柏尾洋介
【かしお・ようすけ】もともと大阪市出身だが、1930(昭和5)年7月、府下茨木市に生まれる。旧制茨木中学校から旧制浪速高等学校に進むも、戦後学制改革で新制京都大学文学部の第1期生となる。1953(昭和28)年、京大文学部史学科西洋史専攻卒。1956(昭和31)年、同修士課程修了。その間、1955(昭和30)年より清水谷高校講師、58(昭和33)年数諭、66(昭和41)年北野高校へ転じ、91(平成3)年3月定年退職、特別講師となり現在に至る。
演劇部、弁論部、社研部、新聞部の各顧問の他、古くから陸上部も顧問。近年は美術部の顧問。また本文に記したように、『北野百年史』を分担執筆。『創立百十周年』を編集・執筆。昨年の120周年時には「北野120年展―史料と作品」を担当し、冊子執筆。
こうして、私は望まずして北野高校の教師となった。にも拘らず、定年まで25年間もそのまま北野で過したばかりか、その後も居坐り続けている。自分でも、帰化植物の如しと思うときがある。小稿は、このような私から見た最近約30年間の北野の、いくつかの小さな―しかし些細ではない事柄についての私記のつもりである。
4月7日、玄関の床面にローマ数字で1930とあるのを見て、この本館は私と同い年かと思い乍ら校長室へ入ると、正面の壁には佐伯祐三の『ノートル・ダム』が掲っているではないか。クリーニング前のこの作品は、暗い室内では輪郭も定かではなく、当時はマント・ラ・ジョリの聖堂とは知らなかったが、浦野校長との会話中、ともすれば私の目は画の方に向かうのであった。
4月8日朝、運動場に全校生徒がスピーディーに、かつ美しく整列した光景は印象的であったが、対面式で上級生代表が、敢然と学校の生徒指導の統制過多を批判する姿はそれ以上に印象的であった。その幾日か後の分会会議で長谷川寛治先生が、民主主義ではテニスと同様に、ルールに劣らずマナーが大切なのだと指摘された言葉とともに、1966年春の北野の、忘れられぬ幾コマかの情景の中のひとつである。
谷崎松子や友井由紀子の母校清水谷の生徒も好もしいが、北野の生徒が、始業チャイムとともに聴講態勢に瞬時に切り替え、ときには新入り教師に難問奇問を呈上する茶目っ気の持ち主であるのに私は大いに気に入った。「見知らぬ乗客」を教員は何気なく、他の職員は温かく迎えて下さった。この春は、岡島吉郎、島内義一郎、川井義通の三長老が勇退され、雫石鉱吉先生も池田高校長に転出されるなど、校史上からはひとつの曲り角の年であったのかも知れないが、常勤教員57名の平均年齢は、40.2歳、北野での平均在職期間9.5年(20年以上4、15年以上14、10年以上8、5年以上8、5年末満23)、そして私は35歳であった。(1966年の『学校要覧』より、誤りは訂正して算出。以下に引用の校内関係事項の数字も各年度の『要覧』による。)
演劇部にはじまって弁論部、社研部、少しおくれて新聞部など、ときには数部の顧問を私は兼ねたが、60年代末に高まった生徒の運動では、弁論部・社研部の諸君が中心になることが多く、私は彼らの頼りなき顧問として右往左往した。この問題については本連載でも、浦野・泉の両元校長と水落和沖氏の、それぞれに貴重な回想文があり、また記念誌『北野百二十年』で適切に要約と解説がなされているから、私はごく個人的な思い出と感想を。
多くの学園が文字通り荒れたのに、北野では授業が途切れることがなく、封鎖行動もなかった。勤評闘争でハンストに突入した教師たちが、授業は絶対に欠くことをしなかった学校に相応しいことであるが、北野における1967〜69年の生徒諸君の動きは、人間的な生き方を追求する学園闘争の原点に近いものがあったと私は思う。
「戦後」を自らに問わずに「吉田 茂、国葬」に従うことへの抗議(1967.11.1)は、彼らが明敏でおマセであったが故の行動という一面がある。この性格は終始変らず、北野は他校よりも早く揺れ、早く静かになった。その頃は府高教でも党派色を異にする二・三のグループ間の対立が激化していたが、北野分会は一方に与しない“独立”分会であった。何時だったか、当時の小巻敏雄委員長がオルグに来たときも、彼の入室と発言を許すか否か、委員長を室外で待たせて分会員は論議したものであった。この教師の気風との関連はわからないが、生徒の運動が外部のセクトに制せられることはなかった。あの「井上 清教授講演問題」(1969.6)も、結局は生徒諸君の、自らの進路を真剣に考える知的で自主的な空気が、大勢を決したのである。田上さんや藤尾直正氏ら二・三の同僚とともに、生徒との討論会に講堂へ引っ張り出されたとき、「先生は、なぜ生きているのですか」と質問されたことも思い出す。
京大の正門を入った築山にある大きな楠は、学園闘争中に伐り倒されようとしたが辛くも助かった。しかし痛ましい傷跡が残ったという。北野の大楠も校舎も、そのような不幸には遭わなかった。よかった、と思う。しかし、われわれ、いや私は生徒諸君の真剣な問いに、正面から応えたであろうか、恥ずかしく思う。
72年春であったか、私の執筆担当部分は、1873(明治6)年の欧学校開校から、1902(明治35)年の北野中学校と改称・移転までの初期29年間と決まった。もっとも興味深く意義深い時期であり、この部分を勉強したために、少し北野のことがわかるようになった、と今では喜んでいるが、72年秋、筆を執りはじめたものの、ことに前半期の史料不足に難渋した。近畿大学教授末中哲夫氏(55期)と大阪市史編纂所長藤本 篤氏の御好意で、近畿大学図書館と大阪市立中央図書館で『文部省年報』を閲覧、複写することができてからは筆が捗り、73年春には脱稿にこぎつけたのであった。
授業を正規に担当し乍らの執筆で、半徹夜が連続数ケ月に及んだが、その後の写真選択と校正作業も厖大であった。その上に百周年式典と同時に図書館2階で開催の「北野百年展」をも担当するという多忙と過重負担のため、執筆者はフェスティバルホールの行事に出向けなかったばかりか、百周年記念体育大会当日には全員ダウンしてしまった。私は73年度の3年学級担任であったが、今でもこの年の記憶は断片的で、86期生には申し訳なく思っている。
しかしながら、校史編纂に関わったお蔭で得られたものは甚だ多い。その中の一・二だけ記しておこう。
(ロ)『本校学事年報』綴1冊。1889(明治22)年から1926(大正15)年までの、各年度の校内状況を府へ報告した年報の控え。多くのことにつき、具体的な数字を知ることができる。他に1889年以前分の断片も残っている。
雫石鉱吉(1948〜61)→錦田眞和(1962〜66)→眞田重雄(1967〜70)→高木種夫(1971〜72)→山脇謙吉(1973〜75)→上田浩石(1976)→柏尾洋介(1977〜89)→小出 猛(1990〜 )
錚々たる顔ぶれの中で、13年間主任を続ける間に、社会相の急変に抗し難く、とわが無能ぶりを棚上げしていっておくが、蔵書冊数は増加して閲覧室の一部を臨時書庫に転用したものの、利用度は低下の一途をたどった。
年度 | 蔵書冊数 | 延べ利用冊数 |
---|---|---|
1953 | 19,470 | 14,104 |
1963 | 30,427 | 17,518 |
1968 | 34,898 | 11,675 |
1973 | 42,289 | 5,483 |
1978 | 48,621 | 3,746 |
1983 | 54,538 | 3,821 |
1988 | 60,277 | 5,793 |
1993 | 65,513 | 2,896 |
注1.蔵書冊数は全日制・定時制合算。ほかに旧職員図書未整理分1万冊以上。(延べ利用冊数は全日制分) 注2.1953年に旧図書館が、68年に現図書館がそれぞれ開館した。 |
図書館業務の大半は、すでに整っていたから、私の在任中に始めたことといえば、図書費の予算制導入(1978年度)と図書館報発行(1982年7月、年3回刊)くらいである。図書費の全額が府費になってからも、おおらかな北野の教職員は予算制を採らなかったが、少々不便につき、78年度に導入した。これに関する会計事務から分類・出納や生徒の読書相談などまで、図書館業務万般は助手の中川淑子さんの尽力による点が甚だ大である。
『休暇中の読書』を『図書館報』に発展させることができたのは、中野祐二・小川泰彦・寺井あかね各氏のおかげであり、題字は高岡靖弘氏が快く引き受けて下さった。
しかし、中野・小川・寺井・高岡の諸氏は、両三年来の促進人事で誰ひとりとして、もはや北野には居ない。
年 | 常勤 教員数 | その 平均 年齢 | 北野での 平均在職年 | 北野での在職期間 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
20年〜 | 15〜20年 | 10〜15年 | 5〜10年 | 〜5年 | ||||
1966 | 57 | 40.2 | 9.5 | 4人 | 14人 | 8人 | 8人 | 23人 |
1971 | 56 | 43.8 | 12.4 | 15 | 6 | 6 | 21 | 8 |
1976 | 57 | 44.9 | 14.2 | 17 | 4 | 17 | 7 | 12 |
1981 | 65 | 42.3 | 12.6 | 14 | 15 | 6 | 9 | 21 |
1986 | 67 | 39.5 | 9.0 | 13 | 3 | 5 | 19 | 27 |
1991 | 69 | 40.3 | 7.9 | 5 | 2 | 14 | 24 | 24 |
1994 | 64 | 41.8 | 7.9 | 3 | 2 | 12 | 23 | 24 |
最後に北野への批判と提言を少々。北野の校風がいつまで生きていられるか、心配ではあるが、元来から問題がなかった訳ではない。草創期は男女共学であったのに女性(教職員も生徒も)と教員以外の職員の立場を忘れ勝ちではなかったか。男子生徒のみを想定した校歌の歌詞を変えよ、などと馬鹿げたことをいうつもりは毛頭ないが、女性から見た、あるいは事務職員等から見た「北野戦後史」もあって良いと思う。北野の新しい発展のためにも。
(1994.8.12)