六稜会報Online No.28(1994.9.20)


    北野戦後史〜連載第16回〜
    私記・北野高校

    柏尾洋介

    【かしお・ようすけ】もともと大阪市出身だが、1930(昭和5)年7月、府下茨木市に生まれる。旧制茨木中学校から旧制浪速高等学校に進むも、戦後学制改革で新制京都大学文学部の第1期生となる。1953(昭和28)年、京大文学部史学科西洋史専攻卒。1956(昭和31)年、同修士課程修了。その間、1955(昭和30)年より清水谷高校講師、58(昭和33)年数諭、66(昭和41)年北野高校へ転じ、91(平成3)年3月定年退職、特別講師となり現在に至る。
     演劇部、弁論部、社研部、新聞部の各顧問の他、古くから陸上部も顧問。近年は美術部の顧問。また本文に記したように、『北野百年史』を分担執筆。『創立百十周年』を編集・執筆。昨年の120周年時には「北野120年展―史料と作品」を担当し、冊子執筆。


      はじめに〜強制異動第1号
       1966(昭和41)年3月28日、大阪府教育委員会は、突然、府立高校教員129名の4月1日付異動を内示した。清水谷高校で11年(講師3年、教諭8年)、その春も担任として卒業生を送り出したばかりの私は、その日の夕方浦野博夫北野高校長からの使者の来訪を受けて、自分が異動当事者のひとりであるらしいとはじめて知った。いま、突然の内示といったが、前触れめいたことがひとつだけあった。「適正」な教員人事異動の断行が急務と強調する府教委広報の最新号が、直前に全教職員の自宅へ郵送されていた。私の記憶では、茨木の拙宅へは当日すなわち28日の午前に配達されたばかりであった。寝耳に水、とくに郵便との飛脚競走のように教師が手軽に“飛ばされる”事態に強く反発した私は、大阪府立高等学校教職員組合の強制異動反対闘争に、分会役員の経験もないヒラ組合員であったが参加した。北野高校に赴き辞令を受けたのは、始業式前日の4月7日の午後になってからである。そこまで粘った一般組合員はほんの数名であったが、この異動方式は翌67年春、もう一度強行されたのみで取り止めになった。

       こうして、私は望まずして北野高校の教師となった。にも拘らず、定年まで25年間もそのまま北野で過したばかりか、その後も居坐り続けている。自分でも、帰化植物の如しと思うときがある。小稿は、このような私から見た最近約30年間の北野の、いくつかの小さな―しかし些細ではない事柄についての私記のつもりである。


      1966年春
       81期生の入学式当日とも知らずに、まだ清水谷へ“出勤”中の4月1日、私は北野の教師二人の初訪問を受けた。ひとりは社会科主任の錦田眞和先生で、先生は私の卒業論文のテーマなど専攻領域を確認の後、単刀直入に3年生への日本近代史講義に自信の有無を質されたが、授業の内容と方法は自由とされた。いまひとりは分会長の田上泰昭先生で、田上さんは簡明率直に、「闘って、そして北野へ来て下さい。」といって下さった。

       4月7日、玄関の床面にローマ数字で1930とあるのを見て、この本館は私と同い年かと思い乍ら校長室へ入ると、正面の壁には佐伯祐三の『ノートル・ダム』が掲っているではないか。クリーニング前のこの作品は、暗い室内では輪郭も定かではなく、当時はマント・ラ・ジョリの聖堂とは知らなかったが、浦野校長との会話中、ともすれば私の目は画の方に向かうのであった。

       4月8日朝、運動場に全校生徒がスピーディーに、かつ美しく整列した光景は印象的であったが、対面式で上級生代表が、敢然と学校の生徒指導の統制過多を批判する姿はそれ以上に印象的であった。その幾日か後の分会会議で長谷川寛治先生が、民主主義ではテニスと同様に、ルールに劣らずマナーが大切なのだと指摘された言葉とともに、1966年春の北野の、忘れられぬ幾コマかの情景の中のひとつである。

       谷崎松子や友井由紀子の母校清水谷の生徒も好もしいが、北野の生徒が、始業チャイムとともに聴講態勢に瞬時に切り替え、ときには新入り教師に難問奇問を呈上する茶目っ気の持ち主であるのに私は大いに気に入った。「見知らぬ乗客」を教員は何気なく、他の職員は温かく迎えて下さった。この春は、岡島吉郎、島内義一郎、川井義通の三長老が勇退され、雫石鉱吉先生も池田高校長に転出されるなど、校史上からはひとつの曲り角の年であったのかも知れないが、常勤教員57名の平均年齢は、40.2歳、北野での平均在職期間9.5年(20年以上4、15年以上14、10年以上8、5年以上8、5年末満23)、そして私は35歳であった。(1966年の『学校要覧』より、誤りは訂正して算出。以下に引用の校内関係事項の数字も各年度の『要覧』による。)


      “北野風”
       最初の数年間、教務部で時間割作成にかかわった他は、私の北野生活の大半は校史編纂と図書館業務で占められるが、その前に、いわゆる紛争に関連して、60年代末頃の教師や生徒の気風に言及しておこう。

       演劇部にはじまって弁論部、社研部、少しおくれて新聞部など、ときには数部の顧問を私は兼ねたが、60年代末に高まった生徒の運動では、弁論部・社研部の諸君が中心になることが多く、私は彼らの頼りなき顧問として右往左往した。この問題については本連載でも、浦野・泉の両元校長と水落和沖氏の、それぞれに貴重な回想文があり、また記念誌『北野百二十年』で適切に要約と解説がなされているから、私はごく個人的な思い出と感想を。

       多くの学園が文字通り荒れたのに、北野では授業が途切れることがなく、封鎖行動もなかった。勤評闘争でハンストに突入した教師たちが、授業は絶対に欠くことをしなかった学校に相応しいことであるが、北野における1967〜69年の生徒諸君の動きは、人間的な生き方を追求する学園闘争の原点に近いものがあったと私は思う。

       「戦後」を自らに問わずに「吉田 茂、国葬」に従うことへの抗議(1967.11.1)は、彼らが明敏でおマセであったが故の行動という一面がある。この性格は終始変らず、北野は他校よりも早く揺れ、早く静かになった。その頃は府高教でも党派色を異にする二・三のグループ間の対立が激化していたが、北野分会は一方に与しない“独立”分会であった。何時だったか、当時の小巻敏雄委員長がオルグに来たときも、彼の入室と発言を許すか否か、委員長を室外で待たせて分会員は論議したものであった。この教師の気風との関連はわからないが、生徒の運動が外部のセクトに制せられることはなかった。あの「井上 清教授講演問題」(1969.6)も、結局は生徒諸君の、自らの進路を真剣に考える知的で自主的な空気が、大勢を決したのである。田上さんや藤尾直正氏ら二・三の同僚とともに、生徒との討論会に講堂へ引っ張り出されたとき、「先生は、なぜ生きているのですか」と質問されたことも思い出す。

       京大の正門を入った築山にある大きな楠は、学園闘争中に伐り倒されようとしたが辛くも助かった。しかし痛ましい傷跡が残ったという。北野の大楠も校舎も、そのような不幸には遭わなかった。よかった、と思う。しかし、われわれ、いや私は生徒諸君の真剣な問いに、正面から応えたであろうか、恥ずかしく思う。


      校史編纂と記念展示
       1973(昭和48)年の『北野百年史』刊行を最大使命として、村川行弘氏を主任に、深江 浩氏と水落さんと私の計4人の委員からなる校史編纂委員会が、1968(昭和43)年に発足したとき、迂闊にも私は、校史の編述という仕事が殺人的オーヴァーワークになるとは見通せなかった。上述の、いわゆる紛争関連に時間と精力をとられることも多く、本格作業に入ったのは水落さんの回想にあるように、1971年になってからであった。校内史料の調査や史料探訪の多くは4人が共同で行なったが、分担執筆したB5判約2000ページの大冊を期日通りに完成できたのは、チームワークの良さとそれを作り出す村川チーフの力量による点が甚だ大きい。110周年・120周年などの記念行事を経験してみて、ますます、そう思う。なお73年春、新任と同時に委員となった弱冠23歳の加藤泰男氏の献身的努力も忘れられない。

       72年春であったか、私の執筆担当部分は、1873(明治6)年の欧学校開校から、1902(明治35)年の北野中学校と改称・移転までの初期29年間と決まった。もっとも興味深く意義深い時期であり、この部分を勉強したために、少し北野のことがわかるようになった、と今では喜んでいるが、72年秋、筆を執りはじめたものの、ことに前半期の史料不足に難渋した。近畿大学教授末中哲夫氏(55期)と大阪市史編纂所長藤本 篤氏の御好意で、近畿大学図書館と大阪市立中央図書館で『文部省年報』を閲覧、複写することができてからは筆が捗り、73年春には脱稿にこぎつけたのであった。

       授業を正規に担当し乍らの執筆で、半徹夜が連続数ケ月に及んだが、その後の写真選択と校正作業も厖大であった。その上に百周年式典と同時に図書館2階で開催の「北野百年展」をも担当するという多忙と過重負担のため、執筆者はフェスティバルホールの行事に出向けなかったばかりか、百周年記念体育大会当日には全員ダウンしてしまった。私は73年度の3年学級担任であったが、今でもこの年の記憶は断片的で、86期生には申し訳なく思っている。

       しかしながら、校史編纂に関わったお蔭で得られたものは甚だ多い。その中の一・二だけ記しておこう。


        1:北野の歴史的特徴について知ったこと。
         文明開化時代に、府当局の開明的政策の一環として創立された欧学校(集成学校)は、「中学」であるよりも「下等外国語学校」であると私は思うにいたったが、この開校初期の事情や性格の影響で、儒教的徳目から成る校訓がないのだといえよう。『百年史』以後も、この問題を少し調べてみた結果、『創立百十周年』の「六稜の人びと」と、昨年の冊子『北野120年展』の小文で報告したように、北野の教育では「至誠」「自由」「紳士」が戦前からの重要語で、これらの言葉は単独にではなく「自由」を要に、あるいは通奏低音として、「至誠と自由」「紳士(たること)と自由」という風に、組み合わされて働くとき、北野は成長、発展したように思う。
         基調は戦後も変わっていない。北野戦後史に屹立する林 武雄元校長の存在が何よりの証拠である。一般に、自由は平等とペアにされ勝ちであったのに対して、「自主性」あるいは「個の確立」と関連して尊重された。(『創立百十周年』に寄せられた「思い出るまま」など参照)120周年学校式典および今春の卒業式での六稜同窓会稲畑勝雄副会長(当時)の、大阪の歴史的特性や近代世界の傾向との関わりで「自由」の伝統を強調された格調高い祝辞に私は感動したが、これももうひとつの好例証といえよう。(稲畑会長の祝辞は「北野図書館報」第35号に掲載された。)

        2:多くの貴重資史料について思うこと。
         『北野百年史』は、主として校内所蔵史料に依拠して書かれた。百年前からの文書や図書が自然に残るわけがなく、数度の移転や災害、戦火を潜って、幾人もの教職員が苦労して保存しておいて下さったのだが、その中で、次の二史料が近代日本中等教育史上、ことに貴重であろう。

          (イ)『府下尋常中学校長会議録』2冊。1896(明治29)年から1940(昭和15)年までの、私立を含む大阪の旧制中学校長会議の記録。当番校長の自筆。

          (ロ)『本校学事年報』綴1冊。1889(明治22)年から1926(大正15)年までの、各年度の校内状況を府へ報告した年報の控え。多くのことにつき、具体的な数字を知ることができる。他に1889年以前分の断片も残っている。

         その他にも、明治前半期に使用の英独語で書かれた教科書、明治後半期以後の日誌類、校友会誌『六稜』とその前身誌全冊など多数。それらの史料は図書館で保管しているが、大阪府最古の中等学校の故に、その多くは掛け替えのないもので、永久保存は関係者の義務であろう。
         同じことは、林 重義(28期)、佐伯祐三(30期)、吉原治良(36期)、手塚治虫(59期)などの芸術作品、野間 宏(45期)の自署入り著作集をはじめとする受贈図書や貴重図書などについてもいえる。これらも永久保存されねばならぬ。
         このとき、六稜史料館(仮称)建設構想ありと仄聞する。わが胸は躍る。実現を切望する。
         また、竹山 聖氏(85期)の校舎改築案を瞥見の機会に恵まれる。僭越ながら、氏こそ、歴史的感覚に富む建築人というべきか、と思う。この案は是非とも実現したいものである。

       ところで、自明のことを一言。貴重資史料や貴重図書は、校外の公共図書館等に寄贈して保管すればよい、との意見をきくが、先輩諸兄姉は母校北野に作品・図書などを寄贈したのである。受贈者である北野高校は、そのことを絶対に忘れてはなるまい。無論、一般市民に広く観賞・閲覧の機会があるのは望ましい。約10年前、校内で非公式に、図書館利用の市民への公開を検討する時期になってきた、といったことがあるが、真剣に考えるべきである。なお、百年展以後、記念展示は公開性を次第に高め、昨年の120年展では、祝日の11月3日を公開日としたし、十三のタウン誌も六稜会展ともども、取材、報道したのであった。
       記念展示は、中村 弘先生(49期)の御指導による点が多い。中でも110年展のとき、佐伯祐三研究上重要な未発表書簡4通(北野での級友神吉逸治宛)が神吉 健氏の御好意で展示されたが、その契機は中村先生によって与えられたのであった。
      図書館のことなど
       いつの間にか、話題は図書館のことに入っているが、私は、校史編纂委員会が1973年度末でなくなり、図書館に校史業務は属することになったので、翌74(昭和49)年度から図書館係に、そして長く主任を仰せ付かることになった。
      1963(昭和38)年度の校務分掌大改定以前、図書館は教務部所属だが、歴代主任は次の通りである。(敬称略)

      雫石鉱吉(1948〜61)→錦田眞和(1962〜66)→眞田重雄(1967〜70)→高木種夫(1971〜72)→山脇謙吉(1973〜75)→上田浩石(1976)→柏尾洋介(1977〜89)→小出 猛(1990〜 )

       錚々たる顔ぶれの中で、13年間主任を続ける間に、社会相の急変に抗し難く、とわが無能ぶりを棚上げしていっておくが、蔵書冊数は増加して閲覧室の一部を臨時書庫に転用したものの、利用度は低下の一途をたどった。

      年度蔵書冊数延べ利用冊数
      195319,47014,104
      196330,42717,518
      196834,89811,675
      197342,2895,483
      197848,6213,746
      198354,5383,821
      198860,2775,793
      199365,5132,896
      注1.蔵書冊数は全日制・定時制合算。ほかに旧職員図書未整理分1万冊以上。(延べ利用冊数は全日制分)
      注2.1953年に旧図書館が、68年に現図書館がそれぞれ開館した。

         図書館業務の大半は、すでに整っていたから、私の在任中に始めたことといえば、図書費の予算制導入(1978年度)と図書館報発行(1982年7月、年3回刊)くらいである。図書費の全額が府費になってからも、おおらかな北野の教職員は予算制を採らなかったが、少々不便につき、78年度に導入した。これに関する会計事務から分類・出納や生徒の読書相談などまで、図書館業務万般は助手の中川淑子さんの尽力による点が甚だ大である。
       『休暇中の読書』を『図書館報』に発展させることができたのは、中野祐二・小川泰彦・寺井あかね各氏のおかげであり、題字は高岡靖弘氏が快く引き受けて下さった。
       しかし、中野・小川・寺井・高岡の諸氏は、両三年来の促進人事で誰ひとりとして、もはや北野には居ない。


      おわりに〜愚痴を交えて
       話題は強制異動に戻るかのようであるが、次の表を一覧していただきたい。1982(昭和57)年春にはじまった促進人事は、初年度に伏谷曄矣・水落和沖両氏という文字通り掛け替えのない方々を北野から奪った。異動基準がその後強化され、60歳定年制が施行(1985年春)されると、定年直前の退職者が幾人も出たが、逆に数年で転出する教師は減った。その他の注は省くが、ひとつだけ数字を紹介する。昨春・今春の着任教師の平均年歳は43.5歳と41.8歳、離任者は定年退職者を含んで44.7歳と38.4歳である。北野は少しも若返らず、骨を埋めることができなくなっただけではないか。北野という“文化環境”(110周年時の村田義人校長の言葉)を担う教師のことを云々するのは、これくらいにしておこう。ただ、校風というものをどう考えるか、母校というものをどう考えるか。然るべき人にききたいものである。

      年常勤
      教員数
      その
      平均
      年齢
      北野での
      平均在職年
      北野での在職期間
      20年〜15〜20年10〜15年5〜10年〜5年
      19665740.29.54人14人8人8人23人
      19715643.812.41566218
      19765744.914.217417712
      19816542.312.614156921
      19866739.59.013351927
      19916940.37.952142424
      19946441.87.932122324

       最後に北野への批判と提言を少々。北野の校風がいつまで生きていられるか、心配ではあるが、元来から問題がなかった訳ではない。草創期は男女共学であったのに女性(教職員も生徒も)と教員以外の職員の立場を忘れ勝ちではなかったか。男子生徒のみを想定した校歌の歌詞を変えよ、などと馬鹿げたことをいうつもりは毛頭ないが、女性から見た、あるいは事務職員等から見た「北野戦後史」もあって良いと思う。北野の新しい発展のためにも。

      (1994.8.12)


    原典●『六稜會報』No.28 pp.6-9