六稜会報Online No.29(1995.9.15)

    ●【特集】戦後50年記念「そのとき北野は…」

    私の中の六稜の星

    北村 汎(59期)

    【きたむら・ひろし】東大卒後、米留学。1953年外務省入省。北米局長、外務審議官を経て1988年カナダ大使、1991年英国大使。1994年6月退官。現在は三菱商事顧問。


       B29爆撃機の低くて重い爆音が続くなか、私たちは勤労動員中の粗末な工場内の防空壕で、鉄兜をかぶり、両手で目と耳を押えながら、次から次へと落ちてくる爆弾や焼夷弾の落下音を聞き分けようとしていた。
      「ああ、これは大丈夫だ。それていった」
      「いや、こいつは近くに落ちるかもしれん」
       昭和二十年三月の大阪大空襲以後何度も繰り返されたアメリカ空軍機の来襲に、私たちの耳は、爆弾の風をきる音からその落下地点の遠近を聞き分けられるまでに慣れてしまっていたのである。  突然、ガツ、ガツ、という大地をえぐるような音がして、焼夷弾の鉄筒が防空壕の天井に接触しているコンクリートの道路に当たるのがわかった。
       「こりゃ近いどころか、頭の上だ」
       誰かが叫んで、防空壕の入り口に走った。
       「もう暫くここにいろ。今外に出ては危険だ」
       空襲の波が一段落したところで、わたしたちは外に出た。相当数の焼夷弾が工場内に落ちたようで、あちこちに赤黒い炎が燃え上がっていた。昼というのに黒煙が舞い上がり、それが雲を呼んで空は不気味な暗黒さを帯びていた。


       以上は、終戦の年の前半、私を含む北野中学四年生の一部が、動員先の工場で経験した空襲の一場面である。
       私たちが北野中学に入学したのは昭和十六年、以前から続いていた中国との戦争に加えて、十二月にはアメリカ、イギリス、オランダ等を相手とする大東亜戦争に突入していった。それでも、二年生の終わりぐらいまでは、北野の学校当局はできる限りの努力をはらって授業のための時間を確保していた。ほかの中学校が、軍事教練や食料増産のための農地開発などに多くの時間を取られていたなかで、北野は伝統的な授業を続けていたのである。恐らく当時の北野の先生方が、戦時中の特殊訓練を押しつけようとする当局や当時の時流に勇敢に抵抗された結果であったろう。しかし、その努力も長く時代の流れに逆うことはできなかった。
       加えてその頃、「葉隠れ精神」を鼓吹する新校長が佐賀から赴任してきて、従来の北野のやり方は「日本帝国の危機存亡の時」にふさわしくないとして、北野の「葉隠れ化」を図ったことも一因であったろう。とにかく、三年生になると、軍事教練に加え防空壕堀りや防火用水造りに連日動員されて、学校の授業は長期間中止になることが多かった。そして四年生になると、大阪近辺の軍需工場に動員されて、ついに授業は完全になくなってしまった。
       昭和二十年の三月以降は大阪周辺への空襲が頻繁に行われ、同期生のなかにも空襲で若い命を失ったものや、家を焼かれて大阪を去っていくものも出てきた。騒然とした雰囲気の中で、ただ毎日が過ぎていたのである。
       私たちは、「四年で卒業」という当時の文部省が取った異例の措置によって三月末に北野を卒業したのであるが、勤労動員の方は、六月末まで中学時代のまま続行すべしということで同じ工場に通っていた。
       卒業式もなかった。第一、北野自体が空襲を受けて校舎の一部を焼かれていたのである。私には卒業証書をもらった記憶がなく、また、通常ならば三年以上にわたって組長を務めたものに与えられる表彰状をいただいた記憶もない。ただ、そういうことに対する執着心がどこかへ飛んでいってしまった、というのが当時の正直な感覚であった。
       今考えると残念でならない。大阪名門の北野中学に入学し、とにかく卒業したのである。然るにその最後が、何かうやむやのうちに過ぎてしまったというのはいかにも残念である。しかし、そういう時代であった。それが、日本という国の姿でもあった。


       今回私に与えられた「昭和二十年―その時北野は…」という題を、多少ひねくって考えてみると、当時一緒に卒業した私たち四年生や五年生にとって、北野は確かに物理的には存在していたものの、修学の場としての北野は存在していなかったも同然であった。
       しかしながら、「伝統」というものは、こういうときにこそ威力を発揮するものである。それは、北野の先生や生徒のそれぞれの心の中にあって、いろいろな形を取りながら、ある場合には、当時の集団主義的軍国主義的雰囲気に対して有形無形の「抵抗」となって表われたり、或る場合には、与えられた仕事を常識的には不可能な日程で完成させるというような「頑張り」の形で表われたりした。
       私自身もいろいろと抵抗を試みたようである。夏休み中の軍事教練に出席せず、数人の友人たちと旅行に出かけたのが後でわかって、教練担当の元軍人教師から大目玉を食ったこともある。
       海兵や陸士をはじめ軍関係の学校への進学を必要以上に強要する雰囲気が、先輩や学校当局の一部に出てきたときにもやたら反抗して、「私はどうしても高等学校に進みます」と嘯いたことも度々あった。
       しかしながら、それは決して反戦思想ではなかった。当時の中学生として筋の通る立派な反戦理論を持つことなどありえず、第一そんな大それたことは考えもしなかった。ただ、時流に乗って内容の無い軍国主義的教育を押しつけようとした当時の学校当局の一部に対し、「果たしてこれでいいのだろうか」とか、「どうしてこうならなければならないのか」というような疑問を、「体」で投げかけようとしていたように思えてならない。いわば、時代の不合理や無慈悲さに対する言いようの無い不満と憤りを何とか表現したかったのであろう。
       このような「反抗」的姿勢は、当然のことながら、当時の先生方のなかにもあった。
       私たち四年一組が、中津のスレート工場で勤労動員していたときのことである。チャカというあだ名の北野生え抜きの漢文の先生が、私たちの監督教師であった。午前中の仕事を終えると昼食となるが、麦と大豆かすが九割を占めるどんぶり飯に、「実のひとつだに無きぞ悲しき」と歌った太田道灌の名を借りて「道灌汁」と名付けていた味噌汁と野菜のごった煮が毎日のメニュウであった。それでも、この一時間は私たちにとって唯一の楽しい休息時間であった。
       チャカ先生は、私たちと向き合って食事を終えると、黙って英字新聞をカバンの中から取り出して読まれるのが日課であった。戦争末期の「銃後」の軍需工場において、「ストライキ」「ボール」「セーフ」「アウト」という野球用語すら敵性語として廃止されていたその英語で書かれた新聞(現在のジャパン・タイムズの戦中版であったと思われる)を生徒の前で堂々と読むことは、勤労動員の監督教師としては相当勇気のいることであったに違いない。或る日、その先生と通勤の電車で乗り合わせた私は、どうして英字新聞を読んでおられるのか尋ねてみた。
       「君達はこの時局をどう考えているか知らんが、英語を勉強しておくことは大事だよ。必ず必要なときがくるから」
       先生はこう答えて、暫くじっと遠くを見るような目をされた。その時は、日本が「鬼畜米英」に負けて、彼らの言葉である英語が押しつけられて必要になるというふうには受け取らなかった。しかし、「この先生、普通の価値観とはちょっと違った、何か大きな将来を考えている人だな」という感じを受けたことだけは今でもよく覚えている。小林二郎先生の御健勝を祈る。


       あれから五十年、この日本にも、またこの私にも、いろいろ変化があり進展があった。
       私は北野を出たあと、旧制の第三高等学校、東京大学を終えて直ぐアメリカに留学した。チャカ先生に英語の重要性を教えられてから六年しかたっていなかった。帰国して外務省に入り、四十一年の外交官生活を送った。昨年、駐英大使を最後に退官して、現在日英協会の理事長や三菱商事の顧問などをしているが、自分自身の戦後50年を思うとき、やはり大東亜戦争の丸4年を過ごした北野中学時代の体験が、私の心の中で一つの心棒を造っていたことに思い当たる。それは、個人の自由が最も制限されていた時代に、そのちょっとした可能性を求めていろいろとはかない反抗をしたことであり、時流に流されないように自己主張をするための努力をしたことでもあった。顧みてありがたかったことは、私のような一生徒の我儘を或る程度許してくれた北野の伝統であり、その懐の深さであった。
       今また時流は、行き過ぎの方向に動いている。「節度なき自由」と「平和ぼけ」、さらに「この日本の国が平和であればいい。よその国の問題にはできるだけ関わりたくない」という「一国平和主義」がはびこりつつある。それらが如何に日本人を国際性の乏しい国民に仕上げることとなり、かつ、日本を国際社会の孤児に陥れる危険性を持っているかを憂慮する気持ちに欠けている。
       現在もっともしっかりしてもらわなければならない政治は、糸の切れた凧のように党利党略に右往左往している。そのような政治が日本の経済を駄目にする、というシナリオがすでに動き始めているにもかかわらずである。
       このような日本の現状を見る時、私は、この50年の間に北野に学んだ多くの人達が、その良き伝統たる「自由」と「節度」をそれぞれの人生航路に実現されていくことを期待してやまない。


    原典●『六稜會報』No.29 pp.6-7