深谷三治(31期)
今回の表紙の絵の作者、佐伯祐三(30期)に因んで、幼なじみの深谷三治氏(31期)の思い出の記をご紹介する。深谷氏は平成5年12月1日に91歳の天寿を全うして永眠された。この一文は昭和59年9月に書かれたものである。原文には祐三の兄、祐正氏のことや実家の光徳寺の図面なども書かれているが、北野に関する箇所のみに要約させていただいた(編)
彼の小学校の成績は中以上で、絵は上手だった。当時は手本に似た絵を描けば良い点をくれたが、彼は原画にない枠を描いたり、それに唐草模様を描き加えたりした。
彼は高等1年修了後、明治45年北野中学に入学し、僕は翌大正2年に入学した。当時の北野中学は、阪急線を隔てて直線距離200メートル位南にあった。
彼は野球部に、僕はテニス部に入った。彼は、ピッチャーとしては素晴らしい強球を投げるかと思うと、時にはホームベースにたたきつけるような暴投もした。バッターとしても大物を飛ばすかと思うと、大きく空振りすることもしばしばあった。アダ名は「ズボ」だった。ズボラの略である。
後に聞いたことだが、バッターボックスに立った時、来る球をあれこれとゆっくり考える余裕などはない、ここぞと思った時に全身の力をこめて打つ。絵を描く時も、いろいろ構図を考えた時よりも、急に頭に閃いたインスピレーションにより一気呵成に描いた時の方が快心の作ができたということである。
北野中学の絵の先生に、北野卒で東京美校出身の中村堯興という人がいて、その先生に卒業後どうするかと尋ねられた時、彼は、パリに行って絵の勉強をすると答えた。先生は、そんなことができるものかと言った。フランスに行くには船で1カ月を要した時代であった。
彼がパリで亡くなった時、結核性脳膜炎ということだったが、当時は結核なる言葉を口にするさえ憚られた。自宅光徳寺で取り行なわれた葬儀には、彼と北野中学の同級で特に親しかった坂本勝さん(後に兵庫県知事・県立近代美術館初代館長)も来ておられた。坂本氏は「菊の香や棺をめぐりて夜もすがら」という弔句を即吟せられたが、僕は芭蕉の「明月や池をめぐりて夜もすがら」と、漱石の「あるだけの菊投げ入れよ棺の中」の両句を結び付けられたものと思った。祭壇のローソクが倒れて、打敷の一部を焼いたが、すぐ消し止められたことを憶えている。