北野図書館報より
北野高校図書館はよみごたえのある館報を発行している。その中から、同窓生にも興味のあるフラグメンテ(断章)を転載させていただくことにした。六稜同窓会としての将来の構想である六稜会館に併設される史料館からも、館報が発行され、大阪の文化に新しいページを加えることができればという願いをこめて御紹介する。
芝田町の済生会病院の位置に本校があった大正7年(1918)頃の話。
校舎の北側に宝塚少女歌劇最大のスター雲井浪子(NHKTV「連想ゲーム」の坪内ミキ子の母)が転居してきた。北中生たちは朝礼後の駆け足でその前を通ると飛び上がってのぞき込んだりした。宝塚ファンとなって通うものも出てきた。ついに学校は生徒の宝塚行きを厳禁する。
この処置への反発からか、教室(講堂説もあり)の机(板塀説もあり)に
娼婦の媚を見んと欲すれば宝塚へ行くべし
と大書するものが出た。さあ大変、きびしい詮議となったが犯人は不明。今秋逝去の高橋貞郎氏(34期尚文堂前会長)も半世紀後の回想文でこの事件にふれている。
当時5年生の梶井基次郎(32期)が実は犯人だった。
『檸檬』の作家は、厳格で有名な英語の稲津慧峰先生にひそかに告白して「胸がすうっとした」と三高入学後、親友の大道俊英氏(32期)に話したという。
梶井基次郎のある本質にふれる挿話ではなかろうか。
明治6(1873)年8月12日、大阪府学務課(課長日柳政愬)は各小学校へ、集成学校(本校の前身、英語で全科を授業、校内では「平常ノ談話卜雖モ習熟ノ為メ洋語ヲ用ユルヲ善トス」と定めた)に優秀な女生徒を試験のうえ入学させるから、各校一名推薦し、明13日午前8時に同校へ出頭せよ、と命じた。
短兵急もいいところだが、女子に学校教育は不要とする人びとが圧倒的であったその頃だから、生徒・父兄・小学教師のすべてが困惑したようだ。集成校へ「女生徒罷出様御達候、病気多ニ付、断書」を関係者が持って行ったりした(『北浜学校日誌』)。
18日午前8時にやっと女子教場開業式があげられたが当日の入学生徒10名、うち2名の姓名が判明している。秋田美津と津田らく、彼女たちこそ本校最初の女生徒である。
但し、教室は男子と別々であったらしく、授業もフランス人女教師レイモント(16歳)が担当した。
時代を先取りし過ぎた共学は、しかし定着せず、レイモントは明治8年4月で満期解約、女生徒は13年3名在籍の後は昭和23(1948)年の学制改革による大手前との交流まで68年間、その姿をみることがなくなるのであった。