六稜会報Online No.29(1995.9.15)

    ●【特集】これが新校舎だ

    校舎改築基本設計決まる


      平成9年着工、完成は2000年

       前号でお知らせしたように現校舎の老朽化に伴う改築工事がいよいよ行なわれることになった。体育館・プール・第二新館はそのまま残されるので、新築ではなく改築というのであるが、60余年にわたり多くの六稜生を育んできた現校舎と講堂は取壊され、全く新しいものに生まれ変わるのである。

       このたび、基本設計報告書が大阪府建築営繕部ならびに高橋上田設計事務所から公表され、建築計画が明らかになった。この設計案成立には建築家竹山聖さん(85期)と高橋上田事務所の高橋清文さん(72期)大谷明徳さん(78期)の多大なご尽力を得た。また、あくまで基準通りの建築を行なおうとする府に対して、北野らしい斬新な設計案を主張し実現にこぎつけたのには、足立前校長と現在の山崎校長を始めとする北野高校全日制・定時制の教職員の団結、府に陳情を行なった稲畑会長以下の同窓会諸氏の熱意が効を奏したにほかならない。

       昨年の総会卓話で竹山氏が述べたように、「平成の名学校建築」として、また21世紀にふさわしい学校建築として、全国に誇り得るものになるであろう新校舎を紹介しよう。

       なお、大阪府の財政上の都合により、平成8年度に実施設計が決定され、着工は平成9年となる。おおよその工事工程計画は次の通り。

        平成9年度 テニスコート・旧図書館撤去
              (同窓会事務局は第二新館に移転)
              新校舎(東部分)建築
        平成10年度    〃
        平成11年度 旧校舎西半分撤去
              新校舎(西部分)建築
        平成12年度    〃
              旧校舎新館撤去
        平成13年度 校庭・周辺整備


      同窓会館(資料館)建設に同窓会の総力を


       完成模型にはあるが、設計図にはないもの、それは同窓会館(兼資料館)である。新しい同窓会館建設は六稜同窓会の長年の願いであった。また、北野の歴史は大阪の教育の歴史でもあるので、われわれは北野が所蔵する多くの資料を保存していかなければならない。これを実現するには、同窓会会員の総力あげての取組みが必要である。具体的な方針は今後の問題ではあるが、その際にはご協力をよろしくお願いする。

      2001年校内ツァー

       今は西暦2001年。北野高校の校舎が新しくなったというので、さっそく見学。以下はその見学記(のつもり。新世紀先取りの気分でお楽しみあれ)。

       駅前再開発工事中の十三駅前を通り過ぎて北野高校校門に。かつては通用門ないしは裏門と呼ばれ、「君等はみな裏口入学だ」とからかいのタネになった市道淀川北岸線に面したこの門が「正門」に昇格。入るとすぐ左手に資料館兼同窓会館。その先の車まわしに面して図書館と玄関がある。図書館・同窓会館と校壁の間にある「読書の森」が緑陰を作っていて、壁一つ向こうの騒音がウソのよう。

       昔ながらのケヤキ並木のアプローチを進むと、右にはプール、左には曲面の壁のモダンな建物。これが多目的ホールというもの。このホールの入口はと捜すと、なんと懐かしいあの楠の大木。ここは「くすのきの広場」というのだそうで、教室二階に通じるスロープもここから昇る。くすのきの奥に中庭があって職員室や特別教室はこの周囲に配置されている。

       ケヤキ並木を通っていると、つきあたりの東西に長く伸びた校舎の一階ピロティ(ふきさらしの柱だけの空間)の向こうにグラウンドでボールを追う生徒の姿が見える。このピロティが、夏の日には格好の休憩場所となり、雨の日にはちょっとしたトレーニングの場所にもなり、試合の時には応援席になるだろう。グラウンドからピロティを通って体育館に通じるあたり、「スポーツのテラス」というのだそうだ。ユニフォーム姿が大勢行き来する。スポーツがますます盛んになりそうだ。

       東から西まで180メートルもの長い校舎の2階には西半分に9クラス、3階にはズラッと18クラスの教室が並んでいる。この数年1学年は9クラスで、将来的にもそれが続くらしい。長い廊下を歩いていると、昔の校舎の廊下を歩いているような錯覚に陥る。教室にはグラウンドに面してテラスがあって、テラスに出ると淀川の向こうにスカイビルが見える。グラウンドにいる生徒に思わず声をかけたくなる。旧校舎のグラウンドを見降ろす廊下側の窓が、高くて見えにくかったのとは大違いだ。

       校舎の西の端から体育館に行く階段がある。この階段の側壁こそ、旧校舎の西端をそのまま残したもので、そこには第二次大戦時の爆撃の弾痕があるため、メモリアル・ウォールとして後世に残すことになったのである。タイルの色、肌触り、ここに60年以上も建っていたあの威風堂々たる校舎を知るてがかりがこうして残っていることはうれしいことだ。

       まだまだ見残したところは多い。それだけ見どころの多い建物なのだ。


    原典●『六稜會報』No.29 pp.4-5