら、「そうやな、そうやな」と言うてくれたんです。だから正直なところ、ある程度は減らしてもらっておりますよ。よその学校よりは動員が少なかったはずです。
内藤■そういうことは我々の記念誌(61期記念誌『十三堤』)にも誰かが、水鳥先生のおかげで動員が減ってどうとか書いてました。
水鳥■私にね、「先生、ここは格好いいけど、ここは事故が多いところだ」というようなことを内緒で教えてくれたです。それやったら、なるべくこっちの方へ行かしてくださいと言うて…。とにかく北野の生徒はもっと勉強させた方が得だということは向こうも知っていたからできたことで。
内藤■学生は勉強するもんや、そのために学校へ入ったんだ、だけど、その頃、学生は戦争に勝つための戦力というか、勤労の労働力として位置付けられていて、国全体がそういうふうにずーっと流れているから、勝手なことは言えないような状況だったと思うんです。私は長男で兄貴が北野にいるというのではないから、昔と比べてどうかというような比較はわかりませんけれども、2年の途中までは普通の授業だったですね。
坂本■そうです。北野はよう授業してましたよ。
内藤■教練とか入ったり、運動会なんか違うなという気はしましたけれども。本当に授業が他のものに食い込まれて行ったのは…。例えば服部緑地の開墾だとかね。
坂本■それは1年からありましたね。
内藤■初めの内は、生物の延長みたいな形でね。
坂本■そう、農業実習のね。
西村■学校の道挟んで向こう側に農園があって、そこでウマさんが親玉になって農業実習したんです。
内藤■19年の中頃から、教室の中でやる授業では戦争に勝てないというような感じで、学問を強化しなくなったんじゃないかと思います。
坂本■それとね、戦争が済んで50年経ってしまうと、初めから負けるに決まっている戦争に突入したように思うでしょう。そうではないんです。初めから負けるに決まっていたら誰もやらへんと思う。事実、初めの半年ぐらい、どんだけ華々しかったか。昭和17年18年頃までの戦争に対する考え方と、それ以後では全然違うんですよ。17年にミッドウェーで一応負けたでしょう。負けたけど、そのあと部分的には勝っておったのです。本当に負け出したのは昭和18年2月のガダルカナルの撤退、それ以後はどんどん下り坂で…。アッツ島の玉砕が18年5月29日かな。「海行かば」が流れて、暗い気持ちになったのを憶えています。1年生に入ったばかりやけど。
水鳥■生徒が私に「勤労動員に行かせてくれ、勉強しておれない」ということをよく言うてきました。授業をもっとやらせてくれと言うてきたのは一人もありません。それから、先生の方も18年以後は工場に出ました。あのときに「学校ではなく工場に行かせてくれ」と言うて来た先生が3、4人あります。
西村■現実には、学校に来るのに弁当を持ってこれない、勤労奉仕に出ますと食事が出ますから、そういうわけもあるでしょうね。
水鳥■それは確かにあると思いますが、配属将校などに焚き付けられたと僕は思うんですけどね。仕事をさせてくれと、生徒が相当言うて来ました。私は「まあ、まあ、うん、うん、だけどな、勉強しておけよ、今でないとできんぞ」ぐらいしか言いませんでした。
西村■配属将校とプロパーの先生との間は、ぎくしゃくするものがあったんですか。
水鳥■ありますけどね、出さんようにしておりました。先生たちは、学校に来たら朝遅刻してもいかんでしょう。工場に行っておったらごまかせます。それで、私は大体この先生はごまかしているとわかりますよね。校長が視察に行くとき、僕は何とかして知らさにゃいかんのです、先生にね。あの頃、電話がうまく通じない。大分骨折りました。自転車で走ってみたりね。だから大分私は他の先生を助けてやっていますよ。
山本■長坂校長がリベラルな人で、そういう人を北野の校長に置いておくのはまずいというふうな、いろいろな思惑があちこち上部の方であったんじゃないかというふうな話が、前回の座談会(本誌19号「北野の教育―戦中戦後篇」)でも出たのですが、そのときに長坂校長が教育勅語か何か読み間違えたのを誰かが指摘して摘発したというか、そんな噂を聞いているのですが。
水鳥■それは事実です。「宣戦の大詔」の最後が「昭和16年12月8日」でしょう。それを「明治」と読んだのです。教育勅語が明治23年10月30日、あればかり頭に入っておるものだから、ついああいうことになったと思うんです。2回それがある。
坂本■戦後の方にはわからないでしょうけど、昔は勅語を読み違えたら、それだけで退職はおろか、自殺までした人がおるのです。
山本■ギョロさん(田村校長)が壇上で何かの詔勅を読み間違えたんだが、ギョロは「もとい」と言ってね、それで切り抜けて、別に免職話は出なかったから、だから裏に政治色はあるでしょうね。僕らは昭和19年4月に北野に入ったときに、ギョロさんがヒットラーのような獅子吼を壇上からやって、我々はヒットラーユーゲントのごとき訓練を受けましてね。朝礼なんていうのも3時間続く。「今回は卒倒者が前回よりも少ない」とか言ってギョロが喜ぶ。我々、脇田や僕なんかの北野中学はギョロの時代から始まりました。
脇田■僕らは入った時からギョロでしょう。きつい人やと思ったけれども、それほど思わなかった。むしろ、しんどうなってきたのは、2年生になったころ。
内藤■やはり自由主義的な考え方のぬけない北野には少し骨のあるやつをやろうということで「おれが行って」という使命感で来はったと思うんです。
坂本■大分前に水鳥先生が「私は田村校長を軍国主義者とは思いません。あの人は官僚がたまたま誤って教育畑に入ってこられた人だと思う」と書きはったけど、本当にそう思いますね。
脇田■朝礼で、立ったままでそのまま真っ直ぐ倒れたのがいた。ギョロはそのとき「えらい」言うて褒めた。それで、日陰へぞろぞろと先に行くやつはけしからんと言うて怒った。
山本■僕はね、あの人は非常に単純な人という印象なんですよ。
水鳥■あんた方、多分お気付きにならんと思うが、あのギョロさんが坊主頭でなかった。戦争中も。他の校長は大抵坊主でしょう。
山本■髪を分けてポマードをつけていた。
坂本■よう憶えているな。ところで、ギョロはアルコールを飲むと人格がちょっと変わるところがあったでしょう。
水鳥■そいつはわかりませんね。だけど、あの頃、月に2本ずつビールの配給があった。私は飲みません。ただのやつは飲みますよ(笑)。いつもビールを置いておいて、私、企画係だから計画みなやっていたから、こいつは校長が反対するに決まっとるぞと思った時には、ビール1本持って行ってね、学校へ来る前に官舎に置いておきます。朝礼を済まして、校長が官舎に帰ります。官舎でちょっと休んで、校長室へやってきます。だから、第1限がすんだときに私は校長室に行って、この問題はこういうふうにしたいと思いますと言うとね、「うん、そうか、よし、やっとけ」と。ビール1本飲んで機嫌の良い時に(笑)。
山本■水鳥先生にはもっと長生きしてもらわな。そしていいことを話していただかんと。
水鳥■あんた、口ではそう言ってるけど、腹の中じゃもういいかげんにと(笑)。
坂本■僕らの同級生の赤松君が文集に書いてくれたのやけど、ギョロの若い時代のことを知ろうと思って、昔、鎌倉の女学校の校長してたから、鎌倉に話を聞きに行った。そしたら、すごく優しくて評判の良い先生だった。人間はいろんな多面的なものを持っている。ギョロもそういう面を持っていたと思うけど、それでもって戦争中の言動が免責になるとは絶対に思えへんな。
坂本■13日の夜から14日の朝ですわ。大空襲としてはこれが最初。爆弾を1個か2個落とす散発的な空襲は19年12月ぐらいからありましたが。
西村■うちは20年6月15日の空襲で焼け出された。その前から空襲があって、それで自分の家が焼けへんかったら申しわけないというか、何か肩身が狭くて、はよ自分の家が焼けてほしいなと、そういうところがあったんです。戦争遂行を積極的に捉らえて、勝つためには、というのと同時に、友達が焼け出されて何人か学校に来れんようになってどこかに行きよった。その友達に引け目感じて、はよ焼けたらいいのになとばっかり思っていたときがありましたね。
徳永■それはありましたね。
西村■それで、3年生で滋賀県の中学に転校したのです。そしたら、今で言う「いじめ」が完璧にありましたね。模擬試験をしますとね、トップ10人位は常に転校生なんです。授業なんておもろのうて、内容は低いし、話題も都会的でないし、すごい格差がありましたね。地元の有名校で、そう標準的に悪くはないんだけども、試験やったら、北野、神戸一中、東京の今の日比谷なんかから転校してきた連中が一杯おりますから、上の方の10人まで転校生、そんなら地元の子はひがむわけですね。だから、平常はぼろかすにいじめられたものです。
脇田■僕は転校しかけてやめたけどね。ちょうど敗戦になって助かったんです。ギョロがよう言うとったね。西に北野あり、東に四中ありと。
坂本■あの頃、北野では川尻さんの英語やとか、あんな参考書みたいなものは2年生位で読んでしまって、趣味みたいに読んでましたね。エロ本もよう流行ったけど。北野の学力は高かった。
山本■僕らが入った19年は、1学期は一応学校があったんや。そのとき一番記憶に残っているのはキャベさん、上坂先生、万国音標文字というのを徹底的に教えよったな。それはやっぱり時流に対する抵抗かな。
脇田■僕らのはいったときは、まだまともで、食堂もあったんちがうかな。
山本■カエルの肉のライスカレーみたいなね。1学期の終わりまであった。2学期から勤労動員に出た。大宮町の貯水池に行ったね。
内藤■授業がなくて工場へ毎日行ってても、工場でみんな受験勉強してましたね。
西村■教科書やなしに参考書いうのかな、豆単や赤い表紙の小野圭とか。
坂本■岩切が代数かな。
西村■今の若い連中がマンガの本を読むのと同じようにそういうものを読んでいたのです。
坂本■そうそう。ほかに読む物ないもの。活字に飢えていたから。
脇田■僕らのときはそうじゃないですよ。敗戦が2年生のときやから。まだ受験という感じはなかったですね。おかげで受験のときになって往生したわね。何もあらへんもん。日本史の試験なんていったって教科書はなしでしょう。僕は小学校で国史習って、それから中学時代はゼロですよ。
坂本■それで歴史の先生(笑)。
脇田■世界史の教科書をちょうど2年生で習っている時で、墨を塗れと言われて消した。
坂本■僕は経験せずにすみました。3年生やったから。
徳永■私らはズタズタに消しましたね。
脇田■僕はそれで歴史をやろうと思ったんです。一番衝撃を受けたから。こんないいかげんなことはあかんと、歴史をまじめにやろうと思いました。
西村■僕ら授業の時間が少なかったから、古代というたって天皇史観やったから、神武天皇から始まりますけれども、近代にきたら、もうそこで3学期が終わってしまう。若い連中と話してると、彼ら明治から現在までの総理大臣の名前を全部憶えとるものな。僕ら天皇の名前の古いとこばっかし憶えて…。
水鳥■神武、綏靖、安寧、懿徳と言うでしょう。あなたたちの頃はそうでしたか。
坂本■そうでしたよ。一番長いのは軍人勅諭です。「我が国の軍隊は…」というやつを初めから終わりまで覚えにゃいかんのです。
西村■よう憶えているな(笑)。
脇田■「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」、確か教練の試験に出た。
山本■それはタフやね(笑)。それはすごい。
水鳥■あなたね、滋賀県でしょうが。
西村■はい。彦根です。
水鳥■彦根から…。
西村■2時間かかりますね。道頓堀まで。
坂本■やってたんですか。
西村■やってへん(笑)。
徳永■校庭の芋畑、いつごろなくなりましたん。
坂本■それはカボチャが主で、芋はないと思う(笑)。
徳永■芋もありましたで。
坂本■この間も我々の会合でその話が出てね。昭和20年8月15日からしばらくの間の学校の様子がどうやったかなと。僕の記憶では、運動場は穴ぼこだらけやったと思う。至るところにカボチャを作っていた。確か10日位休みやったと思うな。その間に学校を整備して、9月の初め頃から学校が大体平常にもどったんじゃないか。
山本■いやいや、そんなのんきな休暇はなかったよ。毎日、服部農園へ行ってたもん。
坂本■いや、服部は戦後は全然いってないよ。
徳永■僕らは行きました。
山本■9月に授業が再開されたというけど、それからいろいろ問題があって、教科書に墨を塗る作業が始まるわけだ。
徳永■そう。読むなと言われてね。先生が前に立ちましてね、「読むな、何ページの何行から何行まで消せ」と言われて、そのまま消しました。
脇田■それで、もういっぺん点検された。塗り方が悪いと言うて(笑)。
水鳥■戦後すぐは、先生はまじめに授業やってくれなかった。もう少しまじめにやってほしかったです。先生方はボーッとしてしまってましたね。
坂本■虚脱状態ですね。
山本■水鳥先生はあのギョロの糾弾集会(本誌19号座談会参照)の日のこと憶えておられますか。
水鳥■私は初めて聞きます。全然知らないですね。
徳永■私ら1年生で、椅子がなかったから一番前に座らされた。
脇田■ものすごい熱気で講堂一杯やったな。
徳永■戦争が終わりまして、先生方が復員されてきて、多分10月頃まででしょうね。その時に、依然として「鬼畜米英をお前らは、もういっぺんやっつけにゃいかん」という話を何人もされましたよ。その後1年位すると、教員組合の仕事をされたりして、世の中が掌を返すように転換したわけですよ。だから、脇田さんが歴史に関心を持ったとおっしゃったけれど、私もその通りですわ。そういう世の中やったんです。ギョロだけをあまり言うたらいかんのです。
水鳥■田村校長は島根師範学校の校長に転任しました。私が聞いた話ですけど、PTAからも何とかしてほしいと申し出た。府の方もこれでは置いといてもどうもならんからというので、ちょうどあそこに口があったから。師範学校はこのときは高等専門学校ですから位が一つ上がっていきます。だけれども何といっても田舎落ちですから、田村校長の格好をつけてやったというところでした。これは余談ですけど、田村校長が師範の校長になって行ってから、校長会があって文部省に行く時に校長室に挨拶に来られました。浜田校長と私が何か話をしていますと、「やあ」と言うてやって来た。浜田校長は「ハッ、ハッ」と言うだけです。何を言っても「ハッ」だけ。帰る時も腰掛けたままで立ちもしない。あとで僕が「先生、ちょっと田村校長も寂しいじゃないですか」というたら、「だがね、何々先生と何々先生と何々先生の3人は私が何とかします。もう2人の先生は私にはできない。だから田村校長にこの2人だけは何とかしてくれと言った。ところが田村校長はそれをしてくれない。それどころか、その2人に今度の校長は君を嫌っているらしいぞ、気つけやと言うて行った。だから、あんな人に僕は挨拶しない」と言うのです。浜田先生というたら、やっぱりきつかったですよ。