須田 明(57期)
【すだ・あきら】昭和25年、東京大学農学部水産学科卒業、農学博士。
昭和25年、水産庁南海区水産研究所ならびに遠洋水産研究所にてマグロ研究に従事(昭和42〜47年、FAOマグロ専門家会議委員)。
昭和50年、水産庁研究部、参事官。
昭和54年、水産庁養殖研究所所長(昭和51〜平成6年、海洋開発審議会専門委員)。
昭和56年、日本栽培漁業協会常務理事(技術担当)。
平成3年〜、日本鰹鮪漁業協同組合連合会特別嘱託。
昭和24年のことであった。船は40トンの木造船。銚子の漁船をチャーターしたものである。漁場は小笠原。エンジンは自慢の戦車の改造エンジン。ところが出港して2日目の夜、そのエンジンがぶっこわれた。エンジンが止まると水が入ってくる。バケツリレーも空しく、船は水船となる。この辺りは、すでに黒潮の向こう側、青ガ島も越えた辺りであった。海流はアメリカを向いて流れている。夜になると船の中から波の音が聞こえてくる。こうして、8日間の漂流生活が始まった。士気を鼓舞するために船頭(船の全実権を握っている怖くて偉い人、この人は船主だった)はギンメシを炊けという。船についたサメを釣って、その肝を煎って脂をとって、前の航海で釣ったカツオやサワラの天ぷらを作る。旨いメシにありついたが、これから先が大変である。毎日、マストに上がって双眼鏡で助け船を捜す。夜になると、ドラム罐をマストに担ぎあげて重油を燃やすのである。これはよい目印になる。果たして8日目の夜、焼津のカツオ船が見つけてくれた。こうして私の初航海は終わった。銚子で下船するときに下に船頭が立っていた。ピョコンと頭を下げたその船頭に、「これで海は怖いものだと思って下さるな」と言われた。胸が熱くなった。こうして一生、マグロと道連れになったのである。
卒業して、国のマグロ研究チームの一員になった。その直後にマグロの研究所は南国高知に移転した。当時、日本のマグロ漁業は急速な拡大期にあった。新漁場の生物学的な特性を知ることと、その生産性を評価することが仕事だった。この頃は随分船に乗れた。調査船よりは業船が好きだった。赤道の海を走りまわった。海も空も真っ青だった。人生で最も楽しい日々だった。半年以上、海上にいたことも何回かあった。結婚したのもその頃だったが、女房が初めて小生の顔を見た時、それはそれはギョッとしたらしい。日本人離れした黒さだったようである。
そんな或る日、水産庁の廊下を歩いていると、「おい須田、ちょっとこい」と呼び止められた。当時の水産庁はこのように荒っぽい役所だった。その頃、パプア・ニューギニアは豪州の信託統治下にあったが、国連で地域開発の遅れを指摘され、困った豪州が我が方に漁業協力を申し込んできた。さてアイディアはあるかというのである。なんぼでもありますがカツオが一番ですと申し上げた。当時、赤道の南側のカツオ資源については余り知られていなかった。そんな所にカツオがいるのかと半信半疑である。カツオは絶対いる。カツオがいるかいないか今更調べる必要はない。問題はカツオ釣り用の生き餌を確保することだけだと言った。こうして、カツオの生き餌を求めて、ニューギニアから、ラバウル、キャビエンと珊瑚礁のなかを歩きまわることになった。沖縄には昔から追い込み網という独持の漁法がある。これは南洋の灯火に集まらない小魚を獲るにはもってこいだと思われた。こうして復帰前の琉球水産試験場にも協力してもらうことになった。私の乗った現地の調査船は約10トンのボロ船、夜になると珊瑚礁の奥深く投錨する。真っ暗なジャングルからの鳥や獣?の雄叫びは感激であった。乗り組みの大半は現地の人達で、彼等が真っ暗の海のなかに飛び込んでゆく。やがてデッキに貝が集まる。シャコの刺身を随分食べた。ラバウルやウエワクには戦争の傷跡も随分残っていたが、現地の人達とは随分親しく仕事が出来た。セピック河の中流にある部落の集会所を訪れた時に、鳥の形をした古い彫り物を貰った。あとでその筋の人からこれは通常貰える代物ではないとびっくりされた。5年の仕事が終わる時に、国旗(極楽鳥)のデザインの入ったタイピンとカフスを大臣から貰った。その後、この地域へは沖縄の人達を中心に多くの日本漁業者が合弁事業に出掛けていった。
実はこれより少し前、昭和40年頃から、マグロの仕事は急激に様変わりしつつあった。この漁業が急速に国際化していったためである。FAOのマグロ専門家会議を皮切りに、世界のあちこちでマグロの国際委員会が動き出した。国際会議ではしばしば国家間の立場の違いや、言葉の違いがあって、このことを思うと国を発つときはいつも鉛を飲み込んだ心地であった。英語の劣等生にはまことに辛い日々であった。
そんな日々の合間に、マグロの飼育技術の開発もやった。お前は正気でマグロを飼う積もりかと人々に冷やかされた。今日では、南日本のあちこちでマグロが飼われ、そのマグロが生簀のなかで卵を生み始めている。そのうちに、人工種苗を使ったマグロの養殖が始まる。また、資源の不足を一時的に種苗の放流で補うということも可能になるだろう。
ところが、昭和50年、200海里問題が沸騰しているときに突如霞ガ関に引っ張り出され、25年間続いたマグロとの縁を切られてしまった。霞ガ関では研究部参事官という役人臭い仕事で、200海里時代にそなえて技術問題を検討せよというのである。もうマグロのことは忘れることにした。かわりに、サケの放流技術開発や、海洋牧場の構想作りをやった。酒の味もこの頃になってやっと分かった。その後、早めにお国を辞めて、日本栽培漁業協会で約10年間、タイやヒラメの放流技術開発にタッチした。いつのまにか私も「作る漁業」屋だと思われるようになった。一方、この頃からマグロ漁業は苦難の道を歩きはじめたのである。外国からの輸入の増大、イルカの混獲問題、クロマグロのワシントン条約上程問題等々。しかし、そのようなことも、小生には薄々伝わってくるだけだった。ただ、私としては豪州のミナミマグロ養殖事業の発足に携わっただけだった。
一昨年、栽培漁業協会から二度目の停年退職をして今度こそ骨を休めようと思っていたら、日本鰹鮪漁業組合連合会からボツボツでよいから仕事を手伝えという話がきた。直感で、これはしんどい話だと思ったが嬉しかった。やはりマグロの血が騒ぐのである。今から考えると幸運なことに私は戦後のマグロ漁業史そのものを歩いて来たような気がする。しかし、マグロ漁業も私自身も若い頃とは違う。私自身について言えば、霞ガ関以来随分飲んだ。そして沢山の脳細胞が死んだ。耳も遠くなった。何よりも、本を読むファイトがめっきり衰えたのがよく分かる。ただ、マグロ漁業は死なせたくない。今月末には大西洋マグロ会議に向けてマドリッドヘ出発する。丁度50回目の外国行きである。
(六稜五七会記念誌・星霜五十年より転載)